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鷹野橋 (広島市)

鷹野橋(たかのばし)は広島市中区の地名で同区大手町五丁目地区の別名、もしくはこの地区内に存在する商店街の名称、さらにかつてこの近辺に所在し、地名の由来ともなった橋の名である。地区名としては「鷹の橋」「たかの橋」「タカノ橋」とも表記される。「鷹野橋」は住居表示としては使用されていない(それゆえ先述の通り表記も一定しない)が、地区内にあるタカノ橋商店街や、広島電鉄市内電車の鷹野橋電停(電停自体は千田町一丁目に所在)にその名を止めており、大多数の市民も、大手町五丁目の商店街を中心とした地区を「鷹野橋」と呼んでいる。すべて中区。「鷹野橋」と呼ばれる地区は、住居表示「大手町五丁目」(旧町名は「大手町九丁目」)にほぼ相当する。ただしあくまで通称であることからその境域は明確でなく、大手町五丁目から離れた地点にも「鷹野橋」(たかの橋)の名を冠した施設・バス停が見られる。鷹野橋と呼ばれる大手町5丁目は国道2号線によって大手町1丁目から4丁目とは隔てられており、国道2号線より北の地区よりオフィス以外の住宅や住宅兼商店も比較的多くあり、商店も鷹野橋商店街として独自に発展してきた歴史がある。鷹野橋商店街は下町の商店街といった風情もある。また、大手町のうち、五丁目だけ市立小学校の学区が異なっている。本来、鷹野橋は現在の鯉城通り(広島電鉄宇品線の電車通り)を流れていた藩政期以来の運河「西堂川」に架かる橋の一つであった。もともとこの近辺(大手町三~五丁目)は広島築城時には海面に没しており、藩政期の1699年(元禄12年)、埋め立てられ新開地「六丁目村」として造成されたものであるが、現在の市役所北側に所在していた藩家老上田主水家の南端からこの六丁目村に向けて架けられたものである。橋の名はこの近辺に藩主の御鷹野(鷹狩り場)が所在していたことにちなみ、当初は土橋であった。現在、かつての橋の跡にはそれを記念するモニュメントが建立されている。その他、藩政期の1758年(宝暦8年)、城下の大火ののち「バタバタ」という妖怪がこの界隈に出没したという伝説も残され、その記念碑も建てられている。1912年(大正元年)の市電開通にともなう市街地の再開発により西堂川は埋め立てられ、橋梁としての鷹野橋は消滅した。しかし西堂川に架かっていた3橋の位置に市電の電停が設置されることとなり、紙屋町方面から南へそれぞれの橋名にちなんで「西堂橋」「真菰橋」「鷹野橋」と命名された。このうち西堂橋・真菰橋両電停は、その後の改称を経て「中電前」「市役所前」となっているが、鷹野橋のみは現在もその名を止めている。以上のような事情から、この電停を中心とする地区が「鷹野橋」と呼ばれるようになり、さらに近辺の商店街が「鷹野橋商店街」(現・タカノ橋商店街)と命名されるにおよび地名として定着したものと思われる。しかしこれまで「鷹野橋」が正式な町名(住居表示)であったことはなく、地名としてはあくまで非公式的な通称である。この地区の中心となっているタカノ橋商店街は、1919年、西堂川埋立地に造成された公営(市営)市場に起源をもつ。市内数カ所に設置された公営市場の一つとして近隣からの買い物客を集めるとともに、隣接する千田町界隈に所在していた旧制高等教育機関(広島高師・広島高工・広島文理大など広島大学の前身校)の学生街としての役割も果たした。1945年(昭和20年)8月6日の原爆被災により爆心地から1.5km前後の位置にあった街は瞬時のうちに全壊全焼し、多くの住民が犠牲になった。しかし翌1946年には公設市場が再開され、ほぼ復興が進んだ1953年には映画館(タカノ橋東映)が誘致された。商店街の中には、記録が残っている限りで日本で初めてモーニングサービスを始めた店「ルーエぶらじる」が2011年現在でも営業している。鷹野橋は市内では数少なくなった下町の雰囲気を残す商店街として現在も存続している。

出典:wikipedia

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