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ビートルズ

ザ・ビートルズ(The Beatles)はイギリス・リヴァプール出身のロックバンド。主に1960年代に活動した世界的に有名なロックバンド。1962年10月5日にレコードデビュー 。1970年4月10日に事実上解散した。"Fab Four"という愛称もある。活動期間内に母国イギリスで12作のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで週間第1位を獲得した。11作の週間第1位の合計獲得数は162週。年間売り上げ最高アルバム4作と第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続30週第1位はいずれも1960年代の最高数。シングルは22作発売し、その内17作が第1位を獲得。アメリカなど世界各国においても高い販売数を記録し、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されている。音楽誌『ローリング・ストーン』による「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第1位にランクされている。
1965年10月26日に女王エリザベス2世からMBE勲章を授与されている。1988年にロックの殿堂入り。活動前期においてはアイドルとして「ビートルマニア」と称されるファンを獲得。後期にはより音楽的な面から評価されている。「BEATLES」という名称はジョン・レノンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。ジョンの証言では、この名前が考案されたのは1960年の4月で、バディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツにあやかり、昆虫の名前で同じように2つの意味を含んでいる言葉としてビートルズを、映画『乱暴者』から思いついた。しかし、バンド名を「ビートルズ」とした頃、クラブ出演を依頼してきたブライアン・キャスは難色を示し、改名を出演条件として「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」という名称を提示した。話し合いの上、互いに譲歩して『ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ』と称する事になったが、その後ロング・ジョンを除いて「シルヴァー・ビートルズ」と称した(シルヴァー・ビートルズのつづりは途中までThe Silver Beetles)。ただし1960年8月から行った最初のハンブルク巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告には「The Beatles」と記載されている。1957年にジョン・レノンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成。それ以降はジョニー&ザ・ムーンドッグス、ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ、シルヴァー・ビートルズと改名しており、ビートルズと称するまでに複数のメンバーが入れ替わっている。ビートルズと称してから在籍したメンバーは通算6名。その内2名は1962年10月5日にシングル「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューする前に脱退している。その一人、スチュアート・サトクリフは1960年1月に加入してベース担当になり、1961年に行われた2度目のハンブルク巡業が終わった時にバンドを脱退。その後、1962年4月10日に21歳で死去した。。もう一人のピート・ベスト は、1960年8月に行った最初のハンブルク巡業の直前にドラムス担当として加入したが、1962年8月16日に解雇される。8月18日にリンゴが「ロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズ」からビートルズに加入した。1962年10月にパーロフォンからレコード・デビューした時点で「ギター×2、ベース、ドラムス」という編成となっている。これは1961年に「ギター×3、ベース、ドラムス」という編成で行われた2度目のハンブルク巡業の終了後にベース担当であるスチュアートが脱退して4人になり、ギター担当の1人だったポールがベースに転向して確立した。さらにデビュー直前の1962年8月にドラマーがピート・ベストからリンゴに交代し、解散までこの編成が続いた。最初の2枚のアルバムは2トラックレコーダーのみで録音していたので、原則としてこの編成が一発録りを行なった。3作目の『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』から4トラックが導入されて多重録音が可能になったが直ちには使用されず、5作目のアルバム『4人はアイドル』録音から「ドラムス・ベース・リズムギター」「リードギター」「ボーカル」の順に録る事が多くなっていく。中期から後期の作品では、ポールが主に自作曲でギターやピアノを担当する際に、ジョンやジョージがベースを弾くこともある他、1968年の『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)録音時のリンゴの脱退騒動に絡んで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」はポールがドラムスを担当している。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。リードギターは基本的にジョージが担当しているが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを弾いている。ジョンはリードギターを「ユー・キャント・ドゥ・ザット」の間奏部、「ゲット・バック」、「アイ・ウォント・ユー」などで弾いている。ポールは「涙の乗車券」のフェイド・アウトの部分でベースに加えてリードギターを担当。ジョージ作の「タックスマン」の間奏部とラスト部分「バック・イン・ザ U.S.S.R.」などでもリードギターを弾いている。また「ブラックバード」などのアコースティック・ギターもポールが弾いている。「ジ・エンド」の間奏部分はポール・ジョージ・ジョンの順にリレーする形でギターソロを演奏している。4人全員がいずれかの曲でリードヴォーカルを担当している。リードヴォーカルは基本的に作詞作曲した者が担当する。初期の「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などのジョンとポールの共作曲はジョンとポールが2人でリードヴォーカルを担当している。ジョージは「タックスマン」、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」、「サムシング」などの自作曲で、リンゴは「ボーイズ」「グッド・ナイト」などでリードヴォーカルを担当している。曲によっては基本編成以外の楽器も使用されており、メンバー自身が担当した作品と、外部から参加した演奏者がセッションした作品がある。メンバー自身が担当した最も初期の例では、デビューシングルの「ラヴ・ミー・ドゥ」から3曲連続でジョンがハーモニカを演奏している。キーボードは、ポールが「マーサ・マイ・ディア」、「ヘイ・ジュード」、「レット・イット・ビー」、ジョン作の「セクシー・セディー」でピアノを担当しており。また映像版の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」では「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でのイントロのメロトロンをポール自ら演奏しながら解説を行っている。ジョンは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、ジョージ作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」などでオルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器を担当しており、また1965年8月15日に開催されたシェイ・スタジアム・コンサートでは「アイム・ダウン」でVOXのオルガンを演奏している。「ノルウェーの森」から導入されたシタールはジョージが1965年頃に友人の勧めで聴いたラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入して使用した。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接レクチャーを受けている。また、「ゲッティング・ベター」や「アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタンブーラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのソードマンデルなどもジョージが担当している。「ヘルター・スケルター」ではジョンがサックスを演奏している。モーグ・シンセサイザーはアルバム『アビイ・ロード』においてジョージが導入した。1969年当時は特注品のモジュラー・システムしか存在しなかったが、「ヒア・カムズ・ザ・サン」や「ビコーズ」でジョージが演奏。ポールも「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。外部から参加したミュージシャンの例では、セッション・ドラマーのアンディ・ホワイト()が、デビュー曲となった「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに参加している。ただしこれはメンバーの意向ではなくプロデューサーのジョージ・マーティンの判断によるもの。メンバーの意向による参加ミュージシャンの例では、クラシック音楽の分野から「イエスタデイ」、「エリナー・リグビー」で弦楽四重奏団が、「ペニー・レイン」ではピッコロ・トランペット奏者が招かれている。同じロックやポップスの分野では「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」でリードギターを弾いたエリック・クラプトンや、「レボリューション」でエレクトリックピアノを弾いたニッキー・ホプキンスが挙げられる。プロデューサーのジョージ・マーティンは「イン・マイ・ライフ」の間奏のクラシカルなピアノを弾いた。また、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズは「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで参加している。アルバム『レット・イット・ビー』のセッションにはビリー・プレストンがエレクトリックピアノやハモンド・オルガンなどで参加している。ただし外部から参加したミュージシャンはプレストンを除いてレコードのクレジットには記載されていない。メンバー4人のうちポールとリンゴは左利きである。ポールは文字を書く時も左で、リンゴは文字を書く時は右で書く。ポールは自身で「僕は左利きだ」と述べており、演奏しているベースやギターが左利き用である事や、文字を左手で書いている写真・映像などで確認できる。リンゴは自身の発言はないが、演奏しているドラムスが右利き用である他、サインなどの文字を右手で書いている写真が存在する。オリジナル曲はすべてメンバーが作詞作曲している。最も多いクレジットはジョンとポールの共作名義である「レノン=マッカートニー」で、ビートルズナンバー213曲の内、144曲が「レノン=マッカートニー」名義になっている。それ以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、名前の並びが逆の「マッカートニー=レノン」作品8曲、「ジョン・レノン・アンド・ポール・マッカートニー」が13曲(シングル・カット、シングル収録曲のレノン=マッカトニー名義と重複するものあり)、ジョージの作品22曲、リンゴの作品2曲、レノン=マッカートニーとリンゴの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている。未発表曲集『ザ・ビートルズ・アンソロジー』には、ジョンとジョージの共作、ポールとジョージの共作の作品も収録されている。「レノン=マッカートニー」名義の作品はアメリカのビルボード、イギリスのミュージック・ウィークの双方で第1位を記録した曲が多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。ジョンとポールがどの曲でどの程度の役割を担っているかという公式な記録は無いが、書籍「ザ・ビートルズ・アンソロジー」のポールのコメントによれば、「プリーズ・プリーズ・ミー」はジョンがメイン、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」はポールがメイン、「フロム・ミー・トゥ・ユー」は半々、と様々なパターンが存在するが、基本的にはその曲をメインで作った方がリード・ボーカルを取っていることが多い。また同書によれば、共同クレジットで発表していくことは早い時期から決まっており、「レノン=マッカートニー」という序列は2人の話し合いの上で決定した。ただし第1作のアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』でのみ「マッカートニー=レノン」という表記になっており、「イエスタデイ」などポールが主に作詞作曲した曲は「マッカートニー=レノン」表記にする事も検討されたが実行はしていない。結成当初から、ジョンとポールのどちらか一方が単独で作った曲であっても、クレジットは「レノン=マッカートニー」または「マッカートニー=レノン」と連名にする約束が取り交わされていた。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている。クレジット通りに2人で共作した曲は二十数曲という見解もあったが、ジョン・レノンはインタビューで否定しており、ポールも自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」において「多くの曲が共作である」と述べている。ただし「共作」の割合は曲によって異なり、50-50で作った曲もあれば、一方がメインで作詞作曲し、もう一方は手伝った程度という曲もある。1957年3月、ジョンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成する。同年7月6日、ウールトン()のセント・ピーターズ教会()が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンのコンサートをポールが観る。ポールは共通の友人であるアイヴァン・ボーンに紹介されジョンに面会した。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック( )」、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」、それにリトル・リチャードのメドレーを歌った。ポールが歌詞を完璧に覚えている事に加え、トランペットやピアノも演奏出来る事にジョンは感心してクオリーメンに勧誘し、翌日にポールは参加すると返答した。翌1958年2月6日、ポールの紹介でジョージがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー()」を完璧に弾きこなした事と、2人よりも多くのコードを知っていた事でジョンに認められ、バンドに加わる。1959年になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。同年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」とする。1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入しベーシストになる。同年4月、ジョンとスチュアート・サトクリフがバンド名はビートルズではどうかと提案するが、興行側のブライアン・キャスが改名を要請。交渉してバンド名を「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」とする。1960年5月、ロンドンの音楽関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガーのバックバンドを務めるオーディションにエントリーする。参加を約束していたドラマーは来られなくなったが、キャス&カサノヴァズのジョニー・ハッチンソンが代役でドラムスを担当して合格する。この後、シンガーに決定したジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてスコットランドにツアーに出る。この時、ジョンは「ロング・ジョン」、ポールは「ポール・ラモーン」、ジョージは「カール・ハリスン」、スチュアート・サトクリフは「スチュアート・ド・スタール」とそれぞれが芸名を付けていた。このツアーではトニー・ムーアというドラマーが参加し、ツアー終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退する。8月、アラン・ウィリアムスを通じて西ドイツのハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドを希望してきたため、新たなドラマーが必要となる。この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。この編成で最初のハンブルク巡業に向かい「インドラ」というクラブで毎日6〜8時間の演奏を行う。当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪かったが、マネージャーのアドバイスもあってショー・アップを心がけ、長時間のステージで演奏も上達した事により、次第に人気を獲得していった。1か月後「カイザーケラー」に移動。「デリー&ザ・シニアーズ」や、リンゴ・スターがドラムスを務める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と交代で出演する事になり、この時にリンゴと知己が生まれる。またこの頃、ピートがステージを休むことが数回あったため、リンゴが代役としてビートルズでドラムスを叩く機会があった。さらに、この頃アストリット(アストリッド)・キルヒヘル()が友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる。写真家を目指していたアストリットによって、この頃のビートルズの写真が撮影され、それが後に『ザ・ビートルズ・アンソロジー』などの文献に収録された。同時期にアストリットの友人で、後にイラストレーター、ミュージシャンとしてメンバーと関わるクラウス・フォアマンとも親交を結ぶ。ハンブルクでクラブ演奏を始めて3か月後、カイザーケラーより格上の「ザ・トップテン・クラブ」()からの出演依頼が来たのと時期を同じくして、ジョージが満17歳で就労年齢制限に抵触している事が発覚して強制送還となり、さらに宿舎にしている映画館の出火を理由にポールとピートも強制送還となり、残されたジョンも自力で帰国。スチュアートだけはアストリットに援助されしばらくハンブルクに滞在した。1961年1月、ハンブルクでの失敗でバンド活動を停止していた所にアラン・ウィリアムスからクラブDJのボブ・ウーラーを紹介され、オーディションの上でリヴァプールのキャヴァーン・クラブにレギュラー出演するようになる。またキャヴァーンへのメンバーと楽器を搬送するローディー役としてニール・アスピノールが、続いてマル・エヴァンズ が雇われた。同年4月、2度目のハンブルク巡業を開始。前回、出演依頼があったザ・トップテン・クラブで演奏するようになる。このハンブルク巡業では初めてレコード会社によるレコーディングも実現した。また、再会したアストリットと一緒にプールに行った際、メンバーの髪が前に垂れている状態を見て気に入ったアストリットは、垂れたままの髪型にする事を提案。ピート以外の4人がその垂れた髪型を使うようになり、それは後に「ビートルカット()」と呼ばれるようになる。2度目のハンブルク巡業が終わった時点でスチュアートが脱退。アストリットと婚約してハンブルクに残る事になる。ポールがギターからベースに担当を替え、4人組のビートルズが誕生する。帰国後の8月、ジョンの級友だったビル・ハリー()が音楽新聞「マージービート()」を発刊。ジョンの書いた文章が載るようになる。12月10日、リヴァプールでレコード店「NEMS」を営んでいたブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる。このブライアンの売り込みにより、1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるが、不合格となる。その後もライブ活動を続ける傍ら、ブライアンが各レコード会社に売り込みを続ける。4月から3度目のハンブルク巡業を開始し、11日からスター・クラブで演奏。その前日の4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去する。6月、EMI傘下のパーロフォン・レーベルから、プロデューサーのジョージ・マーティンによるオーディションが打診される。6月6日に行われたオーディションを受けてデビューが決まった後の8月15日、ピート・ベストが解雇される。直後にリンゴ・スターが加入し、9月からEMIでレコーディング・セッションが行われる。この時はリンゴの他に、マーティンがオファーしたドラマーのアンディ・ホワイトが参加している。また、エンジニアとして参加したノーマン・スミス()は、この後『ラバー・ソウル』までチーフ・エンジニアを務める事になる。ザ・トップテン・クラブでは、ビートルズはトニー・シェリダンのバック演奏も担当した。1961年6月22、23日、1962年5月24日、この縁でシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加(ビートルズのポリドール・セッションを参照)。レコード会社は「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」と、バンド名を変えて発売。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのボーカルの「いい娘じゃないか()」、インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた。1962年10月5日にイギリスにてデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を発売"。ミュージック・ウィーク誌()のトップ50では1962年12月27日付で最高位17位を記録。1963年1月11日にリリースされた英国での2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がメロディー・メーカー誌1963年3月2日付けのシングル・トップ50で1位(ミュージック・ウィーク誌は最高位2位)を獲得。この曲のヒットにより英国で一躍人気グループになり、4月11日にリリースされた3曲目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」ではミュージック・ウィーク誌で1963年5月2日付けから6月19日付けまで7週連続1位となる。このフロム・ミー・トゥ・ユー以降は「シー・ラヴズ・ユー(8月23日発売/1位6週)」、「抱きしめたい(11月29日発売/1位5週)」などとシングルが連続して1位を獲得した。アルバムは1963年4月26日に英国でのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を発売し、5月11日付けでチャート第1位となり、その後、連続30週間、第1位が続いた。連続第1位が続いている中、1963年11月22日にセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』を発売し、12月7日に『プリーズ・プリーズ・ミー』を押しのけて第1位を獲得。1964年5月まで21週間連続1位になる。ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの第1位を占有していた。10月13日、当時の人気テレビ番組「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム()」に出演。およそ1500万人がビートルズの演奏を視聴した。メンバーの発言によれば、これによってビートルズはイギリスでの人気を決定的なものとし、さらに11月4日にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)に出演している。同じ頃、ビートルマニアと称されるファンの一部の行動が社会問題化し始める(詳細は#批判と公的な抑圧を参照)。しかしこの頃、アメリカではまだヒットを出せていなかった。新曲が出来るたびに、ジョージ・マーティンはアメリカ合衆国側でEMIレコードを販売しているキャピトル・レコードにアメリカでの販売を要請したがキャピトルは拒否。その為ヴィージェイ・レコードやスワン・レコード()などEMIが英国での配給権を取得している小さなレーベルと契約してレコードを販売したが、ポールの発言などによれば、レコード会社が小さい事もあり、大規模な販売は実現しなかった。その後「ライフ誌」や「ニューズウィーク誌」がビートルズを記事にし、ラジオのディスク・ジョッキーがビートルズのレコードをかけ始めると、ビートルズはアメリカでも次第に知られる様になり、キャピトルの方から「レコード販売させて欲しい」と要請して来た。1964年1月にフランス公演を行う。その最中にアメリカで「抱きしめたい」(キャピトルで発売した初のシングル)がシングルチャート1位になった。2月にグループとして初めて渡米し、9日にCBSの「エド・サリヴァン・ショー」に出演。ポールの発言によれば視聴者数は7300万人となった。11日にワシントン・コロシアムで初のアメリカ公演を行う。カーネギー・ホールで2回目の公演を行った後、16日にマイアミのドービルホテルで2回目のエド・サリヴァン・ショーに出演。この番組の冒頭で司会のサリヴァンは、ビートルズが初出演した9日の放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとコメントしている。4月4日、アメリカでチャート上位5位までを独占。6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界ツアーが開催されるが、リンゴが扁桃腺炎に患って入院し、代役としてジミー・ニコル()が起用される。その後回復したリンゴはオーストラリアで合流。アデレードのタウン・ホール()での公演の際は、集まった30万人から歓迎を受けている。7月6日、イギリスでリチャード・レスター監督による映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』が公開。10日に同名映画のサウンドトラックアルバムを発売し、『ウィズ・ザ・ビートルズ』を抜いて12週間1位を保持していたローリング・ストーンズのファーストアルバムを押しのけて7月25日に第1位になり、そこから21週間連続1位を維持した。この後、1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、それ以外ではボブ・ディランと『サウンド・オブ・ミュージック』のサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった。またアメリカのビルボードにおいても、アメリカ編集盤『Meet The Beatles!』(11週連続)、『The Beatles' Second Album』(5週連続)、『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(14週連続)の3作が1位を獲得している。「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上を売り上げ、歴代トップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。8月からは第2回アメリカツアーを行い、34日間、24都市で32公演が開催される。9月に帰国し、アルバム『ビートルズ・フォー・セール』を録音。10月からはイギリスの27都市で公演を行った。12月4日、イギリスで『ビートルズ・フォー・セール』を発売。1965年2月から映画「ヘルプ!4人はアイドル」の撮影を開始。前作のモノクロのドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生するストーリーが存在するカラー作品となった。7月に公開され、サウンドトラックアルバム『4人はアイドル』は8月6日にリリースされた。その収録曲のひとつである「イエスタデイ」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる。8月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで55600人の観客を集めた野外コンサート開催(詳細は#野球場でのコンサートを参照)。10月、メンバーにMBE勲章が授与される。12月にアルバム『ラバー・ソウル』を発売。ジョンは「このアルバムはビートルズが音楽的に同時代に影響を与えた最初のアルバム」と述べており、「ドライヴ・マイ・カー」や「ひとりぼっちのあいつ」、シタールを演奏に加えた「ノルウェーの森」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。シタールの導入はラヴィ・シャンカルの影響を受けたジョージの提案である。同月、最後のイギリスツアーを行う。このツアー中に、メンバーがコンサート活動を続けるかどうか話し合っている。1966年3月、ジョンがイギリスでのインタビューでビートルズとキリストを比較する発言を行う。8月になってその発言の一部がアメリカのマスコミに転載され、物議を醸す(詳細は#ジョンのキリスト発言を参照)。4月にアルバム『リボルバー』の録音を開始。この作品からノーマン・スミスに代わってアシスタント・エンジニアだったジェフ・エメリックがチーフ・エンジニアに就任。6月24日から7月4日までドイツ・日本・フィリピン公演を行う。8月、最後の(ただし最後だという事はメンバー間のみの秘密事項だった)アメリカ公演を行ない、29日のキャンドルスティック・パークで終了した(詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照)。同月5日、イギリスで『リボルバー』を発売。1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、加えてレコーディングや映画撮影、テレビ出演などもあってメンバーの疲労も非常に激しいものとなった。そのため、1965年の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりにコンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使うことになった。1965年8月15日にニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて開催されたコンサートの観客人数は55600人に上っている。これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが開催した全てのコンサートの中でも最大数である。1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された。ただし、こういった大規模な野外コンサートに対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており、これがビートルズのツアー中止の一因となった(詳細は#コンサート・ツアーの停止とレコーディングアーティストへの変遷を参照)。これ以後、野球場・サッカー場といったスポーツ競技場での大規模コンサートは一般化していき、日本でも1968年8月12日にザ・タイガースによる後楽園球場でのコンサートが開催されて以降、スポーツ競技場でのコンサートが開催されるようになる。また、スポーツ競技場以外でも1969年のウッド・ストックや1970年のワイト島フェスティバル()といった大規模野外コンサートが行われるようになる。1965年8月27日に、ビートルズはロサンゼルスのエルヴィス・プレスリー宅に招かれた。エルヴィスのマネージャーであるトム・パーカー大佐がエプスタインと「極秘の打ち合わせを行なう」という名目だったが、エルヴィス宅周辺には人々が集まった。面会に際してメンバーはバカだと思われないように装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。部屋でエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習しながらくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激したメンバーは呆然としてしまい、エルヴィスが「ずっとそうやって僕を見ているだけなら僕はもう寝るよ。せっかく演奏ができると思って待っていたのに」と声をかけたことから、即興演奏が始まった。エルヴィスはベースを演奏し、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったので演奏せずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。エルヴィスはビートルズの曲も歌い「君たちのレコードは全部持っているよ」と言った。対してジョンは「僕はあなたのレコードは1枚も持っていない」と発言したのでその場が凍りついた。これはジョン流の過激なジョークだったのだが、エルヴィスはその発言に気分を害してしまった。ジョンはエルヴィスのベトナム戦争に賛同する姿勢や、マンネリ気味である映画を痛烈に批判した。これらの事をきっかけにエルヴィスはジョンを嫌うようになった。エルヴィスはポールやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に歌っているが、ジョンの曲は歌っていない。ジョンは発言を反省したのか後日、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)に「エルヴィスがいるからこそ今の自分がある」と伝えるよう頼んだという。しかし後にジョンがアメリカに住み、ベトナム反戦運動を積極的に行っている頃、エルヴィスはニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」との手紙を出したとも言われている。この面会は当時の音楽界に於いて最も注目すべきものだったが、会話は録音されていない。これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタインがエルヴィス側へ気を利かせ会話録音を一切許可しなかったからである。日本公演は1966年に行われた。ビートルズは6月29日(水)午前3時39分に羽田空港に到着。公演は6月30日(木)および7月1日(金)・2日(土)に行われ、7月3日(日)午前10時44分に離日した。会場はすべて東京都千代田区の日本武道館。司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。この前座バンドについては後にポールが「ハロー・ビートルズ、ウェルカム・ビートルズ、といった歌が聴こえて来た。音楽性は高くないがそういう歓待は嬉しかった」と発言している。このとき歌われた楽曲「ウェルカム・ビートルズ」は1966年9月10日発売のジャッキー吉川とブルーコメッツのアルバム『青い瞳/青い渚 ブルー・コメッツ・オリジナル・ヒット集』に収録されている。しかしそうした歓待の一方で、日本武道館という場所でポップ・ミュージックを演奏する事について批判する者も存在した。右翼団体、大日本愛国党総裁の赤尾敏をはじめとした街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいた。このため警視庁は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行った。またビートルズ自身も行動が著しく制限され、分刻みのスケジュール管理および外出禁止などの措置がとられた。コンサート自体はマイク・スタンドの不備などの問題は生じたものの、事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(観客は立ち上がったり近づいたりする事が許されていなかった)会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは最初のステージで自分達の音が合っていない事に気づいてショックを受けた。ジョージ・ハリスンは最初のステージ後、「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。彼らは、次のステージまでに急いで改善の努力をした。1966年7月3日(日)午前10時44分頃に羽田空港を発つと、日本航空機で香港に行き、キャセイパシフィック機に乗り換えてマニラに渡航した。7月4日にアラネタ・コロシアムにて公演を2回行ない、計10万人を動員。7月5日に離比。。4日のコンサートの前にイメルダ・マルコスによる歓迎パーティーが大統領官邸でとり行われることになったが、コンサートの前の時間が滅多に無い休日だったため、)ビートルズ側はこの出席を辞退した(ニール・アスピノールによればブライアン・エプスタインが事前に欠席する意向を伝達していた)。それにもかかわらずフィリピンのテレビは官邸からの生中継で「もうすぐビートルズが到着する」と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を要請し続けたが、結局ビートルズ側は出席しなかった。5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。離比しようとしているビートルズは空港等で多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する。ロードマネージャーが小突かれたり足蹴にされたり、離陸許可がなかなか出ず、結局コンサートの収入をすべて当局に渡して許可がようやく出てフィリピンを離れることができた。後にメンバーおよび関係者は事件について「スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない」と述べている。後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。ニール・アスピノールは「この事件はビートルズからツアーえの意欲を奪った一因」と述べている。1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるジョンのインタビュー記事が「ロンドン・イブニング・スタンダード()」誌に掲載された。この記事の一部がアメリカ公演間際に、アメリカのティーン雑誌「デイトブック()」に転載された。元の記事は紙面にして2頁という量だったが、デイトブックはその中の1行である「ビートルズはキリストより有名だ()という発言を抽出して掲載した。これが「神を冒瀆した」とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄、焼却されるという事態に発展。特にアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った。この事態に対し、ブライアン・エプスタインはツアー前に声明を発し「その解釈が誤解で、ジョン・レノンは神や宗教に対して真摯な態度の人間である。しかし現在の若者にはビートルズの方が影響力がある、と言いたかったのだ」という旨を述べた。またアメリカ各地のプロモーターに対してコンサートをキャンセルしても構わないと告げたが、キャンセルを申し出たプロモーターはいなかった。公演前にジョンが釈明会見を行ったが騒動は続き、バイブル・ベルトに着いた頃には乗っているバスの窓が群集に叩かれるなど危険な事態が生じた。アメリカツアーは予定通り行われたが満員にならない会場も多かった。事件から42年を経た2008年11月、ローマ教皇庁はヴァチカンの公式新聞「オッセルバドーレ・ロマーノ紙」にて、ジョンの発言を赦す声明を発表した。「予想外の成功を手にした若者が『豪語しただけ』に過ぎない」というのがローマ教皇庁の見解であり、この事件に終止符を打った。2010年4月には、ビートルズ解散40年に合わせ、同紙はビートルズを称賛する記事を掲載した。ビートルズのコンサート活動は1966年8月29日のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートを以て終了した。1965年の段階でリンゴやジョージはスケジュールの過酷さに不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調面や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーがコンサート自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず、PAも満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100ワットのアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている(ちなみに、世界で最も大きな音量を出すバンドとして1973年にギネス・ブックに掲載されたディープ・パープルのPAは、最大25600ワットの出力が可能だった)。こういった機材面の問題に加え、観客が音楽を聴いていない事もメンバーは不満に感じ始めており特にジョンはこの状況について、ビートルズのコンサートは音楽とは関係無いと発言している。さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館での演奏への一部の反発から大掛かりな身辺警護が実施され、その後のフィリピンでの出来事や8月のアメリカでの騒動など、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り、コンサート活動の終了に至った。ブライアン・エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでジョージに「来年もツアーをやるの?」と質問され、「1967年はツアーを行わない」と回答している。さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質した(詳細はアップル・コアを参照)ことも、公演活動の再開を遠ざけた。こうした反面、ビートルズはスタジオでの創作活動に意欲を振り向け始め、コンサートでは再現困難な作品も作り始めていた。すでに1965年の「ひとりぼっちのあいつ」や1966年の『ペイパーバック・ライター』など、ボーカル・ハーモニーのライブ再現が難しい曲が発表されていたが、コンサート活動の終了後、初めて発売した1967年のオリジナル・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は制作に半年を費やし(初期のアルバムは12時間で録音した)コンサートでの再現を想定していないスタジオワークの技術が多く使用された。1966年9月、ジョンは映画『ジョン・レノンの僕の戦争()』の撮影のためスペインに向かい、この撮影の休憩時間を使って「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が書かれる。ほぼ同時期にジョージはインド音楽の研究のためインドに行き、ラビ・シャンカルに対面している。11月、ジョン・ダンバーの招待でジョンがインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコに出会う。同月、ツアー終了後初めてアビーロード・スタジオに集合し「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」、「ペニー・レイン」等を録音。これらの曲は当初、次のアルバムに収録する予定だったが、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため、この内の2曲を先行してシングル発売する事になった。1967年2月、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」が両A面シングルとして発売。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスでアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売される。このアルバムは当時のポピュラー音楽界の枠を超えて多大な文化的影響を与えたと言われている。同月25日、3億人が視聴した世界同時衛星中継番組「アワー・ワールド(われらの世界)」に出演し、「愛こそはすべて」を披露する。同曲は7月にシングル発売された。8月、ジョージがサンフランシスコに行き、ヘイト・アシュベリー()でヒッピーらと交流を持つが、ドラッグ・カルチャーに対して否定的な結論に至り、逆にシタールの習得の際に触れたインドの瞑想に深く関る様になる。このジョージの発案により、8月24日、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで行われたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。続けてウェールズのパンゴア()でのセミナーに参加する。しかし27日にブライアン・エプスタインが急死したため、4人はセミナーを辞去してロンドンに戻る。エプスタインの死によってビートルズのマネージメントの不備が明らかになり、アップル・コア設立が企図される。9月からテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の撮影が行われ、年末にBBCで放映される。同作のサウンドトラックは、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤、12月にイギリスでEP盤が発売される。1968年1月、ジョージがインドのボンベイで『不思議の壁』を録音。同名映画()のサウンドトラックで11月に発売された。その後メンバー全員でリシケーシュのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。その間にニール・アスピノールとデレク・テイラー()の主導でアップル・コアの設立準備を行う。5月、ニューヨークでジョンとポールがアップル・コア設立の記者会見を行う。7月、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』を公開。8月、ジョンと妻のシンシアの関係が険悪になったことから、夫妻の息子であるジュリアンにポールが伝えたいと思ったメッセージが元になったシングル「ヘイ・ジュード」が発売される。11月、初の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)が発売。ブライアン・エプスタインが設立したアップル・パブリッシングという投資会社が元になっている。しかしエプスタインが死去し、その時点でのマネージメント契約や権利の所在がビートルズにも把握困難になったため、メンバー4人およびマル・エヴァンスとニール・アスピノールの計6人が話し合い、その対応策としてアップルを拡大する事にした。1969年1月、トゥイッケナム・スタジオ()で、レコーディングとドキュメンタリー映画の撮影を兼ねたゲット・バック・セッションが始まる。だがレコーディングの過程でメンバー間の不和が増大。ポールとジョージが衝突し、ジョージが一時離脱する。ミーティングの上でジョージは復帰を承諾するものの、トゥイッケナムでの続行に不満が提起され、サビル・ロウに新しく作られたスタジオに移動する。ジョージの提案でビリー・プレストンをセッション・プレイヤーとして招聘してセッションを再開したが、結局この時点ではアルバムリリースには至らず、次回作と発売順が入れ替わる結果となる。1月30日、映画のラストで使用された屋上でのライヴパフォーマンス(ルーフトップ・コンサート)を敢行するが、警察が苦情を申し立てて中断になる。その後、アップル・コアの財政が危機に陥り、マネージャーの決定を巡ってメンバー間で対立が起こる。ポールは恋人のリンダ・イーストマンの父リー・イーストマンを推したが、他の3人はアラン・クレインを推した。3月12日にポールがリンダと結婚。同日、ジョージの家を警察がマリファナ所持の容疑で捜索。同月20日、ジョンとヨーコがジブラルタルで結婚式を挙げる。4月、アビー・ロード・スタジオにてアルバム『アビイ・ロード』の録音を開始(発売は9月)。音楽雑誌『ローリング・ストーン』1969年9月号に、ビートルズが同年2月から5月(アルバム『アビイ・ロード』セッションが始まる直前)に『ホット・アズ・サン』というタイトルのアルバム・セッションを行ったという記事が掲載されたが後に誤報と判明している。8月8日午前10時頃に『アビイ・ロード』の写真撮影が行われる。当日は暑かったためポールはスーツにサンダル履きという姿で現場に出向いており、実際にサンダルを履いて横断歩道を渡るカットも撮影された。22日、ジョンの新しい私邸にて全員が揃った最後の写真撮影が行われる。9月、ジョンとヨーコが結成したプラスティック・オノ・バンドがカナダのトロントでコンサートを行う。ジョージはメンバーに誘われたが辞退し、エリック・クラプトンがギタリストとして参加した。ジョンが帰英した後の9月末、アップルで今後の活動に関する会議が行われた「小規模なギグからコンサートを再開したい」というポールの提案にジョンが「お前はアホか?俺は辞める!」と述べた。しかしアラン・クレインはジョンの脱退意向を公表しなかった。1970年4月10日にポールがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは事実上解散となった。4月17日にポールはソロアルバム『マッカートニー』を発売。5月8日にフィル・スペクターのプロデュースでゲット・バック・セッションでの録音をまとめたアルバム『レット・イット・ビー』が発売される。『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』は、収録順と発売順とが逆になっている。時系列は以下の通り。ポールの提案による『ゲット・バック・セッション』は1969年1月3日〜31日に行われた。このセッションは「新アルバムのレコーディングに加え、スタジオでのセッションをすべて撮影し、その模様をドキュメンタリーにして放送、そして新曲を引っさげライブ活動を再開する」というプロジェクトとして企画された。撮影されたフィルムは後に編集されて、映画『レット・イット・ビー』として公開されることになる。しかし、セッションで収録された音源をメンバーは気に入らず、制作されたテスト盤『ゲット・バック』は公式にリリースされる事は無かった。その後、『アビイ・ロード』の制作が開始されたため、このセッションはお蔵入りとなってしまう。録音された楽曲に興味を失ったメンバーはこのプロジェクトを放棄したものの、アップルがこのプロジェクトに大量の投資をしていたこともあり、楽曲を廃棄は出来なかった為、ジョンやジョージらの依頼によりフィル・スペクターがプロデュースを担当。アルバム『レット・イット・ビー』が完成した。映画の公開にタイミングを合わせた事もあって、発売はレコーディングから丸1年以上経ってからになった。一方、『アビイ・ロード』は従来通りメンバーとジョージ・マーティンがアビー・ロード・スタジオで制作した作品であり、完成した翌月に発売された。この件について、リンゴは「世の中がどれ程よじれているかが分かる出来事だ。映画は僕やジョンやポールが編集した方がずっと面白いものが出来ただろう」と述べている。1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表。9月に「ジョージがクラウス・フォアマンを加入させてベース担当にする」との噂が立ったため、 ポールは12月30日にロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、他の3人は上告を断念したため、ビートルズの解散が法的に決定された(詳細はビートルズの解散問題を参照)。解散後、4人はそれぞれ音楽活動を行っており、1995年に開始された『ザ・ビートルズ・アンソロジー』までは、再結成または任意のメンバーが組んで継続的なバンドやユニットを結成する事は無かった。ただし相互の作品への参加やコンサートへの出演などは実現している。解散直後には、1971年のジョンのアルバム『イマジン』収録の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」に代表されるように、ジョンとポールはお互いのソロ作品の中で互いへの非難を繰り広げている。ジョンは同じくポールと不仲であるジョージをも録音に誘い、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」の歌詞の中で『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や「イエスタデイ」、ポールのソロ・デビュー曲「アナザー・デイ」までも持ち出して、ポールの事を辛辣に皮肉っている。しかし、そういった行為は次第に収まっていき、1980年にはジョンは「3人に親愛を抱いている。3人が自分の人生の一部を占めている事は事実である」と述べている。ジョージもビートルズ内部の騒動についての自らの責任に言及し、ポールも「問題が発生しているかどうかとは別に、4人の結束は常に固い」と述べている。なお、リンゴだけは、解散以後も他の3人のメンバーとの良好な関係を保ち続け、ジョン、ポール、ジョージともにリンゴのソロ・アルバムの録音に参加している。1973年リリースのアルバム『リンゴ』ではテープの上だけではあったが4人が同じ新作アルバムの中で演奏した。ジョンが書いた収録曲「アイ・アム・ザ・グレイテスト」ではジョン、ジョージ、リンゴが一緒に演奏している。1971年8月、ジョージの主催による「バングラデシュ・コンサート」がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催され、リンゴも参加した。そのライブ・アルバムは翌1972年にリリースされ、第15回グラミー賞の年間最優秀アルバム賞を獲得している。1973年、アップル・レコードより2種類の2枚組ベスト・アルバム『ザ・ビートルズ1962年〜1966年』(赤盤)と『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』(青盤)がリリース。赤盤がビルボードのアルバムチャートで3位、青盤が1位を獲得した。日本のオリコンでは赤盤が7月9日付けで1位、73年度の洋楽年間チャート1位となっている。またこの年、世界各国でビートルズのリバイバル・ブームが起こり、『タイム』や『ニューズウィーク』などでも改めてビートルズが取り上げられた。11月にリリースされたリンゴのソロアルバム『リンゴ』では、録音作品の上だけだったが解散後初めて4人全員が揃った。1980年12月8日(米国東部時間)ジョンが自宅前で射殺される。 翌1981年にジョージが発表したジョンの追悼曲『過ぎ去りし日々』ではリンゴがドラム、ポール率いるウイングスがコーラスとして参加し、ジョンの死後初めて残りのメンバーが共演した作品となった。1985年、『ギネス・ワールド・レコーズ』が「世界でのビートルズのCD・レコードの総売り上げが10億枚以上」と認定。1987年3月9日、ビートルズが曲の制作者の名義としていた「レノン=マッカートニー」がアメリカの「ソングライターの殿堂()」に選ばれる。本来はアメリカ国内のソングライターに対するもので、アメリカ人以外の作曲家としては初の殿堂入りとなる。1995年、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の企画が開始され、同年11月、その先鞭としてコンピレーション・アルバム『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』がリリースされる。同アルバムには、ジョンの未発表曲を元に製作された新曲「フリー・アズ・ア・バード」の他、デビュー前から1964年ごろまでの未発表曲やデモ、別テイクが収められ、ビルボードのアルバム・チャートで3週連続1位を獲得している。翌1996年には『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』と『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』を発売。1999年には初のリミックス・アルバムとなる『イエロー・サブマリン~ソングトラック~』を発売する。2000年10月、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の書籍版が出版。同年11月、米ビルボードと英ミュージック・ウィークで1位になった曲27曲を集めたベスト・アルバム『ザ・ビートルズ1』が発売。世界34ヵ国で1位を獲得した。 2001年11月29日、ジョージ・ハリスンが肺癌のため死去する。2003年11月、アルバム『レット・イット・ビー...ネイキッド』が発売。ゲット・バック・セッションで録音した音源をリミックスし、『レット・イット・ビー』でポールが不満を表明していたフィル・スペクターによる追加部分を削除している。2006年11月、シルク・ドゥ・ソレイユのミュージカルのサウンドトラックとして、リミックス・アルバム『ラヴ』がリリース。2007年1月、イギリスでビートルズのアルバム・ジャケット画を使用した切手が発売。2009年9月9日、オリジナルアルバム、米編集『マジカル・ミステリー・ツアー』、『パスト・マスターズ』のCDがデジタルリマスターされたステレオ音源で世界同時発売。なお、現行盤でモノ音源として出回っている『ビートルズ・フォー・セール』までの4作がオリジナルステレオミックスとして初めてCDとしてリリースされた。同日『ザ・ビートルズ』までのオリジナルアルバムのモノ音源と2枚組の『モノ・マスターズ』(ステレオ盤の『パスト・マスターズ』に対応したアルバム未収録曲集)を収録したCD BOX『ザ・ビートルズ MONO BOX』も発売され、『ヘルプ!』、『ラバー・ソウル』には発売当時のステレオミックス音源も追加収録された。ステレオ・アルバム・ボックスをUSBメモリに収録した『THE BEATLES STEREO USB』も発売された。このボックスにはオーディオCDのスペックをしのぐFLAC 44.1Khz 24 bitで収録された音源の他、CDブックレット、ボーナスDVDをデータ化したものも収録されている。2010年、オリジナル作品のiTunesでのデジタル配信が解禁となる。『ラヴ』も2011年2月に配信され、同時にアルバムで1位を獲得した。2011年6月、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』のリマスター版が配信開始。2013年11月11日『オン・エア - ライブ・アット・ザ・BBC Vol.2』が世界同時発売。2014年にはビートルズの米国上陸50周年のメモリア

出典:wikipedia

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