ハリー・ライト(William Henry "Harry" Wright , 1835年1月10日 - 1895年10月3日)は、19世紀に活躍したアメリカ・メジャーリーグ選手(外野手、投手)・監督。イギリス出身。弟のジョージ・ライトとともにアメリカ野球殿堂入りしている。ライトは有名なクリケット選手だった父親の元に生まれ、その父がニューヨークのセントジョージズ・クリケットクラブにプロ選手として雇われた際にアメリカに移住する。しかし、ハリーとその弟ジョージがアメリカで興味を持ったのは、クリケットではなく野球の方だった。ハリーは当時、アレクサンダー・カートライトが参加していたニューヨークのニッカーボッカーズに加わり、クラブのリーダーとなる。その後、ライトは1865年にシンシナティのユニオン・クリケットクラブに雇われ、ほどなくシンシナティ・ベースボール・クラブに入団。入団の際、ライトはそれまでクリケットクラブからもらっていた年俸をそのまま受け継ぐ形で、「プロの野球選手」となった。当時既に30歳を超えていたものの、1867年には投手を務め、1869年には監督兼任で中堅手を務めていた。1869年のレッドストッキングスは無敗を誇り、アメリカ全土を巡業しながら57勝負けなしの記録も残したが、財政が安定せず1870年にプロチームとしての活動を停止することになる。シンシナティでプロ選手としての活動ができなくなったライトは、1871年にプロの野球リーグであるナショナル・アソシエーションが組織されると、ボストンに創設されたボストン・レッドストッキングスに選手兼任の監督として招かれた。ボストンは1年目こそ3位で終わったが、2年目から圧倒的な強さでナショナル・アソシエーションを4連覇する。ライトはその間1874年に、アルバート・スポルディングらと共に野球普及のためイギリスへ赴いて試合を行ったりもしている。ナショナル・アソシエーション解散後、チームはボストン・レッドキャップスと名前を変え、1876年からナショナルリーグに参加。1877年、1878年にリーグ2連覇を飾ったが、1880年代に入ると成績が低迷するようになっていった。ライトはボストンからプロビデンス・グレイズ、フィラデルフィア・フィリーズと監督を歴任。彼は自分自身で試合の詳細なボックススコアをつけていたほど研究熱心だったそうで、1890年にはそれが原因で目を悪くし、一時期はフィリーズの監督業から離れることを余儀なくされてしまったこともあった。ライトは1893年を最後にフィリーズの監督を勇退。2年後の1895年にニュージャージー州で死去した。にアメリカ野球殿堂入り。
出典:wikipedia
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