デシ・スラヴァ(ブルガリア語:)、本名:デシスラヴァ・イヴァノヴァ・ドネヴァ(、1979年3月7日 - )は、ブルガリアのポップ・フォーク、ポップ・ミュージック歌手である。スタラ・ザゴラ近くのラドネヴォの出身。MTV World Chart Expressに楽曲「My pleasure, my pain」が紹介され、同番組に紹介された初のブルガリアの歌手の一人である。デシ・スラヴァは鉱山労働者と研究所助手の子として生まれた。デシ・スラヴァが6歳のときに両親は離婚している。その後はグルロヴォの祖母のもとで生活していたが、母親が再婚してからはヒサリャにて母親とともに暮らし、同地で小学校を卒業する。2人の義妹をよく世話していた。こうした出自のため、満足な子供時代を送ることができなかった。子供時代はとてもわんぱくで、空手を習い、警官になることを夢見ていた。5年生のときにゆったりした民謡を歌う才能を見出した。14歳のとき、スタラ・ザゴラのラジオ放送局が主催するSlaveiche少年音楽コンクールで優勝、9年生のとき地元グルロヴォの民謡合唱団に加わる。その後、ラドネヴォ・オルケストゥル()のリーダーであるミンチョ・アタナソフ()がデシ・スラヴァの歌を聴き、彼女を歌手としてグループに招き入れた。この頃の民謡分野での活躍の成果として特筆すべきものに、ヴルカナ・ステャノヴァ()音楽祭での優勝がある。1996年、ブルガリアのレコード会社パイネルは、デシ・スラヴァが歌手として歌うラドネヴォ・オルケストゥルのアルバム『'』("Orkestar Radnevo i solisti"、オルケストゥル・ラドネヴォ & ヴォーカル)を発売した。1998年、18歳のときにソロ・アーティストとしてパイネルと契約を結び、デシ・スラヴァの最初のアルバム『'』("Nyaman Problemi")は1998年にパイネルから発売された。収録曲の多くは気楽なダンス・リズムの楽曲であった。全部で11曲が収録され、うち5曲はデシ・スラヴァ自身によって作詞された。アルバムの発売後はより多くのファンを獲得し、多くの音楽祭に参加した。1999年11月、最初のソロ・アルバム収録曲「」("Zaklevam te"、問題なし)は、ポップ・フォークの楽曲に与えられる、ズラテン・ムスタンク賞( / "Zlaten Mustang")の最優秀受賞作品となった。2枚目のアルバム『』("Ezi - tura"、表か裏か)は、この年最もよく売れたアルバムとなった。2000年にはアメリカ合衆国のロサンゼルスで開催されるコンクールに2つの部門で参加し、民謡の「」とホイットニー・ヒューストンの曲を歌った。30箇国以上から参加者があつまったこの大会で、デシ・スラヴァはポップ音楽部門で銅メダルを受賞した。その後シカゴに移り、ブルガリア人が所有するMario's Cafeで歌っている時、オーナーの息子と恋愛関係となった。デシ・スラヴァは家族に出産を知らせるためにブルガリアに帰国した。出産の当日、夫のミショ()に対し、ミショの父親の名をとってマイキ()と名づけることを提案した。出産後は夫の家族とともに子供の世話をしていたが、やがて歌手としてのキャリアを続けるためにブルガリアに帰国した。楽曲「」("Beli noshti"、白夜)は非常に流行し、ポップ・フォークを代表する曲のひとつとなった。3枚目のアルバム『』("Zavinagi"、永遠)は2000年に発売された。アメリカ在住による1年間の音楽活動の休止にもかかわらず、デシ・スラヴァの人気は全く衰えることはなかった。多くのファンが熱狂的にデシ・スラヴァを支持していたが、このことが彼女の私生活に悪影響を与え、夫とは離婚した。新曲の「」("Ptitsa skitnitsa"、さまよえる鳥)は大ヒットとなった。2002年の夏、4枚目のアルバム『』("Misteriya"、ミステリー)が発売された。このアルバムや収録曲の多くが大ヒットとなった。この年の11月10日、プラネッタTVの視聴者の支持によって、デシ・スラヴァは2002年の最優秀歌手に選らばれた。2003年、デシ・スラヴァはパイネルのスタジオを離れ、スターとしての独自の道を模索しはじめる。2004年の春に「」("Prosto Zabravi"、ただ忘れて)を発表して音楽業界への凱旋を果たし、アルバム『』("Lyubovta e samo chuvstvo"、愛はただの気持ち)を発売する。このアルバムからも多くのヒット曲が生まれ、アルバムはこの年のブルガリアで最もよく売れたアルバムとなった。同じ年の秋、デシ・スラヴァは独自に立ち上げたレコード会社New Music Starsからの最初のプロジェクトとして、ブルガリアの芸能界で高い知名度をもつ歌手のアジスとのデュエット・アルバム『'』("Zaedno"、一緒に)を発売した。アルバム収録曲はいずれもヒットとなった。デシ・スラヴァとアジスの楽曲のビテオ・クリプを収めた同タイトルのDVD『'』("Zaedno")も発売された。2005年には自レーベルからの2枚目の音楽アルバムとなる、『』("Goreshta sleda"、熱い軌跡)を発売した。アルバムには12曲が収録され、うち1曲は英語の楽曲、1曲はマグダレーナ・サンチェス( / "Magdalena Sanchez")とのデュエットによるスペイン語の楽曲であった。アルバムはこれまでの作品ほどのヒットにはならず、ファンを失望させた。2005年9月24日、デシ・スラヴァは友人のガリン()と結婚したが、8か月で離婚した。離婚後も友好的な関係を維持している。2006年末には、デシ・スラヴァは7枚目のアルバム『』("Sladki sanishta"、甘い夢)を発売した。アルバムには12曲が収録され、うち4曲はアルバム収録前に先行して発表された。アルバムからは「」("Ne e ilyuziya"、幻想じゃない)や「」("Ot utre"、明日から)や、英語曲の「I’ll pray」、キューバ出身のアルフレード・トーレス(Alfredo Torres / ")とのデュエット曲「No Soy Tal Mujer」(私はそんな女じゃない)、バラードの「」("Nyakoy den"、いつか)などがヒット曲となった。また、「」("Ludost e"、狂っている)では、初めてロック、メタルの楽曲を披露した。2007年3月26日、デシ・スラヴァはアジスとともにリアリティ・ショー番組「VIP Brother 2」に参加した。参加後、デシ・スラヴァは次のように語っている:2007年、「」("Rege ton i malko chalga"、レゲトンと少しのチャルガ)、「」("100 mechti"、100の夢)の2つのシングルを発売した。2008年にはユーロ・ダンスの楽曲「Never End」や、この年の大ヒットとなったポップ・フォークの楽曲「」("Cheren snyag"、黒い雪)などのシングルをリリースした。2008年以降、デシ・スラヴァは1つのポップ・フォークのアルバム、1つのラテン・ポップのアルバム、1つの民謡のアルバム、1つの英語のアルバムを準備中であるとしている。2009年6月、新しいポップ・フォークのアルバムの発売が予告され、収録曲とジャケット写真が公開された。
出典:wikipedia
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