ヒューストン (USS Houston, CL/CA-30) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ノーザンプトン級重巡洋艦の5番艦。艦名はテキサス州ヒューストンに因み、その名を持つ艦としては2隻目。ヒューストンは1928年5月1日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工する。1929年9月7日にエリザベス・ホルコム(当時のヒューストン市長の娘)によって進水し、1930年6月17日に CL-30 (軽巡洋艦)として艦長J・B・ゲイ大佐の指揮下就役する。ヒューストンは1931年7月1日に CA-30 (重巡洋艦)へ艦種変更された。大西洋での公試後、ヒューストンは1930年10月に帰還した。その後艦名の由来となったテキサス州ヒューストンを訪問し、ハンプトン・ローズで艦隊と合流する。1931年1月10日にニューヨークに向けて出航し、パナマ運河、ハワイを経由し2月22日にマニラに到着した。ヒューストンはの旗艦となり、翌年に向けて極東での訓練活動に従事した。1931年に日中戦争が生じると、ヒューストンは1月31日にアメリカ人の生命および財産を保護するため上海に向かう。海兵隊および海軍陸戦隊を上陸させ事態の安定化を支援すると共に、1933年11月17日にオーガスタ ("USS Augusta, CA-31") と交代するまで同水域に留まった。この間3月にフィリピン、5月に日本へ親善訪問を行っている。その後ヒューストンは偵察艦隊に合流するためサンフランシスコに向かい、続いて太平洋で艦隊演習および訓練に従事した。第二次世界大戦が始まるまでの間、ヒューストンはしばしば特別の巡航を行った。1934年7月1日にルーズベルト大統領がメリーランド州アナポリスで乗艦し、カリブ海、オレゴン州ポートランドを経由してハワイまで12,000海里の航海を行った。その巡航にはヘンリー・L・ルーズベルト海軍次官補も乗艦した。ヒューストンは1935年5月15日に帰還した。アラスカ海域での短い巡航の後に、ヒューストンはシアトルに帰還し1935年10月3日に再び大統領を乗艦させる。大統領の一行は休暇のためセロス島、、ココ島、サウスカロライナ州チャールストンを巡航した。ヒューストンはまた1937年5月28日にサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ落成記念式典に参加した。1938年7月14日には観閲式に参加するルーズベルト大統領を乗せサンフランシスコを訪れている。ヒューストンは1938年9月19日に艦隊旗艦となり、少将が座乗した。旗艦任務は12月28日まで継続し、その後偵察艦隊に復帰した。通常の訓練演習任務に就いたヒューストンは1939年1月4日に演習「"Fleet Problem XX"」に参加しサンフランシスコからノーフォーク、キーウェストまで巡航を行う。キーウェストでは大統領と海軍作戦部長のウィリアム・リーヒ提督が乗艦し、演習を視察した。4月7日にテキサス州ヒューストンに到着、続いてシアトルに向かい5月30日に到着した。オーバーホールと整調後、ヒューストンはハワイ分遣隊の旗艦に指定され、1939年12月7日に真珠湾に到着した。1940年2月17日にに帰還した。再びハワイに戻り、11月3日にフィリピンに向けて出航したが、世界情勢は悪化の途をたどっていた。ヒューストンは11月19日にマニラに到着、アジア艦隊司令官トーマス・C・ハート提督の旗艦となる。戦争への危機が高まり、ハート提督は艦隊に戦闘準備を宣言した。真珠湾攻撃が行われた1941年12月7日の夜にヒューストンは艦隊と共にパナイ島からオーストラリアのダーウィンに向けて出航し、バリクパパンとスラバヤ経由で1941年12月28日に到着した。偵察任務後ヒューストンはスラバヤで米英蘭豪 (ABDA) 艦隊に合流する。ヒューストンは2月4日のジャワ沖海戦にオランダ海軍のカレル・ドールマン少将指揮下の艦隊の一部として参加した。艦隊はバリクパパンに向かう日本軍の上陸船団攻撃に出撃したものであったが、日本軍機動部隊の攻撃を受けヒューストンは敵機4機を撃墜したものの、250キロ爆弾の直撃を受け三番砲塔が稼働不能となった。また、軽巡洋艦マーブルヘッド ("USS Marblehead, CL-12") は大きく損傷し後退を余儀なくされた。ドールマン少将は攻撃をあきらめざるを得なかった。オーストラリアへ帰還後、ヒューストンは2月15日に小船団と共にティモール守備隊援護のため出航した。部隊は出航までに何度も日本軍部隊による空襲を受け、翌朝に日本軍は本格的な攻撃を始めた。この防御戦においてヒューストンは船団への被害無く敵の攻撃を撃退するのに成功した。日本軍はジャワ島占領を目的として陸軍の上陸船団と、重巡洋艦を中心とした高木武雄少将指揮する第5戦隊を派遣する。その報を受けたドールマン少将は上陸を阻止するため、ヒューストン、パース ("HMAS Perth, D29")、デ・ロイテル ("HNLMS De Ruyter")、エクセター ("HMS Exeter, 68")、ジャワ ("HNLMS Java") および10隻の駆逐艦から成る艦隊で1942年2月26日に出撃する。艦隊は4隻の巡洋艦および13隻の駆逐艦から成る日本艦隊と遭遇した。翌27日のスラバヤ沖海戦で米英蘭豪艦隊は奮戦したものの、航空援護の不足および通信障害のため苦戦に陥った。両艦隊は夕方に遭遇し、17時45分に神通が砲撃を開始した。両軍は砲撃戦を開始し、日本軍は18時38分、エクセターに命中弾を与える。 ("HMS Electra, H27") はエクセターを援護する間に攻撃を受け大破する。18時45分には ("HNLMS Kortenaer") に魚雷が命中し沈没、米英蘭豪艦隊は戦場を離脱した。エレクトラは19時54分に沈没した。両軍は夜戦に入り、22時55分に ("HMS Jupiter, F85") が触雷し沈没した。その後 ("HMS Encounter, H10") はコーテニアーの生存者救助に当たり、エクセターと駆逐艦4隻はスラバヤへ退避した。護衛の駆逐艦が無くなったドールマン少将の艦隊は、日本軍のジャワ侵攻阻止のため最後の攻撃で北へ向かう。翌28日の0時33分に艦隊は再び日本艦隊と遭遇した。両艦隊は並列して航行、砲撃戦を開始し、日本艦隊は30分後に魚雷攻撃を開始した。12本の魚雷が放射状に発射され、デ・ロイテルとジャワに命中、両艦は爆発、沈没した。ドールマン少将はデ・ロイテルと運命を共にした。ドールマン少将は戦死する直前にパースとヒューストンに後退を命じた。両艦は後退したが、翌日未明バンタム湾に向かい、日本軍輸送船団への攻撃を試みた。湾にあった2隻の輸送船の方向に接近したが、この時点で輸送船団の警戒にあたっていた駆逐艦吹雪に発見されており、吹雪から発射された9本の魚雷に続き、第五水雷戦隊(原顕三郎少将)、第七戦隊(栗田健男少将)との戦闘が始まる。両艦は多くの魚雷攻撃を受ける。両艦は輸送艦1隻を撃沈し、3隻を引き返させた。日本の駆逐艦隊はスンダ海峡を封鎖し、2隻の巡洋艦は湾に閉じこめられることとなった。ヒューストンとパースは最上、三隈との砲雷撃戦となる。パースは23時36分に攻撃を受け、砲撃と雷撃を受けた後約1時間で沈没した。その後、ヒューストンは雷撃により航行不能となるまで単独で戦うこととなる。この戦闘でヒューストンは3隻の駆逐艦に命中弾を与えたものの、やがて機関室に被弾して蒸気は艦内に噴出した。3本の魚雷が命中し、そのうちの1本は主砲の動きを事実上止めた。艦長は0時30分の直撃弾により戦死し、日本の駆逐艦がヒューストンに対してサーチライトを照射して機銃射撃を行った。しぶとく浮いていたヒューストンではあったが、駆逐艦敷波からの止めの魚雷が命中し、数分後にヒューストンは横転、沈没した。1,061名の乗組員の内368名が生き残り、捕虜となった。ヒューストンの運命はほぼ9ヶ月間不明のままであった。その真相が明らかになったのはヒューストンの生存者が捕虜収容所から解放された後のことであった。ルックス艦長はその英雄的行動により名誉勲章を受章した。ヒューストンの従軍牧師であったは海軍十字章を受章した。彼は第二次世界大戦で海軍十字章を受章した唯一の従軍牧師であった。ヒューストンの乗組員はオーストラリア、メルボルンのでパース乗組員と並んで祀られている。また、ヒューストン市民はヒューストンの艦名を甦らせるべく建艦債券の応募に殺到し、大勢のヒューストンの若者が海軍に志願した。ヒューストン ("USS Houston, CL-81") は先代を讃えるべく、もともとヴィックスバーグ (Vicksbourg) の艦名で建造されていたクリーブランド級軽巡洋艦の一艦を改名して就役した。ヒューストンは第二次世界大戦の戦功で2個の従軍星章および殊勲部隊章を受章した。映画『戦場にかける橋』のシアーズ中佐はヒューストンに乗艦していたという設定であった。
出典:wikipedia
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