准胝観音(じゅんていかんのん)、梵名チュンディー(चुन्दी []:)またはチュンダー([])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。准胝とはその音訳であり、準胝観音または準提観音とも書く。「六観音」(七観音)の一尊にも数えられる。インドでは観音は男性名詞のため男尊とされるが、准胝は女性名詞なので、「六観音」の中では唯一の女尊となる。元々はヒンドゥー教の女神ドゥルガーが仏教に観音(如来)として取り入れられた姿であるとされるが、異説もあり、仏教の経典や儀軌に説かれる准胝観音のイメージがヒンドゥー教のドゥルガーと多くの隔たりがあるため、『チュンダー陀羅尼』より生じたという説も有力である。また、七倶胝仏母(しちくていぶつも)、梵名サプタコーティブッダ・マートリ(सप्तकोटिबुद्धमातृ [])とも呼ばれる。密号は最勝金剛、降伏金剛。大乗仏教においては『仏説大乗荘厳宝王経』を典拠として、中国では浄土宗や禅宗のみならず道教においても広く信仰を集め、日本では空海(弘法大師)の請来や隠元禅師の伝持によって密教や禅宗において信仰される。宋代の『仏説瑜伽大教王経』(大正藏№890:法賢 訳、幻化網タントラの抄訳)を先例として、チベット密教では新訳の『幻化網タントラ』(マーヤ・ジャーラ・タントラ)や、ニンマ派の依経である旧訳の『大幻化網タントラ』(グヒヤ・ガルバ・タントラ)において主要な尊挌である金剛薩埵のヤブユムの母尊となる尊那仏母、梵名スンダー(Sunda:美麗で光り輝くの意味)として説かれている。また、ニンマ派では、原初仏である法身普賢(クントゥサンポ)のヤブユムの母尊である法身普賢仏母(クントゥサンモ)とする説もある。『幻化網タントラ』の先行経典であり、密教の龍樹菩薩の著作『持明藏』より略出されたとする『仏説持明瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』 四巻(大正蔵№1169:宋・法賢 訳)が、現在のところ漢訳で残る資料としては准胝観音についての最も詳しい原典となる。いわゆる准胝観音は、大乗仏教から中期密教、後期密教の無上瑜伽タントラまで、仏教の広い分野に亘ってその影響を残している尊挌の一つである。日本では「准胝仏母」、「准胝観音菩薩」、「准胝観世音菩薩」、「天人丈夫観音」などさまざまな呼称があり、更に中国では「尊那仏母」、「尊那菩薩」とも呼ばれる。異称のひとつ七倶胝仏母(サプタコーティブッダ・マートリ)とは「七千万の仏の母」・「過去無量諸仏の母」という意味で、この仏母(これは女性名詞である)が、人を悟りに導いて数限りない仏を誕生させる仏教の真理の擬人化であることを示す。一方、こうした原義から本来は女尊であり、観音(梵語で男性名詞のため男尊)ではないという説も有力である。図像的に准胝仏母と准胝観音の違いは何かと言うと、仏母形は五智の宝冠を頭に被り三目であるのに対して、観音形は五智の宝冠を被らず二目に白毫を描き、時に頭頂に化仏の「阿弥陀如来」を頂くもので、日本で初期の作例として挙げることのできる醍醐寺の五重塔の内部に描かれ重要文化財に指定された壁画の准胝観音は、五智の宝冠を被り仏母形に近い。また、中国のものは主に仏母形で中央の左右の第一手で「説法印」を結んでおり、チベットでは一面二臂と一面四臂が多いが、一面十八臂のものは観音形と如来形の両者の特徴を有している。准胝観音は当初は准胝仏母といい、観音には含まれていなかった。その例として、高野山真言宗が伝承する密教の中院流では、醍醐の三宝院・宥深の説に基づき如来部(仏部)に配して准胝仏母とする。いわゆる日本で准胝仏母が観音の名を付して呼ばれるようになったのは、咸平3年(1000年)に訳された『仏説大乗荘厳宝王経』(大正蔵№1050:北宋・天息災 訳)が日本に招来されて以後だと考えられる。准胝観音は早くから中国で拝まれ、中国密教ではインド僧である金剛智三蔵が飢饉に際して勅命で准胝仏母を本尊として請雨法(雨乞い)を修して効果があり、その典拠を求められて『七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』を訳したのが伝播の始まりで、この修法が金剛智から不空三蔵、不空から恵果阿闍梨、恵果から空海へと伝えられて日本に請来された。中国では密教、この後も広く禅宗や浄土宗、道教等でも信仰されるが、インドから東南アジア(初期の南方仏教:南伝密教)、そして日本でも密教において特に重視される。日本の真言宗の開祖である空海が高野山の開基の際に、僧房の次にまず准胝堂を建立し、准胝観音を弟子たちの得度の本尊としてお祀りしたのは有名で、のちに高野山が荒廃した際にも僧俗の手によって庫裡にこの准胝観音を安置し守り続けられた。それゆえ、准胝堂の補修が行なわれた昭和の時代になるまで、高野山では准胝堂で僧侶となるための得度の儀式が執り行なわれていた。また、真言宗醍醐派の開祖・聖宝尊師がこれに倣って醍醐寺の開基に准胝観音を勧請し、その孫弟子の仁海は六観音に准胝観音を加え、その後も長く民衆の信仰を集めている。准胝観音の修法である「准胝法」は中国密教では唐密に配される。空海が日本に教えを伝えた後、唐の武宗が大規模に「会昌の廃仏」を行ったために特別な施設や法具類を必要とする唐密は大きな打撃をうけ、入唐八家の円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)の時代にはまだ形を残してはいたが唐朝の衰微と共に、その教えの大系を失うことになる。また、准胝観音の経典類は、空海の『御請来目録』(国宝)には、古訳の地婆訶羅三蔵の訳や旧訳の金剛智三蔵と善無畏三蔵の訳経も、新訳の不空三蔵の訳経も記載がなく「録外の請来品」となっており、その代わりに梵本2本が記載されていて、弟子たちへの著作『三学録』(重文)でも梵本2本のみ記される。なお、唐代・宋代の訳経と原典には以下のものがある。北宋の時代には後期密教の経典類が翻訳されるも、中国ではモンゴル系の元王朝の台頭や歴史の動乱の中でしだいにチベット系の密教や道教などに押されて、唐密は衰退していった。しかし、准胝観音は『仏説瑜伽大教王経』(幻化網タントラ)の影響もあってか、元代にも多くの信仰を集めていた。やがて明代になると、ヨーロッパ文化の流入により危機感を抱いた中国人らによって、各分野でルネッサンスに匹敵する大掛かりな復古運動が中国に起こり、民間に残されていた唐代や宋代からの密教が再編成され、中国密教の四大法と呼ばれる「准胝法」・「穢跡金剛法」・「千手千眼観音法」・「尊勝仏母法」をはじめとする古法類が中国でも保存され、継承された。この四大法の中心となるものは「准胝法」であり、明初に刊行された版本には以下のようなものがある。このうち『顕密圓通成仏心要集』は後の中国仏教に大きな影響を及ぼし、この書の刊行によって、今日、中国仏教の特色として知られるような、禅の教えと密教を兼修する「禅密双修」、禅と浄土思想を兼修する「禅浄双修」、浄土思想と密教を兼修する「浄密双修」の教えに拍車がかかり、准胝観音の信仰も同時に中国仏教の全ての宗派に浸透していった。また、明末から清代の資料は以下のようになり、このうち『准提心要』は江戸時代の日本でも刊行されて研究された。江戸時代には禅密双修の黄檗宗の開祖・隠元隆琦らによって明代・清代の准胝仏母の尊像と密教の修法が日本にもたらされて、広く禅宗でも祀られるようになった。同時代には、長崎の出島で清国の中国僧から中国密教の諸法と出家戒を授かり、時の光格天皇の師となり、南海の龍と呼ばれた尾張大納言・徳川斉朝の庇護を受け、京都や尾張(名古屋)、江戸(東京)の地に准胝観音の信仰を広めて戒律復興運動に尽力した、天台宗の豪潮律師なども知られている。豪潮律師が伝授したと判明しているもので、現在も残っている著作類や同時代の資料には以下のようなものがあり、その内容から江戸時代に中国密教の「唐密」が日本に正確に伝えられていたことが分かる。真言宗小野派三宝院流などでは観音に分類され、同流派の醍醐寺上醍醐准胝堂(西国三十三所第11番札所)の本尊は准胝観音である。一方、天台宗系では「准胝仏母」と呼称。実際現在の胎蔵曼荼羅でも蓮華院(観音院)には含まれず、遍智院において仏眼仏母と並んで配される。経典によると、准胝の修法をなす者は、清穢及び出家・在家を問わずに飲酒肉食し、かつ妻子あるも仏道修行を達成するという。また、心の働きを清浄にするほとけであり、「仏の母」という名から、安産、子授けの功徳もあるとされている。真言宗醍醐派の開祖である聖宝が准胝観音に祈って朱雀天皇や村上天皇を授かったという伝説も残されている。曹洞宗で「龍樹菩薩讃準提大明陀羅尼」としてよく唱えられ、真言宗では、醍醐寺の在家用の勤行次第「準提観音念誦次第」にも取り上げられている『準提功徳頌』は龍樹菩薩の作とされるが、これは顕教ではなく密教の龍樹菩薩(龍猛菩薩)を指し、江戸時代の戒律復興運動の際に禅密双修の中国密教から伝わったもので、その内容は以下のようになり、この後に少し長い真言の「準提中呪」が続く。この『準提功徳頌』の出典は、『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』第四巻(大正蔵:第二十巻、P691)にある「諸仏所説大尊那教 能満一切衆生之願」の偈頌による。『準提功徳頌』六観音の役割では六道のうち人間界を摂化するという。なお、天台系では前述のとおり准胝を観音とは認めないため、代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。更に准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。また、准胝観音の姿は唐代の訳経である『仏説七倶胝仏母准胝陀羅尼経』(金剛智 訳)や、『七倶胝仏母諸説准提陀羅尼経』(不空 訳)に説かれる一面三目十八臂が一般的で、密教の仏であるからその姿には様々な象徴的な意味があり、『白宝口抄』にはその内容が具体的に述べられているので、その主なものを取上げて「本誓(ほんぜい)と功徳」としてここに紹介し、理解を深める一助とする。『本誓と功徳』なお、准胝観音の手が十八臂あるのは、仏陀の覚りである「十八不共法」を象徴し、それによって准胝観音の十八大願を表していて、『準提大曼荼羅法』に述べられている如く、印相や持物によるそれらの意味は以下のようになる。『准胝十八大願』禅と密教の出会いは、まだ禅が中国において禅宗と呼ばれて一派をなす前の時代、唐の時代に始まる。当時、禅は「仏心宗」とか「楞伽宗」とか呼ばれた時代で、個々の禅者によって教えも、用いる経典も様々であったとされる。こうした時代に、インドから善無畏三蔵が西暦716年に来唐し、その善無畏三蔵に対して当時の禅僧がインド密教の禅定について質問をした記録が残っており、善無畏三藏の教えであることから『無畏三蔵禅要』(善無畏三藏による禅定の要点)と呼ばれている。この『無畏三蔵禅要』(大正蔵№1050)は、日本では密教の三昧耶戒の資料として事相家が参考にするか、学問上の典籍としてしか扱われないが、大陸や台湾に伝わっていた中国禅では、戦前まで禅定の内容を記した本の一つとして僧侶育成の教科書にも数えられていた。それゆえ、無畏三蔵の訳である旧訳の『七佛倶胝佛母心大准提陀羅尼法』が、禅者に伝えられたのも同じく唐代の頃と思われる。当時の禅者による准胝観音への信仰の一端を伝える物語が、宋の無門慧開(むもんえかい;1183-1260)が編集した『無門関』と、宋の圜悟克勤(えんごこくごん;1063-1135)の編集による『碧巌録』という禅の「公案集」等に残されているので、ここでは『無門関』の事例を取り上げる。また、明代には浙江省嘉善镸の出身である袁黄(1533-1606)という人物が、当時、占いの名人とされた孔先生に「三式」という運命学を学び、師の孔先生より科挙を受けることを勧められて合格すると共に、その番号までを言い当てられた。その後の占いも一字一句が孔先生の言う通りであり、すっかり宿命論者となっていた。自身の一生を占ってもらったところ相応の出世はするが前世の業(カルマ)により壽命は53才で、結婚はするが子供は無く、薄徳少福の身で失意のうちにその一生を終えると予言されていた。やがて、仏縁により禅密双修の禅僧の雲谷禅師に出会い自身の運命を語ったところ、『七佛倶胝佛母心准提陀羅尼法』の呪法を授かり、正しく戒律を守り善行を積むための『功過格』による指導を受けたことによって運命の呪縛を脱した。壽命が尽きるとされた53才の時に袁了凡(えんりょうぼん)と改名し、更に出世して高官となって交易と漁民に被害をなす倭寇を平定し、豊臣秀吉による朝鮮出兵の軍を退けた。准胝観音への信仰により願わずして子供にも恵まれ、その寿命も准提観音の延命の功徳と、『功過格』の積善の効果により74才まで長生きすることができた。遺言として子孫に残した『了凡四訓』の内容が後の世に伝えられて、『陰騭録』(いんしつろく)として有名になり日本でもよく読まれた。【真言】真言は短呪の「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(oM cale cuule cundii svaahaa)などがよく知られている。(なお、真言を唱える際には個別の灌頂を必要とし、正しく潅頂を得ていない場合には、密教の三昧耶戒に違反し、その功徳を失う。[未灌頂者 請勿誦呪])【三昧形】三昧耶形は「寶瓶」(方便)、「金剛杵」(智慧)、「甲冑」(慈悲)。【種子】種子はボ(bu)、またはジュン(cun)。なお、胎蔵界曼荼羅の中台八葉院における観音(八葉の中央の主尊・大日如来に対して四方にいわゆる「四如来」が配されているが、その各間には「四菩薩」が配され、その左斜め下=西北に位置する)の種子は「ボ」であり、聖観音のものではなく、准胝観音のものになっている。【手印】手印は「甲冑印」を説法印とし、これが「准胝根本印」ともなるが、その印相には各種のバリエーションがある。【日本密教】【中国密教】【チベット密教】仏としての尊挌をお祀りして供養したり、その修法や法要を行なうには、それぞれの風格や儀軌に基づく約束ごとがある。ここでは唐密が伝承する「准胝法」の特徴について、お経による簡単な典拠を挙げながら紹介して行くこととする。1.前世からの宿業(カルマ)をはじめ、あらゆる罪業を滅することが出来るとする点。2.出家と在家とを問わず、必ず成仏し、無上の覚りを得ることを説く点。3.修法に際しては、『准胝鏡』(じゅんていきょう)という特別な法具の鏡を用いる点。4.准胝観音の夢告によって、宿業の浄化の度合いや修行の進展、様々な出来事を知るとする点。5.「准胝法」の壇は、准胝観音の三昧耶形である寶瓶を壇上の中央、及び四方に置いて荘厳する点。6.准胝観音と共に、『穢跡金剛』を秘密本尊(yidam:イダム)として祀る点。唐の善無畏三蔵の訳になる『七倶胝佛母心大准提陀羅尼法』と『七倶胝獨部法』には、二十五部からなる大曼荼羅があったと書かれているが、今に伝わってはいない。日本密教では、空海以来の口伝が鎌倉時代に絶えているので、真言宗と天台宗の双方に「准胝曼荼羅」に相当する曼荼羅は存在しない。ただ、文献上では豪潮律師が、灌頂や懺法等を実施しているため、江戸時代の資料の内容にも見られるように「准胝曼荼羅」はあったと考えられている。現在、「准胝曼荼羅」は台湾と香港に伝わる中国密教の「唐密」に2種類、チベット密教の旧訳の『大幻化網タントラ』を依経とするニンマ派と、新訳の『幻化網タントラ』を伝承するサキャ派とカギュ派のそれぞれに、大本である「タントラの曼荼羅」である『大幻化網曼荼羅』と『幻化網曼荼羅』、それに付随する各種の曼荼羅があり、主要な尊格として中心に准胝観音(尊那仏母)が描かれているので、これも広義の「准胝曼荼羅」と呼ぶことができ、いずれも現在では日本に請来されている。また、『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、「准胝曼荼羅」について詳しく述べると共に、その曼荼羅に登場する諸尊を解説し、掛曼荼羅の「大曼荼羅」と、敷曼荼羅に相当する土壇の「地曼荼羅」と、護摩炉を荘厳する「護摩曼荼羅」の三者を説く。「唐密」に伝わる「准胝曼荼羅」の2種類とは、説会(せつえ)の『心曼荼羅』と、准胝観音を中心とする『本尊曼荼羅』であり、それが修法の際に観想されたり、用いられたりする。1.『心曼荼羅』2.『本尊曼荼羅』3.『幻化網曼荼羅』4.『立体曼荼羅』経典や儀軌には二臂、四臂、六臂、十八臂、五十四臂、八十四臂を説くが、日本では『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』(唐・不空 訳)が広まり、そこで詳述された像容・一面三目十八臂とするものが最も多い。『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、四臂は赤色(蓮華部)、六臂は黄色(宝生部)、十八臂は白色(仏部)と述べられている。また、その手の本数が多いことから、その尊像は時に千手観音と混同される場合もあるが、正面の左右の二手が「説法印」 を結んでいるのが准胝観音で、「合掌」をしているのが千手観音である。なお、醍醐寺准胝観音坐像のように、蓮華座の下に難陀・跋難陀の眷属二大龍王がいる造例が多い。准胝観音は日本でも禅宗でよく拝まれ、黄檗宗、曹洞宗、臨済宗等の僧堂にその尊像が祀られているのを見ることができ、また、真言宗の泉涌寺の皇族が拝まれた秘仏も知られているが、いずれも江戸時代以降の作であり、奈良時代や平安時代の密教における単独の造像例はあまり多くない。真言宗智山派の寺である、京都・大報恩寺(千本釈迦堂)の六観音像(重要文化財)中には准胝観音の像がある。奈良・新薬師寺旧蔵の伝・千手観音立像(重要文化財、文化庁保管)は、その像容から本来は准胝観音像と考えられている。日本における准胝観音の歴史は古く、観音信仰の広まりによる札所等や江戸時代の禅の復興に伴い、本尊や守護仏として准胝観音をお祀りする寺院も多い。准胝観音を本尊とする寺院その他、准胝観音を祀る代表的な寺院
出典:wikipedia
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