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ふとん太鼓

ふとん太鼓(ふとんだいこ)とは大阪府河内・泉州地方や、兵庫県播磨・淡路その周辺で担がれる大型の太鼓台のことである。祭りの飾り山車の一種であり、形状的な最大の特徴は、正方形の巨大な布団を屋根にあたる部分に逆ピラミッド型に積む点にある。布団だんじり、布団神輿、布団屋台などとも呼ばれる。重さは1.0t~2.0tあり、約50~70人ほどで毎年各神社の祭礼で派手な演出と共にいきおいよく担がれている。現在では少なくなったが戦前は一カ所の神社で約10台以上、宮入されていた所(開口神社、菅原神社)もある。回転や曳航中の取り回しがしやすいよう、舵(梃子)を取り付けているところもある。神社への奉納において、浄瑠璃と一対とする考えが多く。若者は祭礼前に練習を繰り返し、だんじり唄(浄瑠璃くずし)を披露するところが多い。 枚岡神社 秋郷祭 (10月14日・15日) 大賀世神社 (10月第2土曜・日曜) 池島神社 (10月21日・22日) 梶無神社 (10月22日・23日) 吉田春日神社 (10月15日・16日) 石切劔箭神社 (夏季:7月2,3,4日、秋季:10月第3土・日)※夏季に参加する太鼓台は、秋季には参加しない。(10月第2土・日) 御劔神社 夏季大祭 (7月第3土・日) 玉祖神社 (7月「海の日」直前の土・日) 万願寺(住吉神社・八幡神社・御野縣主神社) (7月最終の土・日) 恩智神社 (夏祭り:8月1日、秋祭り:11月26日)(7月最終の土・日) 神劔神社 (7月最終の土・日)(7月最終の土・日)加津良神社三十八神社 (10月第三週土曜日・日曜日) 辛国神社・八幡神社・産土神社 (10月「体育の日」直前の土・日) 開口神社八朔祭 (9月12日より一つ前の 金・土・日曜日) 菅原神社八朔祭 (9月13日,14日,15日) 船待神社秋季例大祭 (9月第3金・土・日曜日) 方違神社秋季例大祭 (9月第3土・日・月曜日) 百舌鳥八幡宮月見祭 (旧暦の8月15日に近い 土・日曜日)ふとん太鼓の担ぎ手、観客数は百舌鳥八幡宮月見祭が最も多いと言われる。※百舌鳥のふとん太鼓は各町、親太鼓と子供太鼓を所有している。※叩き手は小学校5・6年生8名が務める。(10月の「体育の日」直前の金・土・日曜日) 石津神社秋祭り (10月第1土・日曜日) 華表神社秋祭り (10月4,5日)堺市(旧市)のふとん太鼓は古くは江戸時代中期には住吉大社祭礼に担ぎ出されていたとされ、『三村宮祭礼絵馬』にも太鼓台のような練り物が描かれている。堺市内では明治の中ごろまでは祭礼時には各氏子がだんじりや鉾を曳行し、神事として太鼓台があったが、明治29年の旧暦の8月1日の祭礼の際、堺市中之町西の紀州街道(だんじりが1台通れるほどの狭い道)において湊組の船地車と北の鍛治屋町の地車が鉢合わせとなり、双方道を譲らず争論となり死傷者が出る事故が発生。「堺の地車騒動」と呼ばれ、これ以後の堺市(現在の旧堺市街地域)での練物曳行は一切禁止となった。その後、日本が日露戦争に勝利したことを祝して練り物の曳行が許可されたが、各氏子が地車を処分売却していたこと、それまでは堺に多くいた地車の職人が堺の地を離れていたり職を変えていたこと、地車の危険性などの理由から淡路よりふとん太鼓を買い付ける地域が多かったことから、ふとん太鼓だけが残っていった。大正時代には開口神社では13台、菅原神社では14台ものふとん太鼓が奉納され、堺のふとん太鼓の黄金期を迎え、各町個性を主張しようと、白色ではない房、刺繍の施された布団ラシャ(布団の布地)、色違いの結び(新在家濱は現在でも青色を採用)など各氏子趣向凝らした太鼓台も登場した。昭和へ入ると人手不足や諸事情等で太鼓台を手放す氏子が表れ始めその後には堺大空襲によって多くのふとん太鼓が焼失した。戦後は物資不足等の影響で飾り付けは基本的なスタイルに戻ったが近年、戦前のような豪華なものに戻ってきている。 感田神社夏祭り (7月「海の日」直前の土・日) 7月の第一日曜日には「試験担ぎ」が行われる泉州路に秋を告げる岸和田祭(旧市九月祭礼)と並んで、同じく夏の到来を告げる代表的な祭りである。泉州の行政自治体名の付く祭礼は岸和田祭(地車祭)と、この貝塚祭(太鼓台祭)のふたつである。これは泉州(大鳥郡、和泉郡、南郡、日根郡)の南郡に属する岸和田町、岸和田浜町、岸和田村と貝塚町の祭礼であったことから現在も変わりはない。正式には貝塚宮太鼓台祭という。貝塚では一般にふとん太鼓とは言わず単に「太鼓台」という。祭礼は市街地を交通規制して行われるが、太鼓台が神社境内で担がれることは無い。昭和の中頃までは神社内に留め置かれたり、神社前の中之町通りに留め置いたりしたが、太鼓台の保安上の問題や交通状況の影響もあって今では宵宮夜の担ぎあいのあとは各々各町に戻るようになった。貝塚太鼓台の最大の特徴は祭礼中、コマを殆どつけずに担ぐところにある。(コマをつけて運行することは恥とされる。これはだんじりは曳くもの、太鼓台は担ぐものという旧岸和田貝塚伝統の祭礼概念からである)。宵宮は昼から市街地運行、とりわけ浜4町の貝塚商店街を最初に上がる始まりは、ものすごい迫力である。夜は提灯の「灯入れ運行」となり、旧26号線(堺和泉阪南線)で7町一斉の「担ぎあい」(かきあいという)がある。本宮は午後零時半から旧26号線(堺和泉阪南線)西町交差点から順次、中之町通りを神社に向けて上がっていく。宮入、式典の後、感田神社前にて全町によるメインの「担ぎあい」が行われ、そのあとは市街運行に移る。昼の運行最後となるこの時間帯は、各町会の申し合わせによって南海貝塚駅前などでも「担ぎあい」が行われる。夜は祭礼を締めくくる浜4町、上3町の「担ぎあい」があって二日間の祭礼ながら見所は多い。ただ、他の地域で見られる「差し上げ」は一切することはない。また稚児(囃し方)は存在しないので鳴り物は青年団か若頭である。(貝塚祭りは過去において太鼓台同士の喧嘩が耐えない荒々しい一面を持つ祭りでもあったため、化粧した稚児を乗せるなどの慣習はない)。本宮の午前中は神輿渡幸が氏子各町を巡る。この時の神輿行列の「猿田彦」は北小学校の男子から毎年選出される。各町会には数メートルの竹笹で四方を囲われた「結界」の「お旅所」が設けられ神事が行われる。感田神社の神輿は浅草の「千貫神輿」に匹敵する大きさのため、昭和中期以前は牛が引くのが習わしであったが猿田彦の乗る馬とともに近年は道路交通法上、子供会や子供育成会が引いて次町に引き渡すようになっている。(戦前、在郷軍人会が担いだ時期もあった)。宵宮の午後からは神社で「湯神楽神事」も行われ貝塚市長が列席する。(一般の神楽は祭礼二日間行われ氏子9町すべての家庭に神楽券が配られる)。だんじり文化一色の泉州において、旧貝塚町という「せまい」地域(北小学校というひとつの校区)のみに太鼓台の祭礼が続いているのかは諸説あるが、明治の高松彦四郎はじめ大正の開正藤、桜井義国などの名匠と云われる彫師の手がけた作品が今もなお保存され運行されている。(フル扇の垂木、重厚な枡合枡組み、奥行きのある狭間、欄干から泥台に至る繊細な彫り物の形態は、旧岸和田貝塚(泉州南郡)独特であるゆえに「岸和田型だんじり」「貝塚型太鼓台」と現在でも区別されている。貝塚の太鼓台は三本締めの帯、梯子、二本のマラ、ふとん部四方の網など一見するだけで違う形態である。また「せり上げ」と呼ばれる独特の構造により、台座と四本柱から上は別固体である。(台座の枠中に四本柱が入るもうひとつの枠がある。また四本柱は底に固定されず吊っているため上下が可能である)。担ぎ手の力が直接伝わる台座と四本柱から上部分が違う「揺れ方」をするのはこのためであり、提灯で上部の重みが増す夜は特に顕著である。前述のとおり貝塚太鼓台で「差し上げ」の慣例がないのは「静止状態」には全く価値観を求めないからであり、担ぎ手が交代するために太鼓台が静止するようなことは一切ない。勢いよく担ぎ続けることが貝塚祭りの真髄である。それゆえに担ぎ手にとって力尽きるまで落とさずに担ぐ勇壮な醍醐味と、見る者を魅了する繊細な彫り物で埋め尽くされた太鼓台本体、そして何よりも先人の時代から「だんじりは岸和田、太鼓台は貝塚」の伝統概念もあって祭礼二日間の人出は相当な数にのぼる泉州屈指の夏祭りである。夜は前後に無数の提灯がつけられ優雅であり、且つ昼間以上に勇壮である。                     以上、浜四町                     以上、上三町※各町、大人太鼓台と子供太鼓台を所有  子供太鼓は別に秋季祭礼を行う(体育の日の連休)南上町も参加で8台となる。※現在、大北町・中北町・堀の町の3町の住所表記は「北町」である。(北上之町3町)※大北町の一部であった二軒屋町、南上町紀州街道に旅籠町(通名)の太鼓台もあったが、担ぎ出された記録は残ってはいない。二軒町と南上町は行政上存在しない。南上町の住所表記は現在に至るまで南町である。春日神社夏祭り[7月海の日の前日と当日(7月第3日曜日・月曜日)]※各町、大太鼓と小太鼓を所有新屋坐天照御魂神社秋祭り[10月毎年体育の日の前日の日曜日]福井太鼓保存会[10月体育の日前の土日]

出典:wikipedia

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