小里城(おりじょう)は、岐阜県瑞浪市にかつて存在した日本の城(山城)。小里光忠が天文3年(1534年)に小里川南岸の城山に築いた。それ以前は付近の興徳寺の西に小里新城があり、土岐氏や小里氏の居城だったとされる。小里氏は土岐元頼ないしその子の頼連から始まったとされ、元頼の戦死後は諸国を放浪したが、越前国の朝倉氏の後援を得て土岐、恵那両郡の旧領・約3,600石余を取戻した。ただし、築城者の光忠が土岐氏の系譜を引くかは不明とされる。光忠は織田信長に従ったが元亀3年(1572年)の武田家の岩村城攻めに伴う上村合戦に敗れた。光忠の子・光明は、天正2年(1574年)に小里城に在城しており、織田信長は岩村城を攻める拠点として鶴ヶ城 (美濃国)に河尻秀隆、小里城に池田恒興を御番手として入れ、改修を行なった。なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止された。天正11年(1583年)、小里光明は織田信孝に仕えたが、賤ヶ岳の戦いにより豊臣秀吉に敗れて信孝が自害した後は、森長可に攻められて小里城を離れ、和田姓を名乗って徳川家康に仕えた。その後、関ヶ原の戦いの功によって光明の子・光親は慶長5年(1600年)に土岐、恵那郡の旧領を再び与えられ、小里城に帰還し陣屋を構えた。しかし光親の子・光重は嗣子がないまま元和9年(1623年)に亡くなったため、小里氏は断絶した。現在は県指定の史跡で、城跡は、山頂部の「本丸曲輪跡」と北西山麓の「御殿場跡」と呼ばれる居館跡、及びその東側の尾根上の「東砦跡」からなる。本丸曲輪跡の指定面積は三、九九〇平方メートル、御殿場跡及び東砦の一部の指定面積は二三、〇一三平方メートルである。本丸曲輪跡には、不等辺六角形で半地下構造の「天守台」があって三段に石垣が組まれ、築城用の割石が散在している。他に「升形」と呼称される石組み遺構・石垣を使用した「曲輪」跡が存在する。御殿場跡は、少なくとも十六世紀後葉には造成され、十七世紀初頭には、大型の礎石建物(旗本小里氏の陣屋にあたる)が建てられ、十七世紀前葉に廃絶したことが判明している。大手門跡、御殿跡、井戸跡、石垣などがある。また、一の木戸、石垣、井戸などの残る一帯が小里氏の陣屋だったとされる。小里城の遺構は、史料にみえる小里氏や小里城の経緯とおおよそ照応でき、また、近世初頭の城館(陣屋)遺構が良好に残存していることなど、小里氏の実像解明や江戸時代初頭の旗本陣屋を考究する上でも、重要な遺跡であると高く評価できる。アクセス
出典:wikipedia
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