父二峰村(ふじみねむら)は、1959年(昭和34年)まで愛媛県の上浮穴郡にあった村であり、現在の上浮穴郡久万高原の西北部一帯の地域である。現在の久万高原町の西北部一帯。四国山地の中に位置する。土佐街道(概ね現在の国道33号)から西方の山を隔てた地域一帯。藩政時代http://www.pref.ehime.jp/shokai/oitachi.html明治以降露峰(つゆみね)、二名(にみょう)、父野川(ちちのかわ)の3つの大字があった。いずれも明治の村制発足前からの旧村である。1910年(明治43年)の人口が2,673人とある。※大洲-久万街道・・・未だ道路の開けていない頃の人馬の通る街道である。各地の碑文ではおよそ1,200年前頃か、弘法大師が四国巡錫の砌にこの道を通ったとされている。大洲の十夜ヶ橋の下で夜明かしをして、内子から小田川沿いにー大瀬(おおせー突合(つきあわせー田度(たどー臼杵(うすきー二名(にみょうの各村を経て久万の44番大宝寺へ向かったとある。各地には其の時の大師にまつわる謂われがある。例えば二名から久万へ超える鶸田峠がある。連日の雨続きだったのがこの峠でやっと晴れたとか。「日和だ」がなまって「ひわだ」になったとか。大師の通った道を歩くと決めたお遍路さんはこの道筋を歩いている。おそらく最も古くからの遍路道であろう事は疑う余地もない。※役場は二名にあった。二名にはかつては小学校(明治40年に父二峰尋常高等小学校の分校として開校した)もあった。大字二名におかれていた。米麦、とうもろこし、小豆、粟、ソバなどを産し、養蚕、畜産なども営まれた。鉄道等はない。バス=三共バスがあった。昭和16年(1941) 年頃には当時の小田町村・突合(つきあわせ)が始発で-田度-二名-久万町間に午前・午後の二便があった。このバスは三共自動車のバスでその後昭和19年に伊予鉄道が合併し、伊予鉄バスの発祥と成った。其ののちも30年代まで運行されていた。此の路線廃止後、平成20年現在は久万 - 二名の富重部落間の伊予鉄南部バス一日3便の運行を残すのみとなる。(詳細は要約の参考URLを参照)http://www.iyotetsu.co.jp/company/history/index02.html
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。