桐生市(きりゅうし)は、群馬県の東部に位置する市の一つ。日本を代表する機業都市であり、奈良時代から絹織物の産地として知られ、桐生織は京都・西陣の西陣織と並び称された。その歴史を物語るように、市域には数多くの歴史的建造物、史跡などの文化財が残されている。1921年(大正10年)の市制施行当時の区域は旧山田郡。現在の市域は、旧山田郡・足利郡・安蘇郡・勢多郡の区域で構成される。市域人口は約12万人。上毛かるたで「桐生は日本の機どころ」と詠まれるなど、古くから絹織物の産地として知られる。川内町北部は古く仁田山と呼ばれ、仁田山紬の産地として知られた。地名の由来は、「桐が多く自生する土地」から「桐生」とも、「霧が多く発生する土地」から「霧生」とも言われているが、どちらも決め手は無い。1889年(明治22年)に町村制が施行され、山田郡桐生新町を中心とする町村合併によって桐生町が発足した。桐生町は1921年(大正10年)に東毛地域内で最も早く市制を施行した。旧市街地には商家や鋸屋根の織物工場など歴史的建造物が残っている。日本を代表する絹織物の産地であり、製糸、撚糸、染織、縫製など、繊維に関する様々な技術が集積していることから「織都(しょくと)」という雅称がある。絹織物の繁栄により蓄えられた富は、桐生明治館・桐生倶楽部・水道山記念館など多くの文化財や市営桐生が岡公園・大川美術館などを生んだ。下水道普及率も70%を越え、群馬県内の市では高崎市と並んでトップレベルにある。市のキャッチフレーズは、「伝統と創造、粋のまち桐生」。絹織物によって育まれた高い技術によって、パチンコ産業や自動車部品産業などでいくつもの優良企業が誕生した。また、地元に国立群馬大学工学部がある利点を活かし、産学官連携による次世代のエネルギー産業の育成にも積極的に動いている。長く桐生競艇からの収益に依存したこと、高い起業熱や優れた人材の多さが市内から全国区の優良企業を多く生んだことなどから、県内他市と比べて大型工場の誘致に熱心でなかった。その結果、現在では人口減少という深刻な課題が生じている。さらに、両毛地方ではモータリゼーションの進展に伴う中心市街地の空洞化が問題となっており、伝統的建造物を利用した旧市街地の活性化が図られている。野球が盛んで「球都」と呼ばれる。市内には全国制覇を経験した桐生第一高等学校や、甲子園で準優勝を二度果たした群馬県立桐生高等学校があるほか、硬式野球部を持つ7校中5校が甲子園を経験している。隣接するみどり市とは、様々な方面で相互補充の関係にあり、東毛エリアでも一括りに扱われることが多い。関東平野の北端、足尾山地の南西端にあり、前橋市から東に約24km、熊谷市から北に約29km、宇都宮市から南西に約52kmの場所に位置する。渡良瀬川の中・上流域を市域とし、土地は渡良瀬川が流れる市南部の境野町・広沢町付近が最も低く、市内最高峰は市北部の黒保根町下田沢にある赤城山を構成する主峰・黒檜山である。市域の7割以上が山地で、少ない平地の大半が人口集中地区となっており、桐生市街地は、桐生川が足尾山地から関東平野に流れ出す地点に形成された谷口集落を基礎として発達している。新里地区・黒保根地区(旧新里村・旧黒保根村、2005年(平成17年)に桐生市に編入)は、桐生市中心部とは間にみどり市(旧勢多東村・旧大間々町・旧笠懸町、2006年(平成18年)成立)を挟んで離れており、飛地となっている。平成の大合併以前の旧桐生市の面積(137.47km²)と、飛地として加わった旧新里村・旧黒保根村の合計面積(137.10km²)がほぼ同じであり、このような大規模な飛地のある自治体は日本でも数えるほどしかない。気候区分は太平洋側気候に属するが、夏と冬の気温の差が大きい中央高地式気候の特徴もみられる。2006年(平成18年)3月1日より、群馬県における天気予報および注意報・警報の細分区域が変更された。一次細分区域は、桐生市を含む区域については、これまで通りの「南部」とされ、二次細分区域は、かつての「前橋東毛」(黒保根町を除く桐生市)・「赤城榛名」(黒保根町)から、全市域が「前橋・桐生地域」という区分となった。「前橋・桐生地域」には、桐生市・みどり市の他、前橋市、渋川市、北群馬郡が含まれる。この地域の歴史は古く、奈良時代には既に朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されている。養蚕業・絹織物業がこの地域において栄えた理由については諸説があるが、中央(大和地方)からその技術を持った人々が移り住んだ結果という説が最も有力である。それを思わせる伝承も「白滝姫伝説(「桐生織」の項目を参照)」によって、当地方に語り継がれている。織物業はその後の桐生の発展の基盤となり、現在に至っている。『吾妻鏡』などの文献によれば、平安時代末期に桐生六郎の名が見えることから、地名としての「桐生」は平安時代には既に存在していたと考えられている。ついで1350年には柄杓山(城山)に城を築き、桐生氏(藤姓足利氏の系統)の始めとされる桐生国綱、1500年代中ごろに桐生氏の全盛期を築いた桐生助綱の名が見られる。桐生氏は1500年代後半に由良成繁によって滅ぼされ、以降成繁は柄杓山城を本拠としたが、子の国繁の時に豊臣秀吉の小田原征伐により領地替えが行われた。1600年、関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣中、急遽西進し石田三成を討伐することを決定するが、その際に不足した軍旗を僅かの時間に揃えたのが桐生の村々であった。これにより桐生の絹は一層名を高めたという。現在の市街地が形成され始めたのは1600年頃、徳川家康の家臣であった大久保長安の命令を受けた大野尊吉によるものとされる。渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に桐生天満宮を基点として桐生新町が形成され、絹織物業の発展とともに市街地は郊外に広がっていった。起点となった天満宮前は現在の本町1丁目となっており、2丁目とあわせて当時の区割りと建物がそのまま残された景観が保たれている。桐生の織物産業の将来性は江戸幕府にも高く評価され、幕府の成立とともに天領とされた。近隣の村々(みどり市、旧藪塚本町(現太田市)、旧新里村)などの農村部では、養蚕が盛んに行われ、多くの富を蓄積。日光・川越・八王子と陸路で結ばれ、全国に広く絹織物を広めた。天保年間に全国に先駆けてマニュファクチュアを導入。明治・大正・昭和初期にかけて日本の基幹産業として発展し、外貨獲得に貢献した。戦後は、和装離れから絹織物産業は下火となったが、代わって自動車部品産業やパチンコ産業が台頭。幾つものチャレンジングな企業が生まれ、今日の桐生を支えている。"#交通も参照。"全市域を一つの選挙区として選出される。古くから織物産業が栄えたが、現在は機械金属産業とあわせて二大基幹産業となっている。伝統の織物業は、炭素繊維を用いた特殊布や、映画・ドラマ衣装などで生き残りをはかっている。ハリウッド映画の『SAYURI』で、主演のチャン・ツィイー、コン・リー、桃井かおりらが身につけていた丸帯は、桐生市で作られたものである。ミツバ、山田製作所など自動車部品関連産業も盛んである。『築地銀だこ』を展開するホットランドや、中古物件販売で業績を伸ばすカチタスなど、中小の新興企業にも元気の良い企業がある。中心市街地においては、郊外に広大な農地を持たなかったため、大型商業施設が出来ず、近隣他市(伊勢崎市・太田市・足利市等)と比べて比較的商店街としての機能を保っており、個人商店・小規模小売の力が強いといえる。また、市街地地価の下げ止まり感から、新川公園など充実したインフラを求めて幾つかのマンション建設計画があるなど、市街地回帰現象も見られ始めている。桐生市は、北関東工業地域のうち、関東内陸工業地域に属する。桐生市内に本店または支店を置く銀行、信用金庫、労働金庫ATMコーナーのみ設置されている銀行かつては平和、SANKYO、フライングガーデン、ホットランドの本社もあった。市内の政治・経済・文化を扱う桐生タイムス新聞社・FM桐生がある。市制施行当時の行政区画は町制時代の5つの大字(桐生・新宿・東安楽土・西安楽土・下久方)に基づく5区体制であったが、市勢の発展に伴い、旧区画では対応がむずかしくなったため、1929年(昭和4年)に10区体制に移行した。その後、昭和初期の境野村・広沢村合併、昭和の大合併、菱村の越境合併により11区から17区が新設され、相生町の人口増加により15区の一部が分離し18区として新設された。平成の大合併では、新里村・黒保根村と合併し、19区から22区が新設され、22区体制となった。桐生市立中学校の適正規模・適正配置実施計画によって、市街地に所在する中学校が、次のように再編された。"#都市計画も参照。"本市は群馬県随一の鉄道密集地帯で、合計4事業者の鉄道路線が市内に乗り入れており、私鉄各線は市内に多数の駅を有する。小規模ではあるが駅前に中心街と異なる独自の商店街を形成する駅も多い。ターミナル駅が事業者ごとに各所に分散しているため乗換利便性は良いものとは言えず、徒歩連絡を有するケースが多い。※市内に高速道路はないが、隣接する太田市に北関東自動車道の「太田藪塚IC」と「太田桐生IC」がある。(2008年3月8日開通)いずれも桐生駅南口に発着する。桐生織や桐生和紙などの伝統工芸品や、桐生からくり人形といった伝統芸能が根付いている。北関東でも有数のコンサートプロモータである「桐生音協」のお膝元であり、市内や周辺市町村のホールなどではジャンルを問わず様々な公演が多数行なわれている。わたらせフィルムコミッションが活動し、映画撮影誘致にも積極的である。このFCの設立には行政が加わっていない完全な民間による団体である点に特徴がある。"#公園・緑地も参照。"#スポーツ施設も参照。"桐生境野広沢梅田相生川内菱新里黒保根桐生境野広沢梅田相生川内菱新里黒保根五十音順指定金融機関は足利銀行であり、足銀をメインバンクにしている企業も多かった為、2003年11月29日に特別危機管理となり破綻した際には、市内への影響が大きかったため、桐生市役所内に足利銀行関連相談窓口が設けられた(平成16年 第3回定例会)。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。