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広幡忠幸

広幡 忠幸(ひろはた ただゆき)は、江戸時代前期の公卿。皇族として生まれ、のちに臣籍降下して広幡家を創設し、その初代当主となった。正式の姓名は、源 忠幸(みなもと の ただゆき)である。「忠」の字は兄・八条宮智忠親王より偏諱を賜ったものであり、やがて広幡家の通字となっていった。1624年(寛永元年)に正親町天皇の皇孫で八条宮家(桂宮家)の始祖である八条宮智仁親王と京極常子(丹後宮津藩主・京極高知の娘)の第3王子として八条宮家(桂宮家)に生まれる。1649年(慶安2年)12月11日、尾張藩主・徳川義直の長女・京姫と婚約、同時に徳川義直の猶子となる。1650年(慶安3年)1月3日、加冠の儀を行い、元服する。同年2月9日、京都を出発、2月13日名古屋に到着する。以後、名古屋城で暮らす。同年2月28日、京姫と結婚する。尾張藩からは合力米3000石を献上されていた。しかし、1660年(万治3年)4月には京都に戻り、朝廷に対し松殿家(1646年(正保3年)に途絶えていた)を再興するなどして、公家に戻ることを願う。一方、実兄の八条宮智忠親王は、皇族になることを進言した。1663年(寛文3年)11月、霊元天皇より源姓が下賜され臣籍に下ることとなった(正親町源氏)。12月には「広幡」の家号も与えられ、新たに家を興すことが許された。広幡家の公家としての家格は村上源氏嫡流の久我家と同じく、清華家とされた。1665年(寛文5年)に名古屋から京都へ戻り、以降は公家町に邸宅を構え、朝廷に出仕した。同年中に従三位・権中納言を拝命し、さらに左中将に任じられている。1667年(寛文7年)に正三位となり、1668年(寛文8年)には権大納言に就任したが、その翌年に薨去している。享年46。なお、1667年(寛文7年)3月16日に広幡家の所領として近江国蒲生郡など1000石を賜っているが、豊忠の代に家禄が500石に減らされ、広幡家は以後この家禄で明治維新を迎える。正室・京姫との間に五女。忠幸没後に次女以下は京姫の兄である尾張藩の第2代藩主・徳川光友の養女となる。

出典:wikipedia

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