青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1956年12月26日)は、日本の俳優、演出家、映画監督である。本名は青山 達美(あおやま たつみ)。新劇の俳優・演出家として活躍し、踏路社を経て築地小劇場に参加後、千田是也らと劇団俳優座を結成。松竹少女歌劇団等で俳優の育成にも尽力した。また、帰山教正の映画芸術協会に参加するなど、映画にも数多く出演している。1889年(明治22年)7月22日、新潟県北蒲原郡紫雲寺村(現在の同県新発田市米子)にある浄土真宗大谷派紫雲寺に、父・宣と母・綱の長男として生まれる。12歳下の弟に青山敏美がいる。旧制新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)卒業。1909年(明治42年)、旧制早稲田大学哲学科に入学。在学中から演劇活動に参加し、同大学創立記念祭の野外公演で、青山杉作を名乗り初舞台を踏む。しかし、僧籍を拒み演劇活動に熱中しすぎたため、実家から送金を絶たれてしまい、英文科に転じた後大学を中退する。1914年(大正3年)、新劇女優の内田鞠子(のちの青山万里子)と結婚。この頃から村田実らの新劇団・とりで社の舞台に立つようになる。1917年(大正6年)2月17日、村田、関口存男、木村修吉郎、近藤伊与吉らと踏路社を創立。牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の『画家とその弟子』を公演して旗揚げ。1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を博した。また、1920年(大正9年)には友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」でも演出を務めた。同年、帰山教正の映画製作に村田、近藤らとともに参加し、同年製作(翌年公開)の『生の輝き』と翌年の『深山の乙女』に出演。1919年(大正8年)に映画芸術協会を名乗り、『いくら強情でも』(1920年)では監督・脚本を務め、主演も果たした。1923年(大正12年)には伊藤大輔の脚本を得て帝国キネマで『山は語らず』を撮った。1924年(大正13年)、築地小劇場の創立に参加し、劇場開場後に同人となる。始めは演技部に属し、第2回公演『狼』でチュリエ役等を演じた。同年10月の第12回公演『地平線の彼方へ』から演出部に加わり、『青い鳥』『令嬢ジュリー』(1925年)、『大寺学校』(1928年)等を演出。その傍ら『役の行者』(1926年)などでは俳優として出演し、演技指導も行った。1928年(昭和3年)、小劇場創立者の小山内薫が逝去し、その影響で劇団が分裂。土方与志、丸山定夫、山本安英、薄田研二らは脱退して新築地劇団を結成したが、青山は小劇場に残り、他の残留組らと劇団築地小劇場として活動を続けた。しかし、1930年(昭和5年)1月に脱退して、東山千栄子、汐見洋らと劇団新東京を創立(翌年劇団東京に改組)。同時に松竹少女歌劇団の養成指導を10年間行い、水の江瀧子らを育てただけでなく、元野伊作の筆名で脚本も書き、70作もの作品を演出した。1942年(昭和17年)からは東京放送劇団で5期生までの演技指導を行った。1944年(昭和19年)2月、千田是也、小沢栄太郎、東野英治郎、東山らと俳優座を結成。第1回作品『検察官』で千田と共同演出・共演し、以来演出・演技の両方で活躍。1949年(昭和24年)には俳優座養成所所長となり後輩の指導を行った。一方で、映画にも多く出演しており、黒澤明監督の『醜聞』や溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)などに脇役で出演した。1954年(昭和29年)、三島由紀夫作の舞台『若人よ蘇れ』の稽古中に倒れて療養していたが、1956年(昭和31年)12月26日午前5時半、心筋梗塞のため死去した。享年67。12月30日に俳優座劇場で劇団葬が営まれた。墓は青山霊園にある。
出典:wikipedia
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