『青ひげ公の城』作品11 Sz.48(英語:Bluebeard's Castle、ドイツ語:Herzog Blaubarts Burg、ハンガリー語:A Kékszakállú herceg vára)は、バルトーク・ベーラの作曲した一幕もののオペラであり、バルトークの唯一のオペラでもある。台本はバラージュ・ベーラ(1884年 - 1949年)による。バルトークとバラージュを引き合わせたのは、双方の友人である作曲家コダーイ・ゾルターンであった。当時、バラージュとコダーイはルームメートで、バラージュはコダーイのためにこの台本を書いていた。コダーイを通じてバルトークと知り合ったバラージュは、1906年のバルトークの民謡採取旅行にも同行している。1910年に出来上がったシナリオは、コダーイとバルトークの二人に献呈された。まずコダーイに作曲の依頼がされたが、コダーイは「内容に共感できない」と言って断っている。しかしバルトークがこの台本に興味を持ち作曲を開始する。バルトークの二男バルトーク・ペーテル(ピーター・バルトーク)は、後述する新校訂版を出版する際、残されている資料によって作曲のプロセスを明らかにしている。バルトークが作曲を急いだのは、ハンガリーで行われた1幕もののオペラ・コンクールへの応募(提出期限は10月だった)という動機があげられる。しかしこのコンクールには入賞できなかった。1917年、バルトークの次の舞台作品であるバレエ音楽《かかし王子》の初演が先に行われ、これが大成功を収めたため、歌劇場側も《青ひげ公の城》を無視できなくなり、この作品の初演が決定された。なお、完成後バルトークは1912年と1917年に改訂を行って現在の版を仕上げている。現在の研究では、オペラ冒頭の前口上も改訂時に追加した可能性が指摘されている。1918年5月24日 ブダペスト歌劇場、指揮:エギスト・タンゴ、ユディット:ハーゼルベック・オルガ、青ひげ:カールマン・オスカルその他の国での初演は下記の通りである。オーストリアのウニヴェルザール出版社からヴォーカル・スコア(1921年)、フル・スコア(1925年)、およびリブレットが出版されている。但しこのフル・スコアにはドイツ語(ウィルヘルム・ツィーグラーの訳、ペーテルによればマルタの親戚ではないかとのこと)とによる英語の歌詞しか記載されておらず、オリジナルの歌詞であるハンガリー語がなかった。アメリカのドーヴァー出版からウニヴェルザール版のヴォーカル・スコアのリプリントが出ているが、こちらにはハンガリー語の歌詞が収録されている。そしてウニヴェルザール出版社も2008年に、先述した作曲者の次男ペーテルらによる新装改訂版を出版した。自筆資料などに基づき270箇所もの修正が加えられ、ようやくオリジナルのハンガリー語の歌詞が掲載された。ただし代わりにドイツ語版は削除されている。前口上はペーテルが新訳、英語歌詞はハッサルのものをペーテルが校訂したものを使用している。約1時間。1幕1場の物語なので場面転換や明示的な区切りは無いが、便宜的に次のような場に分けられる。青ひげの物語はシャルル・ペローにより確立されたが、バラージュの台本のきっかけとなったのは、モーリス・メーテルリンクの戯曲『アリアーヌと青髭』といわれている(この戯曲はポール・デュカスが歌劇にしている)。そもそもペローの物語やメーテルリンクの物語では、話は次のようになっていた。青ひげは外出するという理由で新しい妻に7つの扉の鍵をあたえ、最後の扉は決して開けてはならないと言い残して出かける。妻は誘惑にかられその禁を破る。その後の展開は、ペローの場合、妻は前妻が殺されていたことを発見し、兄弟達に救出される。あるいはメーテルリンクの場合は、前妻が幽閉されていたことを知り説得するが失敗、自分は城から出て行く。バラージュは、青ひげを彼の妻ユディットに常に付き添わすことで、青ひげの苦悩をも描き出し、猟奇的で得体の知れない青ひげのイメージを背景に押しやり、男と女の葛藤に焦点を移した。そして血のイメージを全ての扉へ持ち込んで、形式感も作り出し、オペラとしての緊迫感も与えた。青ひげは本当は扉を開けさせたがっているのではないかといった、解釈の多様性も生まれた。またバルトークらと同じく民謡からの影響下でテクストを書いており、そのためバルトークは旋法性やアクセントの付け方など、自らの民謡経験を生かすことができた。しかしそのため他の言語に歌詞を置き換えることが困難となり、あまり舞台で取り上げられない一因ともなった。また舞台上の動きに乏しい(基本的に7つの扉の前で2人が歌うだけである)、特にこれといった事件が起きないという根本的な問題もあり、オペラとして上演されにくい要因と言われる。戯曲の日本語訳は以下の単行本に収録されている。この当時のバルトークは、リヒャルト・シュトラウスやフランツ・リストなどから強く影響を受けた最初期の作風からは脱し、民俗音楽の採取を初め、コダーイを通じて知ったクロード・ドビュッシーなどの影響を受けていた時期である。いわゆる初期作品と言えるが、既に《ヴァイオリン協奏曲第1番》(1907年 - 1908年、生前未公開)や《弦楽四重奏曲第1番》(1908年)などを書き、翌年には《アレグロ・バルバロ》(1911年)も作曲することになるなど、バルトークらしさが十分に現れだした頃の最も大規模な作品である。音楽は冒頭の低弦による導入から五音音階が使われ、民俗音楽的な雰囲気を持つが、長調/短調といった調性的な親しみやすさはあまりなく、旋法によるくすんだ音色と、三全音(増4度)や短二度といった鋭い音程が支配的である。歌として親しみやすいメロディーもほとんど無く、伴奏もオスティナートが多用され、印象に残りにくいが、ゆるやかに繋がっていくそれらのイメージは、城のつかみ所のない陰湿で重苦しい雰囲気を見事に生み出している。それだけに、青ひげによるアリオーソの豊かな旋律と和声付けや、第5の扉の純粋なハ長調などが、圧倒的な存在感を放つことにもなる。前述したようにこの作品はプロローグから第7の扉までの8つの部分に分けられるが、大きく3つのグループに分けることも可能である。それは、プロロークから第2の扉/第3から第5の扉/第6から第7の扉である。第2の扉までの城の凄惨さを見せつける部分までは主に短調(短旋法)で、第3から第5の扉の青ひげの富を見せつける部分は主に長調で、そして前妻の秘密が明かされる第6、第7の扉は再び短調(短旋法)で彩られており、シンメトリックな構造ともとれる。実際に最後のグループは最初のグループの再現的な音楽的内容が認められる(第1の扉と第6の扉のオスティナートの類似性、青ひげのアリオーソの類似性、第1の扉を叩いた擬音効果の展開、旋律の類似など)。また音楽評論家のポール・グリフィスの説明によると、「冒頭の嬰ヘ調から出発して短三度の段階を経ながら、まず嬰ニ調/変ホ調(第2と第4の扉)、次にハ調(第5の扉)、それからイ調(第6の扉)に移行し、最後には嬰ヘ調に再び戻っていく調性組織」で「減七の和音、つまり F#-D-C-A-F# の各調の和音による連結」という構造もある。いずれにせよ、この作品では調による色彩の変化が重要視されており、バルトークは扉が開くたび、その音楽に合わせた照明を照らすよう色の指定をし、その印象をより明確にしようと試みてさえいる(第1の扉は「血のような赤」、第2の扉は「黄色がかった赤」など)。これは後にスクリャービンが考案した色光ピアノなどの先駆例ともいえる。それぞれの扉での血のイメージは、鋭い短二度で音化されており、形式的な統一に役立っている。始めはむき出しだったその短二度も、第5の扉では背景に溶け混み始め、第6の扉にいたってはいたる所が短二度で埋め尽くされる。最後の扉を開けて欲しいとユディットが口にする部分は、後年の《中国の不思議な役人》での、役人登場のシーンを先取りしたような苛烈さがある。バルトークがなぜこの題材に作曲しようとしたのかは定かでない。ただしこの後に続く舞台作品《かかし王子》《中国の不思議な役人》も共に「男女関係の絶望的状態」(グリフィス)にまつわる物語である点は指摘できるだろう。またバルトーク・ペーテルが新校訂版の中で、「バラージュが書いた前口上を読めば、この物語は青ひげを題材にしているが、童話とは大して関係ない。実態は人生そのものを表した寓話であることが分かる」と語っていることも留意すべきであろう。
出典:wikipedia
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