興除(こうじょ)は、岡山県岡山市南区にある地域である。かつての児島郡興除村(こうじょそん)に相当する。本項では同村についても述べる。岡山市南区役所興除地域センターが管轄する南区西畦・曽根・中畦・内尾・東畦が該当地域となっている。かつて児島郡興除村であったが、1971年5月1日に岡山市へ編入合併された。広大な干拓地のため農業が主力産業となっており、米や麦の他、ナス、レンコン、トマトが栽培されている。また北部の妹尾駅周辺は岡山駅までのアクセスの良さからマンションが多数建設されている。岡山市南西部に位置し、全域が児島湾干拓地であるため平坦であり丘陵はない。南部の倉敷市・南区灘崎地域との境界を倉敷川が流れている。1819年(文政2年)、倉敷代官であった大草太郎右馬が幕府の命を受けて開墾を行うことになり、翌1820年(文政3年)に工事着手され、1823年(文政6年)に約840ha、5096石の新田が造成された。この新田は岡山藩士小原大之介により、中国管子の「興利除害」という言葉から興除新田と名付けられ、これが興除の地名の起源となっている。1822年(文政5年)、興除新田は東村・中村・西村と区分されたが、当時は新開地に「村」の名称が使用できなかったため東疇・中疇・西疇と改称された。さらに同年9月に西疇の北部・東部を分割して曽根が、東疇の西部を分割して内尾が置かれた。1875年(明治8年)、これら5地区をすべて村とした(以下、沿革を参照)。1957年(昭和32年)8月3日 - 4日、集団赤痢(患者:40名。うち、死者:1名)が発生した。約1週間前、吉備上水道の滅菌装置が24時間にわたり壊れ、川水がろ過装置だけで給水されていたので、それが原因ではないかといわれた。沿革岡山市南区役所の出先機関である興除地域センターが南区中畦に存在し、戸籍関係等一般の業務を扱う総務民生課が置かれている。1971年5月1日の編入合併までは興除村役場として、また2009年4月1日の政令市移行までは岡山市役所興除支所として使用された。
出典:wikipedia
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