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国泰寺 (広島市)

国泰寺(こくたいじ)は、広島県広島市西区己斐上の大茶臼山西麓にある曹洞宗の寺院である。山号は蓬莱山。本尊は聖観音菩薩。文禄3年(1594年)、安国寺恵瓊が現在の広島市中区中町に臨済宗の寺院「安国寺」として創建したのに始まる。本堂建立に際しては朝鮮出兵で恵瓊が持ち帰った材木が使用された。開基時においては現在の愛宕池跡付近が海岸線であり、それより南には広島湾が広がっていた。関ヶ原の戦い後に恵瓊が刑死し、毛利氏に代わり広島に入封した福島正則の弟・普照が入寺すると、寺号は国泰寺と改められ同時に曹洞宗に改宗した。福島氏ののち浅野氏の帰依を得て同家の菩提所となり寺領400石が寄進され、この地域における曹洞宗15ヶ寺の触頭の任に当たった。境内の面積は1町7反(約130m四方)に及び、元禄6年(1693年)にはさらに100石の加増を受け、広島藩5ヶ寺の一つとなった。また、寛永11年(1634年)までに境内から南の海面が埋め立てられると、新開地はこの寺にちなみ「国泰寺村」(現町名・国泰寺町)と命名された。元治元年(1864年)の第1次長州征伐に際しては、幕府軍の総督府(総督は尾張藩主徳川慶恕)が置かれ、切腹した長州藩3家老の首実検が行われた。翌慶応元年(1865年)には事後処理として幕府から派遣された永井尚志らの訊問使(近藤勇・伊東甲子太郎ら新選組幹部も同行)が、当寺で長州藩家老宍戸璣(山県半蔵)への糾問を行っている。また、明治期に入って明治6年(1873年)から明治9年(1876年)までには県庁仮庁舎が寺内に置かれていた。戦前、寺の境内にあったクスノキの大木は樹齢300年で国の天然記念物指定を受けていたが、その根は境内の外の道路にまで伸びていたため、大正期になって寺の西側の通りに広島電鉄宇品線が開通した際、この近辺の軌道はクスノキの根を避けるよう若干カーブして敷設された。また県立広島一中の校章に取り入れられるなど、当時の広島の風景を代表する存在として市民に広く親しまれていた。昭和20年(1945年)8月6日の原爆被災で爆心地から500mの位置にあった寺は全焼全壊し、境内の大楠も根元から倒壊した。第二次世界大戦後に再建、昭和23年(1948年)には藩政期以来境内に置かれていた浅野長晟以降の5藩主および一族の墓所が牛田町神田山の浅野家墓地に移転した。隣接する白神社(現存)とともに、古い時代からのランドマーク的建造物であった当寺は、市内の再開発が進むなか昭和53年(1978年)に己斐に移転、現在に至っている。中町の旧境内には現在、広島全日空ホテルが建てられており、同ホテル正面に残された寺の遺構(愛宕池跡)が往時を偲ばせている。「愛宕池跡」を除き、いずれも中町から移築。

出典:wikipedia

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