第七二一海軍航空隊(だい721かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。特攻兵器桜花の実験・訓練部隊として編成され、太平洋戦争終盤に沖縄戦線で桜花を含む対艦特攻に従事した。通称「神雷部隊」。なお、協力して桜花の訓練・開発を行っていた第七二二海軍航空隊・第七二五海軍航空隊も本稿で述べる。第二次世界大戦の後期、戦局の悪化に伴い、日本海軍は対艦攻撃手段としての特攻兵器の開発・運用を本格化させていた。1944年8月に桜花の開発が開始されると、10月1日に実験・練成部隊として、百里原飛行場を基地にて第七二一海軍航空隊(神雷部隊)が編成された。特攻兵器桜花の実験開発及び練成部隊であるのみならず、後に実戦部隊も兼ねた。また、戦闘機による特攻隊である建武隊、神雷爆戦隊、神風特攻隊も行った。721空の通称は、「神雷部隊」であり、岡村基春司令が命名した。由来は疾風迅雷の音を取った。主力機種は特攻兵器桜花、桜花を搬送・投下するために母機である一式陸上攻撃機、零式艦上戦闘機の護衛戦闘機を伴う戦爆連合隊として編成されたが、戦闘機隊の技量低下も著しく、戦闘機隊も爆装のうえで特攻攻撃に投入された。練習機として桜花K1(MXY-7K1)を用いた。1944年8月特攻兵器桜花の開発が始まると、その実験、実施を担当する部隊の編成も進められた。搭乗員は志願者から選抜された。海軍省人事局長と教育部長による連名で後顧の憂いの無いものから募集するように方針が出され、1944年9月15日編成準備委員長は岡村基春、副委員長は岩城邦廣とした。桜花発案者の大田正一も隊付となっている。1944年10月1日 百里原海軍航空隊を原隊として第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編制。この編制ではまだ特攻部隊ではなく、721空の新編は普通の航空隊新設と同様の手続きで行われた。横須賀鎮守府直卒。陸上攻撃機48・艦上戦闘機24。桜花の搭乗員は志願者の中から練度の高いパイロットが選ばれた。飛行時間1000時間前後のパイロットが中心に集められ、予備士官でも300時間以上はあった。1944年11月1日航空本部は「○大兵器に関する部隊要望事項」によって機材手当、隊員数(定員数1.7倍)、721空に対し万事優先的に取り計らうように通達可決する。1944年11月7日 神之池飛行場に移転。「海軍神雷部隊」の門札を掲示。試験飛行の成功に伴い45機の桜花が721空の供給され11月中旬から訓練が開始した。桜花 (K1) の訓練は各人一回でそれを終えると技量Aになった。あとは零戦での襲撃訓練などが主体に行われた。1944年11月13日 戸塚道太郎航空本部長視察。11月15日 連合艦隊直属。11月20日ごろ永野修身元帥視察。隊員に賛辞を送り絶句慟哭する。11月23日 及川古志郎軍令部総長視察。12月1日豊田副武連合艦隊長官視察。神雷鉢巻と短刀授与。12月3日米内光政海軍省大臣が視察。飛行場で閲兵式が行われた。1944年12月5日721空と762空で第一機動基地航空部隊と呼称12月20日 連合艦隊直属の第十一航空戦隊を721空と762空で編成。1945年1月20日鹿屋飛行場に進出。2月10日 第五航空艦隊編制。十一航空戦隊が編入され、五航艦直属になる。この編制によって神雷部隊は正式に特攻部隊となった。1945年3月21日神雷部隊で初の特攻隊編成である「第一回神雷桜花特別攻撃隊」が出撃する。3月21日、4月1日の桜花特別攻撃は突入報告が届かなかったが、1945年4月2日第一建武隊の特攻で4機中3機突入報告が入り、隊員たちの愁眉がひらいた。桜花の使用は母機である一式陸攻の性能不十分で成功の算少なしという理由でその後ほとんど使われることはなかった。岡村司令は、他の隊でやっているような爆撃の固縛はしない、別々に離し、貫通によって効果を大きくする、直前で離せ、遠くでも離せ、敵に捕まったら捨てて空戦をしろ、死ぬことが目的ではない、戦果を上げるために何回でも行ってもらうと爆撃戦の指導を行った。任務以外の時間はうるさいことを言わず隊員の自由に過ごさせていた。1945年5月28日新聞で「第一回神雷桜花特別攻撃隊」が「第一神風特別攻撃隊神雷部隊桜花隊」の名称で公表された。1945年4月25日 谷田部海軍航空隊から昭和隊、大村海軍航空隊から神剣隊、元山海軍航空隊から七生隊、筑波海軍航空隊から筑波隊が神風特攻隊のため編入される。721空は本拠地を谷田部飛行場に移して練成を進めたものの練成は新編の第七二二海軍航空隊に譲り、鹿屋飛行場・喜界島飛行場に進出したうえで特攻攻撃に専念した。終戦間際まで、特攻攻撃を続けたが、実際の戦果は乏しかった。1945年8月21日解隊。終戦までの戦死者は、桜花による特攻で55名、母機の陸攻で365名、援護戦闘機で10名、建武隊による特攻で89名、神雷爆戦隊による特攻で9名、神風特別攻撃隊による特攻で187名、その他戦死・殉職者で114名の合計829名である。桜花練成部隊として1945年(昭和20年)2月15日に七二一空の桜花第一分隊を基幹として新編された。七二一空が1月から鹿屋に転出したため、七二一空の使用していた谷田部飛行場の諸施設を継承して訓練に従事した。通称は「竜巻部隊」。谷田部飛行場敷地内の「竜巻山」を由来とする。神雷隊の要員補充のために訓練を継続していたが、最終的には銀河を母機とする特攻実戦部隊への成長を期待されていた。部隊として実戦の機会を得ずに終戦を迎え、解散した。1945年(昭和20年)7月1日に開隊された。母機を必要としないカタパルト射出式の桜花43型の要員を養成するため、比叡山東斜面に特設した射出台を使用した訓練部隊。訓練用桜花は休止中の比叡山鉄道坂本ケーブルによって搬入し、滑空着地機は近隣の大津海軍航空隊が収容することとなっていた。実戦の機会がないまま終戦を迎えた。なお、実機の桜花43型はコロネット作戦に備えて房総半島への配備を予定していた。
出典:wikipedia
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