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土井淳

土井 淳(どい きよし、1933年6月10日 - )は、岡山県岡山市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。1949年4月、岡山県立岡山東商業高等学校に入学。その年の8月31日に岡山県立岡山産業高等学校と合併し岡山県立岡山東高等学校となり、同学年の秋山登と出会う。それまで遊撃手だったが、1950年から捕手に転向。その頃から、明治大学を経て、プロの大洋ホエールズ時代まで約18年間に渡って秋山とバッテリーを組み続けた。転向して一年後の1951年、夏の甲子園に出場。1回戦で中西太率いる高松第一高等学校と対戦したが、その中西にランニングホームランを打たれるなど3対12で敗退。1952年、住友金属から内定をもらっていたが、「東京六大学に是非行け」という周囲の勧めで、推薦で早稲田大学を受験することになり、監督の森茂雄(後の大洋球団社長)からも了解をもらったが、進学適正検査を受けていなかったため受験することが出来ず、検査の必要がない明治大学商学部商学科に入学。明大時代の2年秋・3年春・4年秋の3回リーグ優勝を経験、3年秋・4年春に連続してベストナイン(捕手)を獲得。4年生時の12月にはマニラで開かれたアジア大会に出場し、見事に6勝1分で優勝する。この時のチームは、同じ明大の秋山、近藤和彦、立教の長嶋茂雄ら、そうそうたるメンバーが揃い、16人中14人がプロに進んでいる。また、島岡吉郎監督に「土井と高田繁だけは殴っていない」と言わしめた島岡門下の優等生であった。大学卒業後、1956年4月に大洋ホエールズへ入団。プロ入り時には西鉄の監督だった三原脩(後の大洋監督)が「土井をどうしても獲ってくれ」と言っていたが、土井は秋山と「せっかくここまで縁があってきたのだから、プロもバッテリーで挑戦しよう」と決めていた。明大3年時には巨人との約束ができていたが、秋山の腰の状態を気にして白紙に戻される。その空白を突いて大洋が秋山、土井を含む5人を明大から獲得した。1960年からはコーチ兼任となり、正捕手として球団初のリーグ優勝と日本一に貢献。なお、大毎との日本シリーズ第4戦で最後の打者が三振した際、土井は嬉しくてウイニングボールをスタンドへ放り投げ、そのまま行方不明にしてしまっている(土井は島田源太郎の完全試合のウィニングボールも同様に行方不明にしてしまっている(「さらば、愛しきプロ野球…。」で本人談))。同年にはベストナイン(捕手)も受賞。打撃は非力で生涯打率.215に過ぎないが、強肩とインサイドワークなど守備力が高く評価され、三原からは「グラウンドの指揮官」と呼ばれた。1964年からは伊藤勲に定位置を奪われる。1968年には巨人との開幕戦で、5回の無死満塁で打席に入ると金田正一の真ん中高めのストレートを弾き返し、史上初の開幕戦グランドスラムを達成したが、同年の本塁打はその一本に留まり、引退した。引退後は大洋の一軍バッテリーコーチ(1969年 - 1973年)を務め、3年連続Aクラス入りに貢献。退団後は「グラウンドの外から野球を見たい」という事でフジテレビ・ニッポン放送解説者(1974年 - 1977年)を務め、1978年にヘッドコーチとして大洋に復帰。別当薫監督を支え、1979年のAクラス入りに貢献。1980年からは監督に就任。同年にアリゾナ州メサで行われた球団史上初の海外キャンプには親会社の大洋漁業から300帖の海苔が差し入れられ、梅干を36キロ持ち込むなど初の体験に球団は力を入れたが、現地が100年に1度という異常気象で大雨が続いてまともにキャンプが送れなかった。ペナントレースでは開幕から5割前後の成績を残すと6月7日から4連勝、連敗を挟んで6連勝で首位の広島に3.5ゲーム差と肉薄したが、そこから引き分けを挟んで12連敗を喫して一気に転落。4位に終わる。2年目の1981年も同様にメサでキャンプを施行したが、今度は野球用具約64万円分が盗難に遭ってしまう。ペナントレースでも開幕から低迷し、シーズン中の9月24日をもって休養となり、残りの試合は山根俊英が監督代行を務めた。最下位に終わり、同年退任。その後は再びフジテレビ・ニッポン放送解説者(1982年 - 1984年)を務め、1985年、吉田義男監督の招聘で阪神タイガース一軍ヘッド兼バッテリーコーチに就任。笠間雄二・山川猛との併用が続いていた木戸克彦を正捕手に育て上げ、21年ぶりのリーグ優勝と初の日本一に貢献。1987年退任。また、ラジオ番組「土井淳の元気UP!朝一番!」(ニッポン放送制作であるが同局では放送せず一部の地方局で放送)のパーソナリティを1992年から2006年9月まで務めた。1980年頃、同じ土井繋がりで土井正三とともにカメラ量販チェーン「カメラのドイ」のCMに出演したこともある。秋山の死後、横浜DeNAベイスターズ球団OB会の会長を務めた。打撃は非力ながら、名捕手として鳴らした土井を支えたのは「ダンス式リード」と呼ばれる配球術だった。「スロー、スロー、クイック」はワルツのリズムで変化球、変化球、ストレート。「スロー、スロー、クイック、クイック」はブルースのリズムで変化球、変化球、ストレート、ストレートという具合だった。また、「棒立ちタッチ法」も多用。バックホームの送球が目の前に迫ってくるまで、知らぬ顔して棒立ちになり、ランナーがスピードを緩めると、いきなり捕球体制をとり、タッチアウトにした。その他では、マウンドに顔を向けたまま、一塁に矢のような送球でランナーを刺すというのも得意とした。

出典:wikipedia

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