大連立(だいれんりつ)とは、議院内閣制の国家における連立政権(2つ以上の政党が連立して内閣を構成する政権)の特殊な一形態。政権を安定させることを主な目的に、議会の第1党と第2党による連立政権を指す。二大政党と複数の小政党が議席を持っている場合、大政党は毎回の選挙において、単独で安定多数の議席を確保しようとする。二大政党の議席数が拮抗するなどして安定多数の獲得に失敗した場合、大政党はイデオロギーの似通った小政党と連立を組んで過半数を確保し与党になろうとする。通常、二大政党はイデオロギーや政策や支持基盤などが異なり、互いをライバル(あるいは政敵)であるとみなしており、両政党間が政権や政策の方向性で合意することは非常に困難である。これが大連立がめったに成立しない理由である。しかし、普段は対立する大政党が互いと連立して共に内閣を作るほうが望ましいと考えるような政情になることもある。一つは戦争や大不況のような国家的危機であり、人々がイデオロギーの違いを超えて国家の統一や安定を望む場合に大連立(国民政府、挙国一致内閣)が成立しうる。特に危機に対する最善の政策について、各政党間で幅広い合意ができている場合は大連立は成立しやすい。また、こうした危機においては一党優位政党制の場合でも、主要政党と複数の小政党の間で大連立が成立する場合もある。国家の危機における挙国一致内閣の例としては第一次世界大戦時、および大恐慌から第二次世界大戦にかけてのイギリスがある。大連立が成立する可能性のもう一つは勃興する小政党の脅威に対し、二大政党が互いのイデオロギーの共通性が多いことを認めるような場合である。たとえばオーストリアでは極左政党や極右政党を政権に入れないために左右の大政党が大連立を組むこともしばしばであった(過激政党の進出を防ぐこうした例は「Cordon Sanitaire」、防疫線と呼ばれる)。また、イスラエルではいくつかの内閣で小政党が自らの主張を通すためにより、広い幅の連立を組んで政権に入る例があった。以上二つのほかに、早期の解散総選挙を防ぐためという政治目的から大連立が組まれることもある。例えばドイツの場合、2005年総選挙でキリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)連立と、ドイツ社会民主党(SPD)の獲得議席が、どちらも通常の連立では過半数を取れない事態となり、大連立を組んだ。ドイツでは任期満了か首相信任の不成立でしか早期選挙を行えない(ヴァイマル共和政時代の政治的混乱の経験から、基本的に議会解散をしにくい制度になっている)ため、必然的にこのような選択になった。これがイギリスなどであれば、首相はいつでも議会を解散できるため、少数与党でしばらく政権を維持し、早期の総選挙に臨むケースが多い(例えば1974年2月と10月のイギリス総選挙)。こうした大連立が恒常化してしまうと、選挙民や小政党の間に選択の自由がないという不満が溜まり、連立与党以外の小政党や極右・極左に対する投票(抗議票、Protest vote)が多くなりがちである。国家的危機で大連立を組むような場合、危機が終わった後にも大連立が続く事はまれである。第2次若槻内閣の末期において、与党立憲民政党と野党第一党立憲政友会の連立が画策された。第2次世界大戦後、GHQによる占領という異常事態への対応と日本共産党の台頭を阻止するために共産党以外の主要政党による大連立が模索されたこともあったが、日本自由党と日本社会党の政策の違いが大きかったことや、社会党左派を激しく嫌う吉田茂らの反発もあって、この構想は成立しなかった(第1次吉田内閣、片山内閣など)。1994年6月30日に成立した村山内閣は55年体制で2大政党を形成していた衆議院第2党の日本社会党と衆議院第1党の自由民主党が連立を組んだために大連立に近い連立政権と見ることができる。ただし社会党と新党さきがけの離脱後の旧連立陣営は既に新党を見据えた統一会派に向けて動いており、前回総選挙で激減した社会党の勢力は旧連立陣営を下回るものであったため、大連立とは言いがたい面もある。1996年当時の自さ社連立による橋本政権下において、連立の中心をなす自民党と、野党第一党の新進党との間で浮上した連立政権構想。両党の反対派の声が大きく実現には至らなかった。構想失敗の影響もあって新進党は党内に混乱をきたし、翌年解党する。2005年9月下旬に当時の小泉純一郎首相が民主党代表に就任したばかりの前原誠司に連立を持ちかけたとされるもの。その後12月にもドイツにおける大連立の例を挙げながら言及したが、前原は「99.9%ない」と否定的な考えを表明した。2005年9月当時は自民党が第44回衆議院議員総選挙で歴史的な大勝を果たしたばかりで、公明党との連立政権は衆参とも圧倒的多数を支配する巨大与党となっており、小泉内閣の求心力はかつてないほど高まっていた。つまり国会情勢においては、その後ねじれ国会下で浮上した大連立とは異なり、必ずしも連立をする必要性は高くなかった。翌年9月限りの退陣を表明していた小泉の真意は定かでないが、憲法改正や構造改革の推進が念頭にあったともされる。自民党・民主党の二大政党による連立構想としてはもっとも初期のものであるが、自民党側から一方的に持ち出されたもので、両党間で構想が共有されたわけではない。2007年の第21回参議院議員通常選挙で与党が過半数を割り込み国会がねじれ状態に陥ると、11月3日に自由民主党の総裁である福田康夫首相と野党である民主党の小沢一郎代表との間で、大連立構想が話し合われた。福田からの連立要請を小沢が受諾したという形になっているが、連立が浮上した経緯については十分に明らかになっていない。第21回参議院議員通常選挙で圧勝し、政権交代に向けて攻勢を強めていた小沢が突如大連立構想に乗ったことは大きな衝撃を与えた。しかしその後小沢が党の役員会に諮ったところ反対意見が大勢を占め拒否することとなった。11月4日、小沢は混乱の責任を取り代表の辞任を表明したが、党内の慰留を受けて辞意を撤回した。2009年の総選挙で民主党政権が政権につくが、翌年の参院選で大敗を喫し、国会が再びねじれ状態に陥ると、民主党は国会情勢を打開するために様々な形で野党との協力を模索したが、その有力な選択肢として再び大連立の可能性が議論されるようになった。翌2011年3月11日に発生した東日本大震災を受け、与野党協力の機運が高まると、民主党代表の菅直人首相が自民党の谷垣禎一総裁に入閣を打診した。この時は谷垣が拒否し実現に至らなかった。その後、2012年には消費税法改正案を巡る議論の中で、野田佳彦第1次改造内閣の副総理を務める岡田克也から大連立が自民党に打診されるなど、2012年12月の政権交代時まで依然として大連立を模索する動きは続いていた。この他、定義の上では連立とは言えないが、地方議会においては与野党の第1党(その場合大抵は日本共産党以外のほぼ全ての政党)が首長選挙で同一候補を推薦することがあり、共産党などから「オール与党」と批判されている。
出典:wikipedia
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