エラン("Elan" )は、イギリスのスポーツカーメーカーであるロータス・カーズが1962年から1975年まで、また1990年から1995年まで製造していた乗用車である。初代はFR方式、二代目はFF(FWD)方式で駆動方式には何らつながりはないが、鋼板によるY型バックボーンフレーム+フロアまでFRP一体構造のオープンボディ、よく考えられた高度な4輪独立サスペンション、エンジンや変速機などを含め随所に量産車の部品を流用してコストダウンを図るなど、設計コンセプトや基本構造には強いメカニズム的共通性が見られる。ビジネス拡大を望んだコーリン・チャップマンは北米市場を意識せざるを得なくなり、初のロータス製GTカーとして作られた初代ロータス・エリートよりも豪華でかつ人気のあるオープンカーを北米戦略モデルとして開発した。開発コードネームはタイプ26である。1962年のロンドンショーで公開された。英国フォード・コーティナの直列4気筒OHVのフォード・116E型がベースではあるが、初の自社開発エンジン「ロータス・ツインカム」を採用した。ロンドンショーでの発表からごく初期に販売された22台は内径φ80.96mm×行程72.75mmの1,498ccのままながら鋳鉄ブロックにツインカムヘッドを載せてウェーバー製45DCOEキャブレタ−2基を搭載し、9.5という高圧縮比で、最大出力は100hpを発生した。エリートの特色であったFRPモノコックボディは生産性の低さやこもり音などの問題があり、販売上オープンモデルの生産が必要であったため採用されず、プレス鋼板を溶接して組み立てた強固なバックボーンシャシにFRPのボディを架装する方式を採用した。バックボーンフレームとFRPボディの組み合わせはすでにアルピーヌも使っていたが、スチールパネルを溶接したボックス断面のバックボーンは独自のものである。ファイナルユニットのディファレンシャルからの雑音に悩んでいたコーリン・チャップマンが、同クラスでY型に近い変形バックボーンフレームを持ち、結果的に雑音を解消していたトライアンフ・ヘラルドのシャシ構造にヒントを得て考案した。ロータス車の多くは、断面二次極モーメントが極めて大きくこれ自体が一種のモノコック構造と見做せるY型のバックボーンフレームを持つが、エランはその構造を最初に使った車である。前モデルのロータス・エリートで採用されていた、魅力的だが甚だ楽観的でもあり潜在的な欠陥を持つ後輪独立サスペンションチャップマン・ストラットはついに捨てられ、前輪ダブルウィッシュボーン、後輪ストラットの堅実な設計となりハンドリングが向上した。当初のモデル、通称シリーズ1(S1)はオープンボディのロードスターだけだった。完成車で1,495ポンド(キットカーフォームで1,095ポンド)という低価格、DOHCエンジンによる高性能、ロータスならではの卓越した操縦性などでヒット作になった。発売間もない1963年5月にエンジンが内径φ82.55mm×行程72.75mmの1,558ccに拡大し、出力105hp/5,500rpm、トルク14.9kgm/4,000rpmに強化された。1964年10月にはS2に進化した。メカニズムにほとんど変更はないが、ダッシュボードが木製になり、運転席側と中央だけだったのが助手席側までカバーされるようになり、蓋がなかったグローブボックスには鍵付きの蓋がついた。外観では左右2個ずつ丸型だった尾灯が楕円1個ずつに変更された。オプションでセンターロックホイールが用意された。1965年9月フィクストヘッドクーペ(FHC)モデルが登場、新たにタイプ36を与えられたことで分かるとおり単なる従来のエランのクーペ版とは言えないほど改良されていた。トランクリッドはボディ後端まで回り込んで大型化、トランクドアはヒンジ部を変更され、バッテリーはトランク内に移された。またパワーウィンドウが標準装備された。従来からのオープンタイプはタイプ26のまま生産が継続され、ドロップヘッドクーペ(DHC)と称された。1966年1月DHCにより豪華で高出力エンジンを搭載した「S2SE」が登場した。エンジンはカムシャフトなどヘッド周囲にチューンを施し115hp/6,000rpmに出力向上した。オプションだったトランスミッションのクロスレシオが標準とされた。ブレーキはサーボアシストが装備された。緑色だったエンジンヘッドカバーが青色にされた。足回りもセッティングが全面的に見直され、直進性旋回性とも格段に向上した。1966年6月にはオープンタイプがタイプ45に進化し、S3となった。基本的なラインはすでに販売されているFHCと共通とした。対候性改善のためDHCにウインドウサッシュが取り付けられるなど「基本的にはオープンで、緊急用にホロを持つ車」から「より本格的なコンバーチブルモデル」という色が濃くなっている。S3からは全車にパワーウィンドウが装備されたが、ロータスによるとこの理由は「手動式より軽い」ためだという。1966年7月にはFHCにもSE版の「S3SE」が追加された。またこの時期、ホイールがセンターロックのみとなった。1967年6月には初の「ファミリーカーとして使えるロータス」という触れ込みで、タイプ50を与えられ2+2の「エラン+2(プラスツー)」が追加された。ホイールベースは通常のS3比で+304mmの2,435mmに拡大され、トレッドが拡大され、それに伴いプロペラシャフト、サスペンションアーム、ドライブシャフトが伸長されているが、その他は通常のS3FHCを踏襲している。1968年3月にはS4に進化した。タイヤが従前の145-13から155-13へと幅広になり、これに伴いホイールアーチフレアが広げられた。尾灯が「エラン+2」と共通の大型になった。1968年10月豪華路線をより進めた「エラン+2S」が発売された。これまでロータスの車両は必ずキットモデルも用意されたが、これはコンプリートモデルのみしか販売されなかった最初のモデルとなった。1968年11月、世界的に自動車排出ガス規制が強化されていく風潮を察知しイギリス国内でゼニス・ストロンバーグ製キャブレター装着モデルを販売し、ウェーバー製やデロルト製のキャブレターを装着したモデルを一時生産中止したがどうにも不評で、1969年8月にはウェーバー製/デロルト製に戻された。1969年12月、通常の「エラン+2」が「エラン+2S」に先立って生産終了した。1971年2月にはウエストラインでの上下塗り分けを特徴とし最強最終モデルとなった「エランスプリント」が登場した。吸気バルブを拡大、圧縮比は10.3に向上、ウェーバー製40DCOEに加え、デロルト製DHLA40仕様も用意されて126hp/6,500rpm、15.6kgm/5,500rpmを発揮、クーペでは700kgに達していた車両重量と比しても充分で、最高速度は193.6km/h、0-60マイル/h加速は6.7秒という俊足であった。「エラン+2S」にもビッグバルブユニットは搭載され、「エラン+2S130」となった。また5速MTがオプションで用意され、「エラン+2S130/5」として販売された。この5速MTはスプリントにも搭載され「エランスプリント5」として4-5台販売された。1973年8月に2シーターモデルが生産終了。続いて「+2S130」が1975年に生産終了した。エリートよりも豪華で、かつ人気の高いオープンカーであったため、2シーターモデルが12,224台、2+2モデルを含めると約18,000台が生産され、ロータスを名実ともに一流のスポーツカーメーカーへと押し上げた。エランがデビューした当時の日本は、1963年に第1回日本グランプリが開催されるなどモータースポーツの勃興期だった。エランは当初は芙蓉貿易、後に東急商事の手で輸入され、浮谷東次郎、滝進太郎、三保敬太郎らのレーシングドライバーの手により1960年代半ばのレースで活躍した。俳優の伊丹十三、作詞家の保富康午も当時エランのオーナーだった。エランのバックボーンフレームは、トヨタ・2000GTのシャシ設計にも大きな影響を与えたと言われる。また流麗なスタイリングは、1980年代末に登場したマツダ・ユーノスロードスターが手本にしたと言われている。二代目エランは1976年から構想が始まり、当時提携関係にあったトヨタ自動車のエンジンを前提としたM90というプロジェクトで具体化した。その後4A-GEエンジンを搭載したプロトタイプX100が開発された。1986年以来ロータスはゼネラルモーターズの傘下に入っており、開発に当たってはGMグループ及び提携各社のコンポーネンツを用いることが要求され、エンジン/トランスミッションユニットのコンペティションが実施された。コンペでは三菱・ミラージュのサイボーグ・エンジンといすゞ・ジェミニの4XE1が残り、最終的には4XE1を日本の小山ガレージでライトチューンしたSPEC.のものが採用された。駆動方式は当初FFユニットをそのまま使ったミッドシップ方式も検討されたが、エンジンコンペが実施された頃にはFWDで固定されていた。これは開発コストの圧縮もさることながら、自動車メーカ各社からの委託研究業務も重要な収入源としているロータス・グループが、FWD方式の技術レベルを示す必要があったため、とも言われている。実際、FWDエランの操縦性は横加速度よりもヨーイングの発生を強く意識した独特のもので、とにかく横加速度を立ち上げて『応答性がクイックに感じられるように演出する』他のFWDスポーツハッチのセッティングとは明確に異なる。ソフトなばねで執拗にグリップする高度で難解なハンドリングと、差動装置の制限装置を持たないFWD車でありながら実現された高いトラクションは、ロータスの目論見通り、今日でもFWDスポーツのハンドリングに於ける規範の一つとなっているほど洗練されたものである。当時エンジン供給元であるいすゞ自動車を訪れたロータスの技術者は、『サーキットやフリーウェイではなく、地図上のA地点からB地点まで最短距離で移動する場合はエスプリよりも速く、恐らくロータス史上最速のクルマだろう』と語った。小規模・少量生産のため、大規模な金型や工作機械を必要としない初代エランに習った脆弱で複雑な車体構造を採用したが(FRPボディの成型技術であるVARI法の一部の特許をロータスが所有していたため、FRP一体ボディがMUSTだったという事情もあった)、その上でGMの量産車の社内基準を満たす強度・耐久実験を敢行して開発費が異常に高騰した。ロータスにて市販に耐えるレベルの強度・耐久実験が実施されたのはこのFWDエランが初であり、このクルマの開発で構築した試験方法や強度・耐久基準は、後のロータス各車の大幅な信頼性向上につながった。デザインはロータス・エスプリの1980年代のビッグマイナーチェンジも手がけたピーター・スティーヴンス("Peter Stevens" )によるもので、エスプリを前後に圧縮して屋根を切り取ったようなデザインを特徴とする。テールランプはアルピーヌ・V6ターボから流用している。デビュー当初はハードトップがオプション品として発表されたが、実際のデリバリーはされなかったようである。ダッシュボードのスイッチ類の多くはオペルやボクスホールのものを流用した。開発費がかさんだ結果アメリカ合衆国市場で4万ドル、イギリスで2万ポンド近くと高額になり、同じく初代エランを範としたとされるユーノス・ロードスターより5割以上割高になってしまった。このため立ち上がりから販売は芳しくなかった。ロータス史上前例のない高い信頼性とロータスの名に恥じないハンドリングを獲得したにもかかわらず、FWDレイアウトに対する保守的なスポーツカーファンからの否定的な反応や、主力市場米国での景気後退等の影響で商業的成功作にはならなかった。1992年までに3,885台が生産されたところで、3600万ポンドの累積損失とともに一旦生産は終了した。1994年、GMから経営権を買い取ったブガッティのロマーノ・アルティオリのもとで復活し、S2モデルとして800台が生産された。その後、生産設備一式は韓国の起亜自動車の手に移り、キア・ビガートの名で1996年から1997年まで生産され、日本にも少数輸入された。エンジンは起亜製の1,800cc/135馬力にパワーダウンし、一方サスペンションは英国に比べ劣悪な舗装の韓国に合わせ、車高アップを含めたセッティングの見直しが図られている。このサスペンションのリセッティングは、起亜ではなくロータスが担当したためロータス独特のハンドリングはビガートになっても健在であった。2010年モンディアル・ド・ロトモビルにおいてロータスより5台のコンセプトカーが発表された。その中の1台がエランで2013年に販売予定と説明されていた。しかしその後エランを含めた発表されたコンセプトカー5台全ての販売計画は生産前に中止となった。
出典:wikipedia
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