ウィキペディア日本語版(ウィキペディアにほんごばん)は、ウィキメディア財団が運営する多言語インターネット百科事典プロジェクト「ウィキペディア」の日本語版である。ウィキペディア日本語版は2001年5月頃に発足したものの、当初は編集者も少数で、ローマ字表記の項目が約23項目とコンテンツもほとんどなく、認知もほとんどされていなかった。2002年9月のシステム更新によって日本語表記に対応するようになり、2003年から2004年にかけていくつかのマスメディアで取り上げられたことがきっかけとなって認知され始めた。漫画やアニメのトリビア的な記事、声優の紳士録的記事など、日本語版ならではの記事が急増した時期もこの頃である。2005年以降はWeb 2.0ブームの一端として大手マスコミにも取り上げられるようになり、インターネットに接する一般市民にも認知されていった。現在では検索エンジン最適化により、Google検索を初めとする検索エンジンで記事が上位に表示されることもあって、認知度や閲覧数も高い。一方で、記事の内容やサイトの運営などに関し、様々な課題も指摘されている。他の言語版に比べた特徴を述べる。2013年10月現在、純記事数では、13番目の規模のウィキペディアであり(主要語にラテン文字が用いられないウィキペディアとしては、ロシア語版に次いで2番目)、最大の英語版の約5分の1の規模である。2005年上期までは英語版、ドイツ語版に次いで純記事数3位であったが、その後は他言語版に抜かれている。なお、内部リンク数は、3位を維持し続けている(後述)。日本の著作権法は、アメリカ以外の多くの国と同様に、著作権の行使が制限される範囲を個別に定めており、ウィキペディア日本語版では個別に定められた範囲外で著作権のある画像を使用することが禁止されている。このため、英語版ウィキペディアでは、包括的にフェアユースを認める米国法に基づいて画像が使われているのに、日本語版には一切ないという現象がよくみられる。日本語版の大きな特徴の一つは、編集をする利用者のうち登録せずにいる利用者の比率が高いことである。2007年12月時点で、編集回数の約40%はログインしない(IPユーザー)によるものであり、これは主要10言語のウィキペディアのうちで最も高い割合となった(右グラフ参照)。2010年にはIPユーザーの比率が5割近くとなっている。アンドリュー・リーは、他言語版およびウィキメディアプロジェクト群全体の国際コミュニティとウィキペディア日本語版コミュニティとの間の連携が強まっていない原因の一つが、この登録済み利用者の少なさだと指摘している。たとえばウィキメディアの国際会議、第1回ウィキマニア(2005年)において、ウィキペディア日本語版からの会議出席者はわずか2名であり、より編集者数の少ないオランダ語版や中国語版からの出席者数にも及ばなかった。1日当たりの記事新設数は日本語版設置後順調に伸び続けたが、2007年3月の469件をピークに減少傾向にあり、2008年5月の1日当たりの記事新設数はピーク時と比較して49%減の240件にとどまった。2009年1月に一時300件台を回復したが再び減少に転じ、2008年5月以降は一部240件台もあるものの、概ね200件台後半で推移していたが、2010年5月以降は再び減少傾向に転じ、2011年5月以降は概ね150件前後で推移している。2012年8月にはピーク時以降で最小となる131件を記録した。2013年4月現在の日本語版の記事新設数は143件であり、内部リンク数上位10言語版(英語版、ドイツ語版、日本語版、スペイン語版、フランス語版、ポーランド語版、イタリア語版、ロシア語版、ポルトガル語版、オランダ語版)の中で内部リンク数ではドイツ語版に次ぐ3位につけているものの、記事新設数では10位である。1か月間に5回以上編集した利用者は2007年1月以降4,000名から5,000名の間で推移し、2008年1月に最高の4,989名に達した。月に100回以上編集した利用者は2007年1月以降概ね400名から500名程度で推移し、2007年3月に最高の566名に達した。しかし、どちらも2008年1月前後を境に緩やかに減少傾向にある。特に、月に100回以上編集した利用者の減少の方が著しい。2013年4月に5回以上編集した利用者は4,164名、100回以上編集した利用者は352名で、内部リンク数上位10言語版のうち、5回以上編集した利用者数は5位、100回以上編集した利用者は7位である。1か月当たりの総編集回数は、2007年3月と10月の53万1千回をピークに活動中の利用者の減少と同様に緩やかに減少しており、2008年1月から5年2ヶ月に渡り50万回に達した月がなかったが、2013年3月に一時的に55万9千回に達した。しかし、翌月には再び50万回を切っている。全体的な傾向としては、年々減少を続け、特に2013年5月からは2006年3月以来保っていた月間編集30万回を割り込むようになった。さらに2013年8月以降には25万回台の月が何度も現れるようになった。これらのことから、日本語版は一時的な活動活発化が見られることはあるものの、全体的な活動低下傾向が長く続いていることが分かる。また記事の増加が著しかった時期によく見られた1人の利用者が速いペースで次々に記事を編集していく行為は少しずつ鳴りを潜めていっていることが窺える。が同規模の他言語版に比べると少ない。2009年8月時点の日本語版の言語間リンクは320万リンクであり、内部リンク数上位10言語版のうち最下位である。2008年10月20日現在の記事のダンプデータによると、言語間リンクを一つも有しない記事は約28万件あり、当時の総記事数約51万件の半数以上に上る。これは日本特有の事象を挙げた記事が多いのも一つの要因である。また、日本語がラテン文字を使わない言語であるために、他言語版の執筆者が日本語版の記事名および記事本体をまったく読めず、他プロジェクトからの支援を受けにくいという事情もある。他言語版の上位10のうち7言語版は、その言語の主な使用国内に個別の協会([[ウィキメディア財団#国別協会]])を持つのに対し、日本語を主に使用する日本国内には国別協会がない。管理者陣は単なる[[ユーザーグループ]]で、多くが匿名である(→)。収録されている項目数は一般の[[百科事典]]を上回るが、学者らにより執筆される書籍の百科事典と比較して内容の信頼性を疑問視する声もある。ウィキペディアは間違いや問題のある記述がなされた場合、それを善意の利用者らが修正して精度を高めるという考えを取っているが、プロジェクトの匿名性と、何を記事化するかは個々人に一任される完全な[[自由主義]]、徹底された[[民主制]]のため、悪意ある書き手を防ぎ切れないという指摘がある。また、後述するによる(記事の編集が禁止される)編集の状態が長く続くことにより、誤りや問題のある記述が公開され続けることや、「百科事典」として当然書かれるべき事や外部のそれなりに権威あるウェブサイトもしくは新聞・通信社において報道されている事実などが項目により記述が認められないことについて運営の偏向性を指摘する声もある。しかし[[査読]]制度を取らないウィキペディアは“内容の信頼性”は利用者の質に左右される。また、常に改変できるシステムを採用しているため記事が完成・確定されることは(永久に)ない。ウィキペディアのいくつかの言語版においては紙媒体や[[コンパクトディスク|CD]]、[[DVD]]としても発行されているが、日本語版では同様の動きはまだない。一部には[[土木学会]]による組織的な活動のような「主要項目を網羅・充実させよう」という動きがあるものの、他の多くの学術団体でこのような動きはほとんどなく、一般ユーザーを含めてもまだ本格化していない。2009年9月末の日本語版と『[[日本大百科全書]]』を対象とし、同辞典の「日本の政治問題」に収録された132項目とそれに相当するウィキペディアの記事で定量比較を行った研究がある。全体的な傾向としては一つの記事の平均記述量は日本大百科全書1083.3文字に対してウィキペディア3531.5文字であるが、「日本の政治問題」に収録されている項目でウィキペディアには全く見つけることができないものが15項目あった。また、「日米安全保障条約」「教科書裁判」のような記事でも当時は日本大百科全書の方が長い記述文字数で、ユーザーの関心や適切な参考文献を得にくい記事は短くなる傾向にあると推定されている。この他、出典([[参考文献]])を明記した記事が非常に少なく、2008年10月20日時点の記事のダンプデータによると、[タグを用いたインライン形式の出典([[脚注]])を設けた記事は45,676件である。これは、当時の総記事数511,877件の8.9%である。脚注を補足説明に使っている記事もあるため、出典が明記されている記事はこの数よりも若干少ないと考えられる。参考文献が示されている記事もあるが、記事のどの部分がその文献からの情報によるものかはっきりしないことがある。ウィキペディアが掲げている三大方針のうちの「」を満たしている可能性があり、かつ出典がどの部分に対応するのか明らかになっている記事は、データの解析の上では全体の1割程度である。また、後述されているような宣伝や売名行為や荒らしなどによっても、信頼性は悪影響を受けている。なお、インターネット市場調査会社のアイシェアが2007年11月に行った[[アンケート]]調査では、「ウィキペディアの内容を信用するか」という設問に対し「信用する」と回答した人は4割弱(39.4パーセント)に留まり、6割以上の人はあまり信用していないことが分かっている。信用されない理由としては「内容が改変できる」が40パーセント、「中立的な立場ではないと思える」が38パーセント、「調査機関が関わっていない」が9.8パーセントとなっている。ウィキペディアの知名度にあやかり、また[[検索エンジン最適化]]がされていることを悪用し、若手起業家([[青年実業家]])や中小企業、インディーズ系バンド・アーティストのメンバーや関係者、売り出し中のクリエイター、果ては[[カルト]]など世間から眉を顰められる類いの団体までが、「箔付け」すべく自身に都合の良い宣伝をする、逆に不都合な記述は削除する等所謂[[プロパガンダ]]目的での編集がされることがあるとの指摘がある。例えば、[[アスキー (企業)|アスキー]]創業者で元社長の[[西和彦]]は、自身に不都合な事実について、何が正しい情報であるのかを明示することなく、デタラメな記述をされたということで自ら大量削除を行った。これに対し、自身に不都合という理由だけで削除するのはウィキペディアの方針に反するものだとする一般利用者との間で論争となった。その後、西は、西に不都合な事実を「誰でも編集できる」編集方針は「嘘で嘘を塗り固めているようなもの」だとして、「[[2ちゃんねる]]もウィキペディアも同じようなもの」と主張した。[[芸能人]]や著名人などの記事において誹謗、中傷などの[[名誉毀損]]的記述がなされたり、著名人に加え一般人についても、本人や家族、親類に関する非公開の[[個人情報]]、[[不祥事]]などを書き込んだりして他者の[[プライバシー]]を侵害する投稿がなされることがある。こうした傾向は対外的なものであるとは限らず、ウィキペディアの利用者が他の利用者の実名やそれに類するものの記載をし、その結果、無期限のを受けるといった事態も発生している。また、刑事事件の関係者の実名や[[プライバシー]]が書き込まれることも多い。英語版などでは問題とされていないが、日本語版では[[日本法]]との兼ね合いからほとんどの場合削除となる("を参照")存命中の人物や活動中の組織に対する誹謗中傷(であると当人・関係者から指摘される)に類する加筆に対し、項目本人・当該団体から訂正の申し入れが、該当ページのやにたびたび寄せられるようにもなった。書き手は正義の告発を意図していると見られる場合もあるが、日本においてはたとえ事実であっても社会一般に広くに認識されていること以外は[[名誉毀損]]とされる虞があり[[訴訟]]リスクが高いため、対応に苦慮することになる。以下は実例。複数の利用者が、特定の記述を巡り、記述する内容や記述すること自体の可否を争い、お互いに自身を是、相手を否とする内容に何度も差し戻すと呼ばれる事態がしばしば起こる。こうした編集合戦を止め、話し合いによる解決のためににより記事の編集ができないという処置が取られるが、合意になかなか至れず、記事が長期に渡り編集できない状態になってしまうことがある。また、ニュースなどになった事件や事故について、速報的な記述をする利用者とそれに反対する利用者の意見が対立したり、百科事典に載せるに値する特筆性(著名性)があるか否かについて意見が分かれ、削除すべきがどうかの論議になることもある。他の言語に比べて、保護、(アカウントがない、若しくは[[ログイン]]していない匿名ユーザーの制限)とされている項目の比率が高い。また、分野によっては非常に細かな内容まで記されている分野もあるが、逆にまったく未執筆の分野も多い。また、編集合戦にまで至らないものの、書籍としての[[百科事典]]の概念にどれだけ忠実であるべきとする意見と新しい[[ウェブサイト]]上の百科事典の可能性を追求するべきとする意見が対立を起こすこともある。記事の内容にまったく関係ない投稿や、記述をするなどのいたずらなどの[[荒らし]]行為も増えている。これに対してはIPユーザーによるものが多いため、ログインした利用者のみが編集できる「」という処置が取られることが多い。具体例としては、あるロックミュージシャンの身長が156センチメートルだという根拠のない内容を記入する荒らし行為が広範囲に発生し、半保護などの処置が取られた。これまで爆破予告や殺傷予告など、[[犯罪予告]]に類する書き込みがなされることもあった。このような書き込みがなされた場合も、削除の手続きが行われる。なお、2009年6月と同年8月には逮捕者も出ている。作業内容の負担の大きさから管理者数が不足している。プロジェクト内の犯罪予告案件を通報していた[[wikipedia:管理者|管理者]]の「[[利用者:海獺|海獺]]」は、「2010年時点で最低100人は管理者が必要」と指摘している(2013年5月現在56人)。なお、2009年末に管理者を増やすキャンペーンなどが行われたものの、結局2014年3月現在管理者数約50人程度にとどまっている。ただし、[[Wikipedia:削除者|削除者]]のような管理者の権限の一部を持った者が、管理の補佐をするようになった。[[File:Japanese Wikipedia Main page history.png|thumb|alt=ウィキペディア日本語版のメインページの変遷]]発足当時の日本語版。[[英語版ウィキペディア|英語版]]をベースに始まったウィキペディアが[[多言語]]化に乗り出したのは[[2001年]]の5月頃である。[[2001年]]5月20日に日本語版を含む13の非英語版サイトが発足した。発足当初の[[Uniform Resource Locator|URL]]には http://ja.wikipedia.com/ と http://nihongo.wikipedia.com/ が使われていた形跡がある。当初の[[メインページ]]は irrashaimase! で始まる全文[[ローマ字]]だった。残されている履歴情報から、3月から4月にかけてすでに数度の編集を経ていることが分かる。このため、英語版内部などで開発された可能性も考えられる。最初の項目は 「日本語の[[音韻論|音素論]]」という意味だと思われるNihongo No Funimekusu と題されたもので、日本語の[[音素]](英: Phonemics → Funimekusu)が[[仮名 (文字)|仮名]]と必ずしも一対一対応の関係にないことを示した記事だが、これも[[ローマ字]]で書かれていた。投稿者は RoseParks(英語版の初期メンバーの一人)で、投稿時期は4月初め頃の間、つまり[[ウェブサイト]]がテスト段階にあった頃と思われる。12月下旬時点での総ページ数は、2ページに留まった。その当時使われていた[[ウィキ]][[ソフトウェア|ソフト]]は日本語に対応していなかったので、記事は[[ローマ字]]表記で書かれ、項目も23個ほどであった。[[2002年]][[9月1日]]に従来のウィキソフトが改良され、日本語に対応できるようになる。日本人の利用者が徐々に集まり、記事が充実していく。この時期の[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]は現在の日本語版の履歴からも遡れる。[[国の一覧]]や[[エスペラント]]、各々の最古版などから見て取れるように、日本語の[[母語|ネイティブスピーカー]]ではない利用者の投稿による項目も多かった(履歴で辿れる最古のメインページでは「ウィキペディア」が「ウィキピディア」になっているなど)。主な分野は[[日本の文化|日本文化]]・[[言語]]・[[世界]][[地理]]・[[プログラミング (コンピュータ)|プログラミング]]関連。同月の内に[[インタフェース (情報技術)# ソフトウェアインタフェース|インターフェース]]の日本語訳が始まり、年末の時点で(正確にはその前身に当たるWikipedia:How does one edit a page)や[[GNU Free Documentation License|GNU FDL]]が訳された。12月中旬の時点で登録利用者数は10人程度、総項目数は10件程度であった。[[2003年]]初頭、[[インターネット]]の大きな日本語サイトで相次いでウィキペディアが取り上げられた。これにより数次の急激な利用者増が起こり、ウィキペディア日本語版は、他の言語のウィキペディアにもなかった急激な成長を見せることとなる。[[2003年]][[1月31日]]、[[WIRED (雑誌)|Wired News 日本語版]]でウィキペディア(英語版)についての記事が掲載された。これはウィキペディアが日本の[[マスメディア]]で紹介された最初の例であると思われる。これを境に多数の参加者を迎え、・・などプロジェクト関連の文書が本格的に[[翻訳]]または作成された。[[漫画家]]・[[都道府県]]など、項目数が増えた。[[証券]]取引などを巡る本格的な項目も出現した。[[2003年]][[2月12日]]にウィキペディア日本語版はした。英語版が奇しくもちょうど2年前に1,000ページを達成している。1000ページ達成を受け、[[コンピュータ]]関係の有名[[電子掲示板]]である[[スラッシュドット]]ジャパンにウィキペディア日本語版が紹介された。これにより、この数日後参加者は倍増することとなり、日本においてもウィキペディアにおいて[[スラッシュドット効果|スラッシュドット現象]]が発生した。この結果、様々な分野の項目が増加した。主なものとして、[[物理学]]・[[生物学]]・[[情報工学]]・[[文学]]・[[音楽]]・[[ゲームソフト]]・[[漫画]]・[[タレント]]関連などが挙げられる。また、執筆者にはいわゆる[[サブカルチャー]](殊に[[アニメ]]や[[声優]]・[[鉄道]]・[[コンピュータゲーム]]及び[[ゲームソフト]])関連分野での[[トリヴィア]]を誇る者、即ち[[おたく]]が多く、半ば[[まとめサイト]]やデータブック(人物については[[紳士録]]、名鑑、言動録)と化した項目があるのも日本語版の大きな特徴であるが、それは、この「スラッシュドット現象」から始まったともいえる。ウィキペディアは数度の[[サーバ]]故障によるサイトダウンを経験している。[[2003年]][[4月5日]]18時08分から[[4月6日]]17時37分(いずれも日本時間)の間、ウィキペディアのサーバが故障し、書き込みができなくなった。サーバダウンは後に、2003年12月・[[2004年]]6月、および[[2005年]]2月にも起こっている。しかし大勢においては、このような事故はウィキペディアの拡大には影響を及ぼしていない。10000項目を超える頃から、ウィキペディア日本語版はほぼ同じペースの成長率で項目を増大させていき、数ある小さなプロジェクトの一つから、ウィキペディアプロジェクト有数の規模を誇る代表的なプロジェクトへと発展していった。2003年12月、ウィキペディアを提供していた3台のサーバが故障した。このため数日全言語および各種姉妹プロジェクトを含めて停止していた。利用者の一部は[[寄付]]を行ってサーバ購入費用を提供した。2004年[[6月7日]]未明、ウィキペディアなどの[[データベース]]サーバーが故障し、[[6月8日|翌日]]12時前まで全言語および各種姉妹プロジェクトを含めて停止していた。このクラッシュの直前のごく一部の編集だけが失われた状態で復活している。2005年[[2月22日]]の日本時間7時15分、データセンターの内部で停電が起こり、全言語版が停止した。当日中に読み出し専用状態に回復したものの、書き込みが可能となったのは翌23日の日本時間7時25分頃だった。[[File:Japanese Wikipedia article statistics 2001-2016.svg|thumb|280px|記事数と毎月の増加数の推移。[[Wikipedia:日本語版の統計]]による。]][[2003年]][[3月23日]]にはウィキペディア日本語版の項目数はし、さらに[[6月15日]]にはした。1,000項目から10,000項目までの増加に要した日数は4か月と3日間であり、これは英語版よりも早いペースであった。2003年の間に項目数は72項目から24,242項目へと約337倍に増加した。2003年12月にはウィキペディア日本語版の項目数が[[フランス語版ウィキペディア]]を抜き、[[英語版ウィキペディア|英語版]]、[[ドイツ語版ウィキペディア|ドイツ語版]]に次いで全言語版中3位になった。[[2004年]][[5月26日]]2時21分頃には項目数がした。また[[9月29日]]11時3分(日本時間)頃には項目数がした。ある時期から、[[Yahoo! JAPAN|Yahoo!]]ニュースなどからの[[ハイパーリンク|リンク]]による利用者が急増し、日本語版の特定の項目が多く参照される現象がしばしば観測されるようになる。これは英語を使用する開発者などからは、yahoo spike(ヤフーによる急激な利用者増加)などともいわれた。2004年末、ウィキペディア日本語版の登録者は、1万5千弱に達した。利用者は前年比600%を超えるなどと報道された。2004年中に項目数は24,242項目から92,181項目へと約3.80倍に増加した。[[2005年]][[2月11日]]17時52分(日本時間)頃には項目数がし、同年10月24日には項目数がした。2005年中に項目数は92,181項目から168,874項目へと約83.2%増加した。しかし2005年7月には項目数がフランス語版に再び抜かれ4位になった。[[2006年]][[4月9日]]には項目数が、[[8月28日]]にはし、[[12月15日]]にはした。2006年中に項目数は168,874項目から307,134項目へと約81.9%増加した。2006年1月には項目数が[[ポーランド語版ウィキペディア|ポーランド語版]]に抜かれ5位になった。[[2007年]][[8月10日]]には項目数はした。2007年中に記事数は307,134項目から452,023項目へと約47.2%増加した。2006年に入ってから1か月あたりの増加のペースが1万項目を超える月が出始め、2006年10月頃には約1万7千項目と過去最多を記録する。その前後より激しく増減しながら、2008年始めまでは1か月に1万項目を超えていたが、これがピークとなり、[[2008年]]4月には一時約6千項目に落ち込む。[[2008年]][[6月25日]]には項目数がした。一時急減した増加のペースはやや回復し、2008年末には8千項目台まで持ち直す。しかし、その後はゆっくり減少する傾向となり、[[2010年]]末には再び約6千項目となる。[[2009年]][[7月8日]]には項目数がした。12月には項目数が[[イタリア語版ウィキペディア|イタリア語版]]に抜かれ6位になった。2010年[[8月31日]](日本時間[[9月1日]])には項目数がした。[[2011年]]3月には項目数が[[スペイン語版ウィキペディア|スペイン語版]]に抜かれ7位に、9月には項目数が[[ロシア語版ウィキペディア|ロシア語版]]に抜かれ8位に、10月には項目数が[[オランダ語版ウィキペディア|オランダ語版]]に抜かれ9位になった。1か月あたりの増加のペースも、2011年4月に5千項目を割り、[[2012年]]まで4千項目から5千項目程度で推移する。2012年3月から自身の投稿履歴を確認するページにおいて、変更字数が緑色で表示される機能が加わった。2012年[[4月3日]]には項目数がした。2012年[[4月26日]]より過去の版との比較機能において、凡例がリニューアルされた。この頃、項目数が[[ポーランド語版ウィキペディア|ポーランド語版]]、[[ワライ語版ウィキペディア|ワライ語版]]、セブアノ語版に抜かれ12位となった。[[2013年]]以降、少なくとも[[2015年]]末までは、増加のペースは1か月あたり4千項目前後で安定して推移している。2013年[[9月]]、項目数が[[ベトナム語版ウィキペディア|ベトナム語版]]に抜かれ13位になった。[[11月]]、再びベトナム語版を抜き、12位になった。[[2014年]][[3月14日]]には項目数がした。[[2016年]][[1月19日]]には項目数がした。2004年9月には、日本広告主協会(現:「[[日本アドバタイザーズ協会]]」)からWeb クリエーション・アウォード特別賞を贈呈された。これは本来個人を対象とする賞であったため、日本語版の初期に活動していたフランス人利用者、ギヨーム・ブランシャー(利用者名[[User:Aoineko|Aoineko]])が代表で賞を受け取った。日本語版がを超える前後から、「[[Web 2.0]]」の一翼としてウィキペディアが取材・紹介されることが増えた。特に、[[goo]]が「[[goo辞書]]」の一環に「[[goo Wikipedia記事検索]]」を組み込んだ頃から「Web 2.0」という文脈以外の「検索手段」としても認知が広がった。2006年8月に[[朝日新聞]]1-2面の特集コラムで詳しく紹介されたことも、ウィキペディアの名前を一般に広めることとなった。また、ウィキペディアを[[検索エンジン最適化|SEO]]に利用することを推奨するような部分がある記事が[[インプレス]]の[[Impress Watch]]に掲載されたが、その後「不適切な記述」として推奨するような部分が削除された。利用者投票によってベストサイトを決めるイベント「[[Web of the Year]] 2005」では、ノミネートされた検索情報部門の上位18位にも入らず、話題賞でも12位であったが、翌年の「Web of the Year 2006」において、「年間総合大賞」、「ウェブ情報源部門賞」(1位)をダブル受賞し、内外の関係者を驚かせた。2007年になるとウェブ上の情報源として一層広く認知され、「[[Web of the Year]] 2007」で前年に続き「年間総合大賞」、「知識・情報源部門賞」(1位)を同時受賞したときにも大きな驚きは引き起こさなかった。こうしてウィキペディアも社会に市民権を得てきており、また[[インターネット]]社会の特質も一般に認知されるようになった。所詮[[ウェブページ]]は信憑性のないただの雑文だという捉え方と、自由表現と[[集団的知性|集合知]]の中に真実があるという意見とが揺れ動いている。2007年5月20日の[[読売新聞]]のコラム「方位計」(4頁、政治面)は憲法学者石川健治の紹介として[[石川健治]]の項目にある「現代憲法学の鬼才、20年に1人の逸材」を研究者間の評価として引用した。2008年7月13日には[[朝日新聞]]の[[書評]]欄で[[小杉泰]]・京都大学教授が、『情報化社会のプライバシー研究』(青柳武彦著、NTT出版)と併せて、日本で初めてウィキペディアを正面から論じたとされる『ウィキペディアで何が起こっているのか』(山本まさき・吉田雄介著、[[九天社]]、のち[[オーム社]])を取り上げ、同書の「ウィキペディアのシステムは悪意の投稿を防げないため信頼性は危うい」旨の見解を紹介した。2008年11月9日、[[東金市]]の項目に未解決事件の犯行の告白と犯行予告が書き込まれる。2008年11月19日、[[毎日新聞社]]が当日2時30分更新の[[毎日jp]]および当日の[[毎日新聞]]朝刊にて、前日に起きた元[[厚生省|厚生]][[事務次官]][[吉原健二]]の妻への傷害事件([[元厚生事務次官宅連続襲撃事件]])の発生6時間前に、ウィキペディアの[[社会保険庁長官]]という項目に犯行を示唆する書き込みがあったと報道する。この報道は各新聞社の当日の朝刊を紹介する各テレビ局の朝のテレビ番組でも取り上げられた。しかしこの報道は毎日新聞の記者が協定世界時で記された編集履歴を日本時間だと誤解したことが故の誤報であった。2009年4月26日12時34分、[[大友皇子即位説]]の項目に、[[草なぎ剛|草彅剛]]に対する捜査への抗議として[[皇太子徳仁親王]]、[[Yahoo! JAPAN]]、赤坂警察署の警察官に対する犯行予告が書き込まれる。2012年4月、前年に痴漢容疑で逮捕され、のちに不起訴となったフリーライターが誤認逮捕の実名報道で人権を侵害されたとして、[[日弁連]]などに人権侵害救済申立書を提出した。警告を求める対象は報道各社の他、ウィキペディア日本語版の本人の項目にもその内容が加筆されていた事から「ウィキペディアの運営会社」も含まれている。「[[ウィキペディアタウン]]」という取り組みが[[2013年]]の2月に[[横浜]]で、7月に[[二子玉川]]で始まった。これは日本語版ウィキペディア編集者の有志と、地元の保存会など地域ボランティアたちが現地でミーティングを行い、文化財や観光名所などの地域情報を共同してウィキペディアに掲載し、そうしたウィキペディア上での情報提供を通じて地域の活性化に繋げようという試みである。かつて精力的に活動していた東京ウィキメディアン会()、関西ウィキメディアユーザ会()、北海道ウィキメディアングループ()などの複数の有志ユーザ会は、その活動を大幅に縮小しており、現時点ではその実態がまったく確認できていない。ウィキマニア台北2007の頃に精力的にインターネット上で情報を発信していた実名ユーザも、2013年11月現在ではウィキペディア日本語版について、何らかの発言を行った痕跡は見られない。ウィキペディア日本語版を支えるソフトウェア、[[MediaWiki]]は、ウィキペディア寄稿者のボランティアにより開発されており、これまでに数回のアップグレードを行っている。[[2004年]][[5月28日]]22時38分頃、ウィキペディア日本語版のMediaWikiがバージョン1.3にアップグレードされ、それに伴い新しい外装([[スキン]])「MonoBook」が追加された。また[[コンピュータ#コンピュータ|デフォルト]]のスキン設定がそれまでの「標準」から「MonoBook」に変更された。このアップデートは5月28日から5月29日にかけて全言語版で行われた。MediaWiki1.3には、項目を分類するカテゴリ機能が付与されていた。これは最初英語版などに導入され、日本語版ではすぐには導入されなかったが、2004年6月25日10時頃(日本時間)、日本語版でも使用可能となった。2004年12月に、MediaWiki1.4がウィキメディア・プロジェクトに導入され始めた。これにより削除された特定の版を復帰する機能や、画像表示のための[[マークアップ言語]]の簡略化などの機能が提供されるようになった。ウィキメディア財団が進めていたインターフェイス改善プロジェクトにより、2010年6月10日に日本語版など9言語版のインターフェイスが変更された。その内容は、編集画面や検索機能の強化、閲覧画面と編集画面を明確にするナビゲーション、ウィキペディアロゴの変更、などである。同時に、既定の外装も「モノブック」から「ベクター」となった。[[Category:日本語の文化]][[Category:各言語のウィキペディア|にほんこはん]]]
出典:wikipedia