清元 榮壽郞(きよもと えいじゅろう、新字体:栄寿郎、1904年4月21日 - 1963年3月10日)は、大正・昭和中期に活躍した清元節三味線方。本名は宮川 源次。大和楽では、本名や宮川寿朗(大和栄棋)の名で活動した。若くして実力を認められ、名人五世延寿太夫の立三味線を弾くようになる。また、延寿太夫の子息四世栄寿太夫、五世延寿太夫没後の社中を統率した清元志寿太夫、延寿太夫を継がずして早世した父に代わり家元を襲名した四世栄寿太夫の子息六世延寿太夫の三味線も勤めた。また、現・家元七世延寿太夫幼少期の初舞台でも三味線を勤め、五世延寿太夫から数えて直系四代の三味線を勤めたことになる。特に志寿太夫とのコンビは絶妙といわれ、戦後清元の黄金期を築いた功績は大きい。志寿太夫の著書によると、「榮寿郎さんは、どんなに間の悪い太夫や舞踊家に対しても、またどんな小さな舞台、不本意な仕事であっても、絶対に芸を投げなかった(いい加減な芸をしなかった)」(要約)といい、「細三味線を持たせたら榮寿郎さんの右に出るものはいない」とまで言わしめた。その類まれな技術に心酔した志寿太夫は、長男の壽夫を三味線方にするべく榮寿郎に預けた(壽夫は後の清元榮三郎)。その卓越した技量から紡ぎ出される音色、演奏家・舞踊家ともに絶大な評価を得ていた作曲の才を、昭和に入って成立した新邦楽『大和楽』の創始者大倉財閥の総帥大倉喜七郎に買われ、成立間もない大和楽の三味線方・作曲家としても活躍し、現在も繰り返し上演される『あやめ』・『團十郎娘』など初期の名作を残した。人間国宝の認定に際しては、清元界では一番早く、しかも15歳も年上で榮寿郎の修行時代には既に名声を得ていた清元寿兵衛より一年早く51歳で認定を受けていた中での急逝であった。温厚な人柄で多くの人に慕われ交友関係も広く、また弟子の養成にも優れ、父・祖父と相次いで亡くした六世延寿太夫を指導したばかりでなく、後に人間国宝の認定を受けた清元榮三郎をはじめ、現在の認定者である清元榮三・清元清寿太夫、認定が確実視されながらも早世して認定されなかった名手、二世清元一壽郎などを指導した。現在でも清元関係者からは尊敬と敬愛の念をもって「宮川先生」と呼ばれ、遺作が演奏されることも多い。清元という江戸からの伝統芸能に従事していたが、日常生活では食道楽・着道楽で、舶来物を好んだ。ほか死後、その遺産を相続する者が無く、榮寿郎の「伝統芸能のために貢献したい」という遺志を尊重し、1973年(昭和48年)、遺産を基に国立劇場関係者により、国立劇場内に事務所を置く財団法人清栄会が設立され、1987年(昭和62年)より毎年、三味線音楽の優れた研究者と伝承者(演奏家)に対して『清栄会奨励賞』を授与している。新橋組合の清元師匠として、つる子(尾上松也の祖母)や五郎丸らの名人を指導。戦後の東をどり支えた。清元を習う前は踊りの心得があり、総浚いでは地方のダメだしより先に、当時の東をどりのスター・まり千代、染福、小くにらにダメだしをしていた。盟友であった西川鯉三郎 (2世)が主催する、名古屋をどりの地方として参加。古典の補曲や新作舞踊劇の作曲もしていた。
出典:wikipedia
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