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琵琶湖汽船

琵琶湖汽船(びわこきせん)は、滋賀県にある企業。琵琶湖で遊覧船の運航などを行っている。本社は滋賀県大津市浜大津5丁目1番1号。京阪グループの一員。日本最大の湖である琵琶湖上において遊覧船事業を行うほか、滋賀県立びわ湖フローティングスクール「うみのこ」(湖の子)運航受託や飲食業および、有料道路(近江大橋)の料金徴収業務受託なども行っていた。江戸時代以前の琵琶湖の水運は和船により運航されていたが、1869年(明治2年)3月、琵琶湖上ではじめての汽船(蒸気船)である「一番丸」が就航した。従来からの和船運航者や宿泊業者などから妨害を受けたものの、同じ運営者によって政府に出願された「二番丸」が許可されると他もこれに倣うようになり、長距離航路が続々と就航した。しかし、競争による弊害や鉄道連絡への対応などから各社が合同し1882年(明治15年)、太湖汽船(初代)が設立された。 "※詳しくは、太湖汽船#歴史を参照。"一方、湖南(堅田以南)のローカル航路にも多くの事業者が存在した。1872年(明治5年)、大津の米屋だった谷口嘉助などが紺屋関会社(のち、紺屋関組→紺屋関汽船)を設立、紺屋関港を設置し山田港と結ぶ航路を拓いた。当初、この航路は和船(丸子船)5隻で運航されていたが1876年(明治9年)、谷口は山田渡船仲間の杉江善右衛門と提携し渡船組合の航安組を設立、汽船「千歳丸」を借用のうえ紺屋関-山田間に就航した。さらに同年、新造船2隻を就航させた。このほか、浜大津港・紺屋関港を使用した汽船山田組(のち、山田汽船)・三港社・金蔵汽船や、石場から矢橋への航路を運営した石場組の各社・組が競合していたが、谷口は山田の住民・常乗り・旅の衆の3種に分類した運賃の設定など誘客のためのサービスに努めた。このほか、汽船の増加による交通増加のため1886年(明治19年)に草津と山田を結ぶ道路が改良されたこともあり、山田港を利用する各社・組が競争上有利となった。なお、矢橋航路を運航する石場組は、輸送量が減少した1882年(明治15年)に隻数を減らし減便したことがかえって旅客の逸走を招き、1883年(明治16年)6月には同組に属する矢橋汽船会社の経営が行き詰まる事態となった。1886年(明治19年)、従来から提携していた山田汽船と紺屋関汽船が合併し湖南汽船が設立され競争力がさらに強化された。同社と競合した三港社は寄港地を増やすなどの施策をとったことから湖南汽船の利用が減少したため、同社は新航路の就航により対抗したが、このような過当競争状態に陥った結果1887年(明治20年)、三港社が倒産。ここに湖南のローカル航路事業者の統一がはかられた。なお、経営規模は太湖汽船(初代)のほうがはるかに大規模ではあったが1887年(明治20年)、滋賀県当局の裁定によって太湖汽船(初代)が湖北(堅田以北)を含む航路、湖南汽船が湖南を営業区域とされたため、両者が併存することとなった。1889年(明治22年)、湖東線(現在のJR東海道本線)が開通すると輸送量が減少したため、草津駅と山田港の間に連絡用の馬車の運行を行ったが、のちに人力車組合と提携して連絡輸送を行った。なお、草津駅と山田を結ぶ鉄道路線の計画もあったが進展はなかった。1894年(明治27年)、大津町からの補助を得て大津と石山・坂本を結ぶ遊覧船の運航を開始したが、1903年(明治36年)に開催された大阪博覧会に乗じた旅客誘致(「近江八景めぐり」)など、遊覧船事業が徐々に活発となるとともに営業成績も向上していった。また、1911年(明治44年)春から神戸・大阪・京都と石山寺・南郷・坂本間で国鉄との船車連帯輸送を、1920年(大正9年)には京阪電気鉄道(京阪)との船車連帯輸送を開始している。このほか1925年(大正14年)、自ら設置した南郷遊園地の開業と翌年のモーターボートによる新造船就航など、観光事業者としてさらなる発展をみた。これら積極策も相まって、輸送人員の増加率は太湖汽船(初代)と比べてより大きくなっている。統計に残る1899年と、後述する両社の合併直前の1926年までの旅客輸送量を比較すると、太湖汽船の約1.5倍に対し湖南汽船は約2.5倍の増加である。一方、営業エリアの拡大を狙う京阪は、連帯輸送(前述)のほか1926年(大正15年)には船舶建造のための融資を行うなど、徐々に関係を深めていった。1920年(大正9年)、京阪が湖南汽船に出資し、のちに子会社となった。また、京阪の出資による大津-長命寺-竹生島航路の就航や、湖南汽船が湖東汽船を設立し彦根-竹生島航路を就航させるなど航路を拡げていった。一方、太湖汽船(初代)は東海道本線のほか江若鉄道の開通などで斜陽となったことから1927年(昭和2年)、大津電車軌道(現在の京阪石山坂本線)などと合併し、琵琶湖鉄道汽船と改称したが、鉄道事業の不振や湖南汽船社長の仲介などもあり1929年(昭和4年)、京阪と合併。同時に船舶部門は湖南汽船に現物出資され、同社は太湖汽船(2代目)に改称した。さらに1951年(昭和26年)、現在の社名である琵琶湖汽船に改称した。鉄道が未発達の頃は一般交通機関として利用されたが、のちに鉄道やバスなどの競合交通機関が現れると、その役割を遊覧船に移していった。ただし湖上遊覧目的ばかりではなく、湖北へ向かう往路夜行便の「スキー船」や「水泳船」などの運航が京阪との一貫輸送により行われていたほか、草津方面への生活航路(穴村航路・山田航路)が第二次世界大戦後も長らく運航していた。運航日や航路の詳細については公式サイト等を参照。1893年(明治26年)時点の全ての航路(東海道本線全通後)1937年(昭和12年)時点の「太湖航路」第二次世界大戦後に存在した主な航路それぞれ、就航順に記述。湖南汽船創業時に在籍した船舶は太字で記述(このうち、特記以外は全て1926年12月末までに退役)。細字で記述のうち、特記以外は全て1945年度中までに退役。"※両社により就航し、1926年12月末までに退役済みの船舶は、太湖汽船#船舶を参照。"※汽船※小型船など(※)モーターボートは、1954年度末時点4隻在籍。1965年度末までに1隻、1966年度末までに2隻、1967年度末までに1隻、1968年度末までに全て退役。

出典:wikipedia

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