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教科書誤報事件

教科書誤報事件(きょうかしょごほうじけん)は、1982年に文部省が教科書検定で「華北へ侵略」を「華北に進出」に変えさせたとする誤報がなされ、これにより日本の外交・内政に混乱が生じた事件。第一次教科書問題ともいわれる。1982年(昭和57年)6月26日、大手新聞各紙および各テレビ局は、「文部省(現在の文部科学省)が、教科書検定において、高等学校用の日本史教科書の記述を(中国華北に対する)“侵略”から“進出”へと改めさせた」と一斉に報じた。『朝日新聞』は「教科書さらに『戦前』復権へ・『侵略』表現薄める・古代の天皇にも敬語」、『毎日新聞』は「教科書統制、一段と強化・過去の日本、正当化・“自衛隊合憲”の記述定着」、『読売新聞』は「自衛隊成立の根拠を明記・明治憲法の長所も記述・中国『侵略』でなく『進出』」といった見出しが並んだ。同日付の『東亜日報』では「日本、教科書検定強化、古代の天皇に敬語、侵略の用語を抑制」と二段で簡単に報道しただけであった。約二週間後の7月8日付社説でも取り上げられたが、この時点ではさほど大きな問題になってはいなかった。約一ヵ月後中国政府から公式な抗議があり、8月1日には、小川平二文相の訪中拒否を一方的に通告。また、韓国マスコミも反発した。この韓国マスコミの反発ぶりを最初に日本に伝えたのは、当時共同通信ソウル支局長だった黒田勝弘である。このため、小川文相は、衆議院予算委員会で、教科書の「訂正容認」と「日中戦争は侵略」との旨を発言するに至った。また、8月23日には鈴木善幸首相が「記述変更」で決着の意向を示し、8月26日には「日本は過去に於いて韓国・中国を含むアジアの国々に多大な損害を与えた」(「侵略」との言葉は使用されていなかった)とする政府見解(宮澤喜一官房長官談話)を発表。そして、9月26日には首相自ら訪中して、この問題を中国側に迎合する形で処理しようとした。鈴木内閣は以前に日米同盟についても失言があったことから「外交音痴」と批判されていた。10月には総辞職して中曽根内閣が成立している。韓国学学者の田中明はこの誤報事件問題当時の、ソウル在住の日本人の回想を紹介している。その日本人は教科書問題について韓国の新聞社から感想を求められたので「現物を見てからでないとコメントできない。一度それをみせてくれ」と求めたところ、そういうものは社にはないと言われたという。大々的なキャンペーンを張りながら、その基礎となる教科書なりコピーなりを持っているのだと思っていたが、「とすると、日本の報道を鵜呑みにしていて紙面を作っていたのか」と愕然としたという。田中はこの件について、もし日本で進歩陣営による多年にわたるキャンペーンがなかったら、果たして教科書問題は起きただろうか、と疑問を呈し、引き金となった中国の抗議が「日本の新聞報道によると」で始まっていたことは、まことに正直であったとしている。端緒の、実教出版「世界史」で「華北へ侵略」を「華北に進出」と書き換えた記述は存在せず誤報であった。6月16日教科書検定集団取材時、実教出版教科書で「華北へ侵略」記述に直さなくてもよい改善意見(B意見)が付記された点と、帝国書院「世界史」で「東南アジアを侵略」が「東南アジアへ進出」、「日本の中国侵略」が「日本の満州占領」、「特に東三省に駐屯する関東軍は…満州国をつくった。この侵略にたいして」が「…これらの軍事行動にたいして」など検定書き換えがあった点、この両者を世界史取材担当日本テレビ記者が混同錯誤する。6月22日、当該集団取材結果を各社持ち寄りして日本テレビ記者報告から一斉に誤報する。文部省教科書検定課長藤村和男は「最初は『侵略』から『進出』への書き換えがあったかもしれないと思っていた。それまでの検定で『侵略』にはずっと改善意見をつけ、直した社も直さなかった社もあったからだ」と述べている。当時の検定意見は必ず直さなければならない修正意見(A意見)と、直さなくてもよい改善意見(B意見)があり、「侵略」には検定意見Bが付されて判断は教科書会社に委ねられていたが、実教出版教科書では「華北へ侵略」を「華北に進出」と書き換える該当記述は無かった。当時の鈴木薫中等教育局長が7月30日の衆議院文教委員会において「この華北への侵略というような点については、今回の検定の教科書を精査いたしましたが、この部分についての該当は当たらないわけでございます」と答弁し、同日、藤村和男も衆議院外務委員会においても「ことしの春終了しました教科書の検定で、日本史、世界史の中で調べてみますと、原稿が『華北侵略』あるいは『全面的侵略』となっておって、それに意見をつけて『華北進出』『全面的進出』というふうに改められた事例は見当たらないわけでございます」と答弁しており、すぐに新聞でも報道された。「今年の検定で『侵略』を『進出』と変えた例はいまのところの文部省調査では見当たらない」(7月30日付朝日)。「これまでの調べでは今回の検定で『侵略』が『進出』に言い換えられた例は見つかっていないという」(同日付毎日)。「検定前も『日本軍が華北に進出すると…』であり、『中国への全面的侵攻を開始した』である。検定で変わってはいないのだ」(7月28日付産経)。朝日新聞は8月14日付では「『侵略』を『進出』になどと歴史教科書の記述を検定によって書き改めた、いわゆる歴史教科書問題は、・・・」と報道したが、朝日新聞8月25日付では「文部省は・・・今回の検定で・・・中国側が指摘しているような、日本軍の華北への侵略、中国への全面侵略の『侵略』を『進出』に変えた例は、いまのところ見当たらない」ことを7月30日に続いて報道し、「朝日新聞社のその後の調査によっても、文部省のこの発言は事実と認められる」と、当初の華北部分については報道が誤報であったことを再度確認する記事を掲載した。 だが、国会での藤村答弁以降すぐに「侵略」を「軍事行動」に書き換え「東南アジアへ侵略」を「東南アジアへ進出」と書き換えた帝国書院版の実例があると指摘され、前述のように「侵略」を「進出」に書き換えるB意見の改善意見が実教出版版「世界史」にも存在していたことも指摘された。以後の国会での論戦は、最初に報道された「華北」部分以外の侵略進出書き換えについてであった。つまり、華北部分についての書き換えが無かったことが政府説明員の答弁で確認された後は他部分の書き換えを何故したかの追及に変わったのである。政府説明員の答弁は「用語の統一」であったが、質問者は「それでは何故、ドイツや蒙古(モンゴル)は『侵略』で日本は『進出』にしたのか」と詰問した。この論議の果てに宮澤談話が出たのである。書き換え報道があってから2ヶ月後の9月2日になって文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』に渡部昇一の「萬犬虚に吼えた教科書問題」が掲載された。『諸君!』の渡部論文は、板倉由明の調査や8月6日付世界日報「テレスコープ」「実際は変わっていない“教科書”」「一部を誇大に報道」「『侵略』記述は、逆に増加」などを参考にしている。これに先立ち渡部は8月22日放映の『竹村健一の世相を斬る』に出演、用語を書き改めた教科書が皆無であることを明確に断言している。『週刊朝日』はこの問題について、野坂昭如と対談しないか、と渡部に企画を持ちかけ、また、「書き換えは存在しない」ことのソースをしきりに知りたがったという。しかし、『諸君!』発売日に『週刊文春』でも「誤報発生のメカニズム」が掲載されてしまったため、今更対談など行っても無意味と見たか、その後週刊朝日は何も言ってこなかった、と渡部自身が回想している。また、『週刊文春』には「意外『華北・侵略→進出』書き換えの事実なし」が掲載され、9月7日には産経新聞が一面で訂正お詫びを掲載した。ここに「侵略進出書き換えは誤報である」との主張が始まった。一方朝日新聞はお詫び記事を掲載せず、「読者と朝日新聞」という中川昇三社会部長名の四段の囲み記事で、「『侵略』→『進出』今回はなし」「教科書への抗議と誤報」「問題は文部省の検定姿勢に」と報じた。「一部にせよ、誤りをおかしたことについては、読者におわびしなければなりません」としながら、「ことの本質は、文部省の検定の姿勢や検定全体の流れにあるのではないでしょうか」「侵略ということばをできる限り教科書から消していこう、というのが昭和三十年ごろからの文部省の一貫した姿勢だったといってよいでしょう」と書いた。毎日新聞は9月10日付「デスクの目」で、この問題に触れ、「当初は、これほどの問題に発展すると予測できず、若干、資料、調査不足により読者に誤った解釈を与える恐れがある部分もあった」「不十分な点は続報で補充しており、一連の報道には確信を持っている」と書き、読者の理解を求めている。この経緯を著書で記した後藤文康は、阪神・淡路大震災の際に、『読売新聞』など一部の新聞が「救援物資を運んできた自衛隊の艦艇が、労組の反対で接岸が遅れた」という誤報を出したことに触れ、その後、この「誤報」を元に労組批判を行った政治家や評論家がいたことを指摘し、「労組対自衛隊」という図式の印象が一人歩きしかねないと批判している。実際に起こったことは、帝国書院『新詳世界史』に対して「南方進出、仏領インドシナ北部に進駐、東南アジア侵略」は不揃いなので統一したほうがよい」という改善意見が出されたのみであり、これは「進出」に統一された。中村政則はこれについて以下のように記している。また、日高六郎は以下のように記している。鄭大均は、戦後における韓国と日本の「眺め合い」の関係を三段階に分けて捉えているが、第二期と第三期の境界にあたる出来事として、この誤報事件を挙げている。なお、一期と二期の境界は日韓国交正常化としている。秦郁彦は、和田春樹がこの事件について、「韓国と中国の批判が、わが国の反動派、右派に痛撃を与えてくれた」と記述した例を紹介している。小泉内閣において、文部科学省はこの件について国会答弁において、町村信孝大臣は民主党議員が「侵略進出書き換えは誤報であったのでは」との質問に対し「誤報であった」と認める答弁をし、次の遠山敦子大臣時代に社会民主党議員が「町村前大臣時代の『侵略進出書き換えは無かった』はあくまで『華北』についてであり他の部分ではあったのでは」と質問に対し、岸田文雄副大臣や政府委員が「侵略進出書き換え自体はありました。無かったのは華北部分」との答弁をしている。歴史分野における教科用図書検定では、個別の教科書ごとに全体的な記述の調和を取るということで教科書内の用語使用に言及する「改善意見」(現在の「検定意見」の1部分に相当)もあった。「侵略」などの用語使用にかかわるものもそれに含まれていたと後者は主張しており、1978年には検定前後で「侵略」が「進出」に変わっている具体例があることを指摘している。教科書を記述する際、近隣諸国に配慮するという旨の、いわゆる「近隣諸国条項」はこのときの鈴木訪中で生まれたと言われている。「侵略→進出」がセンセーショナルに報道された一方で、「『侵略→進出』書き換えが誤報である」ことは広く伝わることはなかった。いわゆる「進歩的文化人」は、その後も「日本の右傾化」「侵略主義の隠蔽」といった表現で論議を展開していく。たとえば藤原彰は1994年8月に出版された著書の中でも「文部省の歴史教科書の検定が「侵略」を「進出」に直させたり」と書いている。同シリーズで別の巻を担当した柴垣和夫も「私が本書を執筆している1982年という年は、戦前の日本の朝鮮にたいする植民地支配や中国侵略に関する検定教科書の記述をめぐって、韓国と中国からきびしい批判が噴出した年であるが、その過程で、「侵略」を「進出」に書きかえさせる検定が、まさにこの年からはじまったことが明らかにされている」と書いている。また、森武麿は一般向け通史『日本の歴史20 アジア・太平洋戦争』集英社において、以下のように記している山住正己は「とくに歴史教科書の検定は、八二年夏に中国・韓国などアジア諸国から歴史を歪曲するものとの強い批判を受けるほど、政府の意図によって強化された」と記している。内田雅敏もまた「1982年、文部省が教科書検定に際して高校の社会科教科書の記述を『侵略』から『進出』へと書き換えさせていたことが発覚したことを契機として、アジア各国から激しい非難がまき起こった」と記している。中内敏夫も「ここ数年、日本がかつて行ったアジアでの軍事行動やその舞台に登場した軍人・兵士・その家族たちを、国の教科書上で復権させる動きが続いている、国際問題にまで発展した日中戦争の性格づけをめぐる「侵略・侵出(ママ)」問題がその一つである」と記している。鶴見俊輔は以下のように記している。竹村泰子は、2001年3月12日の参議院予算委員会の質問において「侵略を進出と書き直したことによってアジア諸国から猛然と抗議が来たわけですよね」と発言している。なお、これに対して町村信孝文部科学大臣が「そのような報道があったが、誤報であることが判明した。書き換えた教科書は、その時点では存在していない」と答弁している。但し、この町村答弁に対しては後に、「議事録を読んでも、町村前大臣は、答えの中には中国という言葉は一口も入れていないんです。そして、結局、侵略を進出というような言葉がなかったという言い方をするんです。ですから、私は、中国ということが入っておれば、そこだけについては十分だと思いますよ。しかし、そのことは入っておらない。ところが、この前も確認いたしましたように、文部省も文書にちゃんとして残しておりますように、東南アジアの場合にはちゃんと、侵略を進出と書きかえさせている。同時にまた、たくさんの例があるということをこの前私は挙げましたけれども、侵略を消していろいろな表現に変えておるというのは、これはもう十以上もあるんですね。」という指摘があり、これに対して岸田文雄副大臣が、平成13年05月30日の衆議院文部科学委員会において「去る五月二十三日の本委員会で、昭和五十六年度に実施した高等学校の教科書検定では、日中戦争に関しては侵略を進出と書き改めた事例はなかったが、日本の東南アジアへの侵略を進出と書き改めた事例があったという答弁をしたわけですが、その五月二十三日の本委員会での答弁と、先ほど申しました町村大臣との答弁、矛盾はしていないというふうに理解しております。」と侵略進出の書き換えの事実があったことを認める答弁を行っている。笠原十九司は「新聞各紙は、高校社会科教科書の文部省検定結果を報道し、多くの教科書で侵略の記述が薄められ、『侵略』という記述に検定意見がつき、『進出』『侵入』『侵攻』などという記述に改めさせられた」と記している。中村隆英は1993年に底本が出版された著書において「日本の韓国と中国への『侵略』という表現を、教科書検定のさい『進出』と直させたという報道は、いちどに韓国と中国を硬化させ抗議がつづいた」と書いている。「という報道」という表現にとどめており、藤原よりは事実性が担保されている。倉沢愛子は2002年7月に出版された著書において「1982年に、文部省の検定で、日本の高等学校の教科書の記述をアジアへの『侵略』から『進出』という曖昧な用語に書き換えさせたという報道がなされ、これに対し、アジア諸国が激しく異議を唱えたのであった」と書いている。こちらも「という報道がなされ」とある一方で、「アジア諸国」が具体的にどの国を指すのかを記していない。吉田裕は「1982年6月25日、文部省は翌年4月から使用される高校用教科書の検定結果を公表し、翌日の新聞各紙はその内容を詳しく報道した。ところが、この報道によって、文部省が日本の対外侵略を「侵入」や「進出」に、朝鮮の三・一独立運動を「暴動」などと書き直させていた事実が明らかになると、アジア諸国は敏感に反応し、中国や韓国では厳しい対日批判がまきおこる。教科書検定の国際問題化である。この時の初期の報道の一部に「誤報」があったのは事実だが、「侵略」という表現を排除する検定が一貫して行われてきたのは確かである」と記している。小島晋治と丸山松幸は「1982年7月の日本の文部省の『教科書検定問題』(中国『侵略』という表現を改めさせたこと)に対する中国政府の公式抗議」と記している。内田健三は「不測の波乱が起こった。教科書検定問題である。文部省による歴史教科書の検定で、中国大陸への日本の「侵略」が「進出」と書き換えられたり、韓国の抗日三・一独立運動が「暴動」と表現されているとして、中国と韓国が7月下旬相次いで日本政府に抗議し、記述の訂正を求めてきた」と記している。在日朝鮮人2世である尹健次の記述は、他の著書とは異なっている。しかし、当の「進歩的文化人」側は、どういった表現を用いているか。家永三郎は、1993年に検定申請した教科書『日本史B』において、朝鮮戦争に関する記述に「1950年(昭和25年)朝鮮民主主義人民共和国軍が統一を目指して南進し」とし、共産主義側の侵略(武力をもって他国に侵攻することは侵略である)を糊塗する「南進」という表現を用いている。このような例は、教師用の「指導の手引き」といった指導書にも見られ、秦郁彦が「ドイツについては『侵入』という言葉を使っているのに対して、同じことをやってもソ連は『進駐』という表現になる。それで日本となると『侵出』となる」という例を、藤岡信勝との対談の中で紹介している。また、関寛治は雑誌『世界』に寄稿した「『冷戦の再開』と世界秩序の危機」の中で、ソ連によるアフガン侵攻を「進攻」という字句で表現し、高木正幸はハンガリー動乱について自著で触れる際、「ソ連軍によるハンガリー進入」と表現している。さらに、坂本義和も著書『軍縮の政治学』の中で以下のように書いている。また、神田文人は一般向け通史で以下のように記している(引用の際に漢数字をアラビア数字に変換している)。さらに、『筑紫哲也 NEWS23』が映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を紹介した際には、「この映画は中国による『自治権拡大』を描いた」というナレーションを流している。。この「ダブルスタンダード」はその後、新しい歴史教科書をつくる会が作成した教科書に反対する勢力が、「つくる会」の教科書の採択阻止のために教科書検定に頼ったという図式にも見られるようになる。かつて家永教科書裁判の際には、国家権力による教育の統制である、と反対していた教科書検定を、である。2001年2月21日の『朝日新聞』はこの「つくる会」教科書の白表紙本(検定中のものであり公表が禁じられている)の内容をあげつらい、「中韓など反発必至」と報じている。稲垣武はこの態度を、新聞報道の倫理から逸脱していると批判している。入江曜子は、国歌国旗法制定以後の日本を、「日本は戦争で悪いことをしたのではなかったと短絡する人たちを輩出した」とした上で、その傾向はいま「侵略」を「解放」と言い換える口当たりのいい国家主義的方向へ収斂されつつあると述べている。この「解放」という言葉は、共産主義陣営国家が自由主義陣営国家に対して侵略を行った際に使用してきた用語である。たとえば、中華人民共和国によるチベット侵略を、中国側は「平和解放」と呼ぶ。他に、小島晋治と丸山松幸は、「人民解放軍、チベットのラサに進駐」と記す。家永三郎は教師用の指導資料(いわゆる教科書ガイド。教科書そのものと異なり、検定が存在しない)でベトナム戦争を「ベトナム人民の総決起により、ベトナム全土は解放され…前後して、カンボジア、ラオスも解放され…続いて南北ベトナムは統一され」と書き、尹健次は、朝鮮戦争を北からの視点で見ると「祖国解放戦争」と呼び、油井大三郎は、「北朝鮮による武力統一」と言い、ベトコンの正式名称が南ベトナム解放民族戦線だったのである(ベトナム戦争が行われていた時に朝日新聞論説委員だった丸山静雄は、ベトコンという呼称が不当な蔑称であり本来であれば解放戦線と表記すべきであるが、そうすると「アカ」呼ばわりされる危険があり、世論の同情も薄れる可能性があるので、しばらくはそのままにしておいたと回想している。また、阿奈井文彦は1965年2月16日付の朝日新聞では「ベトコン」が紙面に使われていたことを紹介し、本多勝一のルポルタージュ『戦場の村』以降、正式名称で書かれるようになったのではないかと回想している。なおNHKはこのベトコンという呼称を通し、テレビ放送では一番最後まで用いていたことを本多勝一が書き残している。なお、山本夏彦は実態は「解放戦線」ではなく「共産軍」であり、岩波書店も朝日をはじめとする大新聞もこの嘘で読者を欺いたと断じている)。進歩的文化人が寄稿することが多い岩波書店(谷沢永一は同社が発行する雑誌『世界』を「進歩的文化人の一大拠点」と評している)が発行している国語辞典『広辞苑』でも同様の書き換えが見られる。広辞苑の各版を比較分析した水野靖夫によると、日英同盟の説明文は、初版では「ロシヤのアジアへの侵出」となっていたが、第2版以降では「ロシアのアジア進出」に書き換わっている。意図的なものなのである。なお、1968年にソビエト連邦がチェコスロバキアを「解放」していた当時、ソ連国内で用いられていた歴史教科書では、アレクサンドル・スヴォーロフ元帥がフランス革命戦争に乗じて行った地中海・北イタリア遠征について「ギリシャの島々を解放し土地の人々に自由を保障した。……ナポリを解放し、凱歌をあげてローマに入城した。北イタリアを解放した後、スヴォーロフはパリへの行軍を準備した」と記述していた。この「解放」という表現は日本国内にとどまらず、アメリカの著述家であるマーティン・ガードナーも使用していた。なお、共産党を離党した人物の中には、「チェコ侵略」と書くものもあった。安東仁兵衛である。また、この誤報事件の当事者(火付け役)であり、最後まで謝罪も訂正も行わなかった当の朝日新聞は、1985年9月8日付社会面のコラム『残留孤児』で、「東洋の小国が世界の大帝国に勝った、と日本が酔いしれた日露戦争は、中国東北部(旧満洲)に進入したロシア軍に日本が『危機感』を持ち、起きた」と記している。

出典:wikipedia

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