ガートルード・スタイン(、1874年2月3日 - 1946年7月27日)は、アメリカ合衆国の著作家、詩人、美術収集家。美術収集家として知られるスタイン兄妹の一人で、パリに画家や詩人たちが集うサロンを開いていたことでも知られる。そこに集まる芸術家たちと交流する中で、現代芸術と現代文学の発展のきっかけを作ったともいわれている。スタインは人生の大半を兄のマイケルの投資から生まれる利益で暮らした。マイケルは両親が5人の兄弟を残して死んだ後、資産をうまく管理して投資を行っていた。スタインは5人の兄弟では末っ子であり、両親が亡くなったのはまだ10代の時であった。1930年代中頃に『アリス・B・トクラスの自叙伝』で成功した後は、印税で裕福になった。スタインはペンシルベニア州ピッツバーグに近いアレゲニーで、ドイツ系ユダヤ人移民で教育もある両親の5人の子供達の5番目として生まれた。父親のダニエル・スタインは鉄道会社の役員であり、路面電車や土地に良識有る投資を行って富を築いていた。スタインが3歳の時、事業の都合で一家はウィーンに移転し、続いてパリに居を移した。一家は1878年にアメリカに戻ってカリフォルニア州オークランドに定着したが、ヨーロッパで余暇を過ごす習慣は続いた。1888年、母親のアメリア・スタインが死に、1891年には父親のダニエル・スタインが死んだ。長兄のマイケル・スタインが一家の事業投資資産を引き継いでうまく取り仕切り、兄弟達の面倒も見た。両親の死後、マイケルはガートルードとその姉のバーサをボルチモアにいた母の実家に預けた。スタインがクラリベル・コーンやエッタ・コーンと出会ったのはこのボルチモアの時であり、二人が開いていた土曜日の夜のサロンは後にスタインが自分で開いたサロンのモデルにもなった。この2人とは芸術に対する審美眼を共有し合い、それについての会話を楽しんだが、これも後にアリス・B・トクラスとの関係で模倣し、家庭内の分業のモデルになった。スタインは1893年から1897年までマサチューセッツ州ケンブリッジにあるラドクリフ・カレッジに通い、心理学者ウィリアム・ジェームズの教えを受けた。ジェイムズは、心にある意識を一時的に停め無意識を直接喚起する意識の流れの手法、いわゆる自動書記においてスタインの能力を看破し、奨励した。ジェイムズの下で心理学的実験を学んだスタインは、後の多くの作品の中の表現にこれを活かすことになった。洗練された心の意識を使って無意識を高揚させることは、スタインの作品で重要な原則となり、その作品の随所に現れている。ラドクリフでは、メイベル・フット・ウィークスと終生の友となり、彼女との文通はスタインの人生の成長過程で重きをなした。1897年、マサチューセッツ州ウッズホールで夏を過ごし、海洋生物学研究所で発生学の研究をした。これはその後の2年間、ボルチモアのジョーンズ・ホプキンス医学校での研究に続いた。1901年、ジョーンズ・ホプキンスでは学位を取ることなく退学した。1903年、芸術的創造力ある者が多くモンパルナスに集まっていたパリに移住した。1903年から1914年、スタインは美術批評家の兄レオ・スタインと共にパリで暮らした。二人は現代美術の初期作品の収集を始め、パブロ・ピカソ(ピカソとは友人になり、スタインや甥のアラン・スタインの肖像画を描いてもらった)、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、ジョルジュ・ブラック、フアン・グリスなど若い画家達の初期の絵画を所有した。第一次世界大戦の前、二人のフルリュース通り27番にあるサロンには、これらの画家やその他の画家および前衛芸術家を惹き付け、中でも詩人、脚本家、批評家でジャーナリストのギヨーム・アポリネールが居た。ガートルード・スタインとレオの兄妹が集めた美術品は、多くをパリの美術商アンブロワーズ・ヴォラールから得ていた。長兄のマイケルと義姉のサラはマティスの作品を多く集めた。スタインのボルチモア以来の友、クラリベルとエッタ・コーンも同じような収集を行い、後にその収集品をほとんどそのままボルチモア美術館に寄付した。スタインの収集品は様々な方法と様々な理由で散逸してしまい、時代は下ってニューヨーク近代美術館がその収集品を再結集させようとした展覧会について、ニューヨーク・タイムズで報告されている("The Family Knew What It Liked")。スタイン兄妹の収集品は、彼らがフルリュース通り27番で生活している間に開催された2つの展示会にも反映され、収集品を貸与したり、主役となった画家の援助をすることで貢献した。1つめは1905年に開かれたパリ・オータム・サロンであり、フォーヴィスム(Fauvisme、野獣派)をパリの画壇に紹介して衝撃を与え、時事風刺漫画にもなった。2つめは、1913年にニューヨークで開催されたアーモリーショーであり、現代美術をアメリカの画壇に紹介し、同じように大衆の非難の声が上がった。フルリュース通り27番の住居はレオが1903年4月までに借り、その年の秋にガートルード・スタインが加わった。この時期にスタインはアンリ・マティス(1905年頃)およびパブロ・ピカソ(1905年)と友達になった。また、1904年頃ミルドレッド・アルドリッチとも知り合い、その親交はアルドリッチが死ぬ1928年まで続いた。1911年、アルドリッチはスタインを芸術の女性後援者メイベル・ドッジ・ルーハンに紹介し、1913年には美術批評家アンリ・マクブライドにも紹介した。スタインは1903年10月24日に『Q.E.D.』(Quod Erat Demonstrandum、証明されるべきこと)を完成させた。1904年、スタインは、修道院長(M・カリー・トーマス)とブリン・マウア・カレッジの職員(メアリ・グウィン)およびハーバードの卒業生(アルフレッド・ホッダー)の三角関係をスキャンダル風に描いた小説『ファーンハースト』を書き始めた。伝記作者のメローは『ファーンハースト』が決定的にマイナーであり不器用な作品だと主張している。しかし、これにはスタインが「運命の29年目」を議論した時に自伝に含めたと示唆する幾つかの記述が入っている。メローは、1904年に30歳になったスタインが「彼女の『小さくて厳しい現実』が書くことであるとはっきり決めた」と見ている。兄のレオが現代美術を知り研究したことで、有名なスタイン・コレクションの原型ができた。レオはバーナード・ベレンソンと共に収集を始めた。ベレンソンは1902年にスタイン兄妹をイギリスの田舎の家に招待し、セザンヌとヴォラールの画廊を提案した。スタイン兄妹の共同収集は1904年遅くに始まったが、これはマイケル・スタインが彼らの信託資金は思いがけない大きな収入で8,000フランになったと知らせてきた時だった。兄妹はこの収入を利用して、ヴォラールの画廊でゴーギャンの『ひまわり』と『3人のタヒチ人』、セザンヌの『水浴びする人』およびルノアールの2作を購入した。2人の美術収集は成長し、フルリュース通り27番の居宅の壁の展示場は常に新しく手に入れたものが合わせて並べ替えられていた。ニューヨーク美術館の1970年のカタログでは、スタインがセザンヌの『マダム・セザンヌの肖像』とドラクロワの『ペルセウスとアンドロメダ』を入手した時を「1905年前半」と正確に示している。1905年に開かれたパリ・オータム・サロンの直ぐ後で、スタイン兄妹はマティスの『帽子を被る婦人』とピカソの『花籠を持つ少女』を入手した。1906年の初めまでにスタイン兄妹のスタディオはアンリ・マンガン、ボナール、ピカソ、セザンヌ、ルノワール、ドーミエ、マティスおよびロートレックの絵画で埋まった。収集した絵画の中にあったセザンヌの『マダム・セザンヌの肖像』を見て、スタインは衝動を受け、『3つの生命』を書き始めた。これは彼女の初期作品に取り込まれた文体を決めたとスタイン自身が言った。スタインは1905年の春に『3つの生命』を書き始め、翌年書き上げた。スタインは『アメリカ人の形成』を執筆した期間を1906年-1908年としている。彼女の伝記作者は執筆開始が1902年に遡り、1911年まで掛かったことを見付けた。スタインはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』やマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と自作を比較した。スタインの批評は偉大な文学の規範の前に自作の位置付けについてはあまり熱心ではなかった。多くの芸術家がスタインのサロンに集まる一方で、これら芸術家の作品の多くはスタインの居室の壁にある絵画の中にはなかった。ルノワール、セザンヌ、マティスおよびピカソの作品はレオとガートルード・スタイン兄妹の収集品では支配的なものであり、サラ・スタインの収集品はマティスに集中していた。スタイン兄妹と同世代であるマティスとピカソは社交サークルのメンバーとなり、フルリュース通り27番の土曜夜のサロンでも初期のメンバーとなった。スタインは土曜夜のサロンの開始をマティスのお陰と言った。土曜夜にしばしば訪れたピカソのサークルには、フェルナンド・オリバー(ピカソの愛人)、ブラック、ドラン、マックス・ジャコブ(詩人)、アポリネール、マリー・ローランサン(アポリネールの愛人で、画家)、アンリ・ルソー(画家)がいた。スタイン兄妹の共同収集が最高潮になっていた1906年遅くから1907年初めに掛けて、兄妹は支援をしている画家達を集めて昼食会を開いた。昼食会の具体的な日付や客のリストなどの記録は完全ではないが、当時スタイン兄妹の居室を度々訪れた芸術家、あるいはスタイン兄妹が購入した絵の画家は客のリストに入っていたと考えられている。これにはピカソ、マティス、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、マンガン、アルフレッド・モーラー、ブラック、マホンリ・ヤング(彫刻家)、H・ライマン・セイブンおよびボナールがいた。スタインの伝記作者で複数の者が、スタインの取ったトリックに焦点を当てている。それはスタインが画家達に自分の作品に面して座らせるようにしたことである。マティスが観察したところでは、この試みの成功で昼食会の客を活気づけ、スタインのやり方を受け入れたという。この昼食会の直ぐ後で、スタインはアリス・B・トクラスと出会った。同じ頃、ピカソの画風がキュビスムに変化し、スタインの作風も変わった。その変化には兄のレオが口に出して不同意を示した。「レオはキュビスムを永遠の価値が有るものとは認めなかった。ガートルード・スタインの文体に関する非難もさらに厳しいものになり、彼女は文学の目的をピカソの絵画の目的に同一視するようになった。スタインは終生のパートナーであるアリス・B・トクラスと1907年9月8日に出会った。その日はアリスがパリに出てきた最初の日であり、サラとミカエルの部屋でのことであった。スタインと会った日にアリスは次の様に書いた。 その後直ぐに、スタインはアリスをパブロ・ピカソのスタディオでピカソに紹介した。そこではピカソが『アヴィニョンの女達』に取り組んでいた。『アヴィニョンの女達』は「レオがピカソに対する支援を終わらせた時」となった絵であった。1908年、スタイン達はイタリアのフィエゾレで夏を過ごし、アリスは、アメリカからの旅仲間で当時の同居人でもあったハリエット・レイン・リービの所に滞在した。その夏、スタインは兄のマイケル・スタイン夫婦とその息子アランおよびレオと近くの別荘に滞在した。スタインとアリスのこの夏は、フィレンツェのサンマルコ広場で撮った写真に収められている。アリスは1907年にハリエットと共に渡航してきて、アリスがハリエットとの住まいの環境を整備していた。当時書かれた描写では、スタインが多くの手紙を書いていることやビクトリア様式の繊細さなど複雑な事項をユーモアを交えて話し、アリスの住環境整備からハリエットを解放しようとした。『ハリエット』の中で、スタインは夏にハリエットがいない計画を考え、続いて冬にもハリエットがいない計画を考えた。1908年のルソーの晩餐会に関するスタインの説明は、『アリス・B・トクラスの自叙伝』の中で、「第一次世界大戦前の10年間におけるパリでの自由奔放なボヘミアン生活の象徴として伝説的な位置付け」とされた。その晩餐会は1908年のどこかの時点で、ピカソのバトー・ラヴォワール・スタディオで開かれたが、ピカソがルソーの絵画を買い、戦前の前衛美術を集めたことで刺激され、未明まで続いた。この晩餐会については、様々で矛盾する証言がある。ガートルード・スタイン、レオ・スタイン、フェルナンド・オリバー、モーリス・レイナルおよびアンドレ・サーモンの証言である。その話は酩酊し恥ずべき状態にあった有名人のものであり、ある意味で戦前の若さ溢れる創造性と放蕩の中で頂点を記すものであった1911年ミルドレッド・アルドリッチがスタインにメイベル・ドッジ・ルーハンを紹介し、二人は短くはあったが実り多い友情を結び、スタインがアメリカで名声を得るきっかけにもなった。メイベルはスタインの壮大な作品『アメリカ人の形成』に執心であり、スタインが出版者に著作を売る際に困っている時、私費で『クローニア別荘におけるメイベル・ドッジの肖像』を300部出版した。この本は2007年で25,000ドルの評価がなされている。メイベルは1913年の第69回アーモリーショー「アメリカでは初めての前衛美術展」の計画と宣伝にも関わっていた。更にメイベルは『推量、すなわち散文の後期印象派』でスタインの作品をアメリカに登場させるための最初の評論を書き、1913年3月の「アーツ&デコレーション」での特別出版で世に出した。メイベルは、スタインが後でうける批評を予測して、次の様に書いた。メイベルは1912年秋に二人の友情が壊されたきっかけとして昼食の席の会話を挙げていた。スタインは「テーブル越しにそんなに強く見られると、私には電気を帯びた鋼の帯で空気を切り裂くように見える。微笑が飛び交い、力強く、天国に!」アリスはそれをふざけと解釈して部屋から出て行ったが、スタインが後を追った。スタインが戻ってきて「アリスは昼食に出たくない。彼女は今日熱がある」と言った。ニューヨーク・タイムズの音楽評論家でニューヨーク・プレスの演劇評論家のカール・ヴァン・ヴェクテンと、ニューヨーク・サンの美術評論家のヘンリー・マクブライドがスタインのアメリカでの評判に大きく貢献した。二人とも購読部数の多い新聞に投稿欄を持っており、繰り返しスタインの名前を大衆の前に出した。フルリュース通り27番の美術収集品について、マクブライドは「その大きさと質に比例して...私が歴史で聞いたことも無いような強力なものである。」とコメントした。マクブライドはスタインが「傑作よりも天才を集めた。彼女はそれらに未来を認めている」という見方をした。ヴァン・ヴェヒテンはスタインに会う前にニューヨーク・タイムズの記事『新しい本を書く文字のキュビスト』でスタインを初めて紹介した。ヴァン・ヴェヒテンは終生の友人になり、その撮した当時のスタインとアリスの写真の多くがウェブ上で見られる。スタインの言葉によるマティスとピカソの肖像が、アルフレッド・スティーグリッツの『カメラワーク』1912年8月号に登場した。これはピカソとマティスの特集号となり、スタインにとっても最初の出版となった。この本の中で、スタインは「彼は私の書いたものを印刷した最初の人である。これが私にとって、あるいは他の誰かにとって何を意味するか想像できるでしょう」と語った。スタインの言葉の肖像画は明らかにアリス・B・トクラスの肖像で始まった。「『アメリカ人の形成』の急流のような散文からそれ自体距離を置いた小さな散文の装飾と一種幸せな閃き」スタインの言葉の肖像画で初期のものはメローによって整理されており、個人名ではケルナーによって1988年に整理された。マティスとピカソは初期のものに入っており、後に『地理と戯曲』(1922年出版)と『肖像画と祈る人』(1934年出版)に収められた。マティスとピカソの肖像は1970年にニューヨーク美術館でも再版された。スタインの主題には究極的に有名となった人物が入っており、フルリュース通り27番の土曜サロンで観察した内面の見方があった。「アダ」(アリス・B・トクラス)、「二人の婦人」(コーン姉妹)、「ミス・ファーとミス・スキーン」(エセル・マースとモード・ハント・スクァイア)、「男達」(ハッチンス・ハプグッド、ピター・デイビッド・エドストローム、モーリス・スターン)、「マティス」(1909年)、「ピカソ」(1909年)、「クローニア別荘におけるメイベル・ドッジの肖像」(1911年)、および「ギヨーム・アポリネール」(1913年)があった。『やさしい釦(ボタン)』はスタインの密封された作品の中では良く知られた作品である。1914年のその出版は、メイベル・ドッジが他の出版者と交渉していたために、スタインとメイベル・ドッジとの間に亀裂を生んだ。メイベルはスタインが選んだ出版者でそれを出版することは悪い選択だと長々とした手紙を書いた。スタインはメイベルの勧めを無視し、結果的にメイベルそのものを無視して1914年にその著作1,000部を出版した(この古書も2007年で1,200ドル以上の価値がある)。『やさしい釦』は無料オンライン検索が可能なプロジェクト・グーテンベルクに収められている。スタインは1914年にレオとの住まいを別にした後も、ピカソの絵画の大半を持ち続けた。そのうち2点は既に収集しており後はキュビスムに変わってから得たものであった。別居は1914年4月に起こった。レオはイタリアのフィレンツェの近くセッティニャーノに移住した。収集品の分け方は書きのレオの手紙に詳しい。1914年の初夏、フアン・グリスがスタインの所に3枚の絵画を持ち込んだ。"『薔薇』"、"『グラスとボトル』"および"『本とグラス』"であった。スタインがそれらをダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの画廊から購入した直ぐ後に、第一次世界大戦が勃発した。カーンワイラーの在庫は没収され、パリに戻ることを許されなかった。グリスはその作品について戦前にカーンワイラーと拘束力のある契約を結んでおり、収入が無いままに取り残された。スタインはグリスの将来の作品と引き替えに生活に必要な物を提供する補助的な契約を結んだ。スタインとアリスは『3つの生命』の出版契約のためにイギリスを訪れ数週間を過ごした後にスペインへ旅行する計画があった。二人は1914年7月6日にパリを離れ、10月17日に戻った。イギリスがドイツに宣戦布告した時、二人はイギリスのアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドを訪れていた。3週間のイギリス旅行が戦争の勃発のために3ヶ月に引き延ばされ、二人はフランスに戻って開戦後初めての冬をそこで過ごした。スタインが持っていた最後のマティスの絵、"『帽子を被る婦人』"を売った金で、スタインとアリスは1915年5月から1916年の春にかけてスペインの旅に出かけた。二人がマヨルカ島で過ごしている間に、スタインはミルドレッド・アルドリッチとの文通を続けた。アルドリッチは戦争の進展状況を知らせてきていたが、最終的に戦争に協力するためにフランスに戻るように勧めた。スタインとアリスは1916年6月にパリに戻り、アメリカの知り合いの助力でフォードを手に入れた。スタインは友人のウィリアム・エドワーズ・クックの助けで運転の仕方を習った。スタインとアリスは、フォードにスタイの叔母のポーリンに因んで「アーンティ」と名付け、それでフランスの病院に物資を届ける役割を買って出た。ポーリン叔母は常に危急の時は立派に振る舞い、お世辞を言われた時はほとんど鷹揚に構えた。1920年代、フルリュース通り27番のスタインのサロンは、その壁が前衛美術で覆われ、当時の偉大な作家達を惹き付けた。その中には、アーネスト・ヘミングウェイ、エズラ・パウンド、ソーントン・ワイルダーおよびシャーウッド・アンダーソンがいた。スタインはこれら海外在留のアメリカ人作家の何人かの前で「失われた世代」という言葉を最初に使ったとされているが、少なくともこの言葉に関しては3つの逸話がある。2つはヘミングウェイであり、もう一つはスタイン本人によるものである。1920年代にスタインは作家のマイナ・ロイと友達になり、その友情は終生続いた。スタインは魅力があり、雄弁で快活だったので、大きな友達の輪ができ、それがスタインを疲れを知らない者にした。その文学や美術に関する判断は高度に影響を与えるものだった。スタインはヘミングウェイの相談相手となり、ヘミングウェイの息子が生まれた時は名付け親になってくれるよう依頼された。1931年の夏、スタインは若い作曲家で作家のポール・ボウルズにタンジールにいくように助言した。そこはスタインとアリスが余暇を過ごす所だった。第二次世界大戦の前に、スタインはアドルフ・ヒトラーがノーベル平和賞を受賞すべきという皮肉を込めた意見を公表した。スタインは、後にヒトラー、ムッソリーニおよびルーズベルトを評して「今はあまりにも多くの作り出す者(fathering)が闊歩し過ぎて、それについては疑いもなく父親達(fathers)が落ち込んでいる。」と語った。第二次世界大戦の勃発と共に、スタインとアリス・トクラスはローヌ・アルプ地区のアン県ビリニンに何年も前から借りていた田舎屋に引っ越した。近所の者からは「アメリカ人」とのみ言われ、ユダヤ人であるスタインとアリスはおそらく、ヴィシー政権の協力者でゲシュタポにコネがあるバーナード・フェイへの友情故に迫害を逃れた。戦後フェイが終身重労働の刑を宣告された時、スタインとアリスはその釈放のために動いた。数年後、アリスはフェイが脱獄するための資金を提供した。戦後、スタインのもとには多くの若いアメリカ兵が訪れ、パリでのスタインの位置付けが上がった。スタインは1946年7月27日ヌイイ=シュル=セーヌで胃ガンのために72歳で死んだ。遺骸はペール・ラシェーズ墓地に葬られた。アリスの証言によれば、スタインが胃の手術のために手術室に運ばれて行くときに、アリスに「答えは何かしら?」と尋ねた。アリスが答えないでいると、スタインは「この場合、質問は何かしら?」と言った。スタインは作家で写真家のカール・ヴァン・ヴェクテンを遺著管理者に指名し、ヴェクテンはスタインが死んだときに出版されずに残っていた作品の出版に貢献した。ニューヨーク市のブライアント公園のアッパーテラスにはスタインの碑が立っている。スタインは同性愛について書いた最も初期の作家である。その著書『Q.E.D.』(証明されるべきこと、出版は『それがあるままに』と題して死後の1950年)は1903年に執筆されそのまま抑えられていた。この話はボルチモアのジョーンズ・ホプキンス医学校を退学したあとの旅行中に書かれ、その大学で勉強中に関わった三角関係に基づいていた。この三角関係は複雑なものであり、スタインが恋愛を伴う友情の隠れた社会の動きに経験が不足していたことと、彼女自身の性的指向およびそれに関する道徳的ディレンマがあった。当時のスタインは「多くの装われた形での熱情」を毛嫌いし続けた。スタインのメイベル・ヘインズやグレイス・ラウンズベリーとの関係は、ヘインズがメイ・ブックステイバーと交際を始めた時に終わった。スタインはブックステイバーを愛したが、その関係を進めることができなかった。ヘインズとラウンズベリーは後に男性と結婚した。スタインは自分の性的指向について気付くようになり、それが医学研究の影にあったブルジョワジー的価値観と干渉するようになった。当時のフェミニスト理論や意見にも反発を感じ、『Q.E.D.』を書くことで、学問と恋愛の失敗を理解する一助とした。しかし、スタインは自分の男っぽさをオットー・ヴァイニンガーの『性と性格』(1906年)の考えを通じて受け入れ定義し始めた。ヴァイニンガーは、ユダヤ人として生まれていたが、ユダヤ人の男は女々しく、女は自己本位にも天才にもなれないと考えた。ただし、女性の同性愛者は男っぽさに近付くとしていた。スタインの性的指向と性についてはアリス・トクラスとの関係でより肯定的に確認されるようになった。アーネスト・ヘミングウェイは、どのようにアリスがスタインの「妻」であり、スタインはヘミングウェイの妻に滅多に話しかけず、ヘミングウェイもアリスにそのように接したので、二人の「妻」がお喋りするままにしていた、と書いている。アリスの身長は4フィート11インチ (150 cm)で、スタインは5フィート1インチ (155 cm)であった。『ミス・ファーとミス・スキーン』は出版された同性愛の物語としては最初のものであり、より肯定的な描かれ方がしてある。この作品はレズビアンのエセル・マースとモード・ハント・スクァイアを元にされていたが、スタインがゲイやレズビアンの社会と関わるようになっていったことで知った世界を扱っていた。この作品には「ゲイ」という言葉が100回以上も使われており、おそらく同性愛に関連して「ゲイ」という言葉を使いそのような人々を扱った最初の出版物であり、情報の不足する読者ならばレズビアンの内容を見過ごしたことであろう。ゲイの男に関する似たような表現は「時々男達が接吻している」という文章でより明確に始まっているが、これもよく知られてはいない。スタインの作品は『やさしい釦』を初めてとして、レズビアンの性的指向を賞賛し、「箱」や「牛」にかけた洒落を含み言葉遊びによって作られる「公的および私的な意味合いの高度に凝縮された多層構造」で溢れている。このことは『やさしい釦」という表題にも言えることである。スタインは政治的には曖昧なままであるが、少なくとも2点では明らかである。スタインは従僕を雇おうとしてトラブルがあったとき、解雇を承認しなかったこと、および「父性的な人物を一般に毛嫌い」していたことである。失業については次のように述べた。スタインは父親の専制的でもあり、寛大でもあった(しかし一貫して意味のない)父親的態度に対して子供の時に反抗した経験を反映し、その思考や行動は政治の世界での父親的肖像に対して、その党派によらず軽蔑していた。スタインの著作は3つの異なる面で現れている。ほとんど読まれずに過ぎたスタインの秘匿作品で『アメリカ人の形成:ハースランド家』のような作品群、スタインを有名にした『アリス・B・トクラスの自叙伝』のような作品群、および後年の講演録や自叙伝的作品、例えば『ブリュージー&ウィリー』である。1903年にパリに移住した後、スタインは熱心に執筆を始めた。小説、戯曲、物語、オペラ台本および詩である。段々とスタインの高度に風変わりで、遊びが多く、時にくりかえし、時にユーモアを交えた文体ができていった。典型的なものとして「薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である」や「親切からは赤いものが生まれ、不作法からは急速で同じ質問が生まれ、一つの目からは研究が生まれ、選択からは痛みを伴う牛が生まれる。」がある。カリフォルニアのオークランドについて、「そこにはそこが無い」と言ったり、「色の変化は有りそうで違う、大変小さな違いは準備されている。砂糖は野菜ではない」というのもある。これら無意識の流れの実験、リズムのある言葉の絵画すなわち「肖像画」は、「純粋な存在の興奮」を喚起するために工夫され、文学におけるキュビスムあるいはフォトモンタージュとして見ることも出来る。『やさしい釦』のような実験的作品の多くは、批評家達によって男性社会の言語のフェミニストによる作り直しとして解釈されてきた。これらの作品は前衛作家達に愛されたが、文学界での成功は当初から難しいままであった。ジュディ・グラーンはスタインの作品の背後にある次の原則を挙げた。すなわち、1)ありふれたこと、2)本質、3)価値観、4)連続する現在の基礎、5)遊び、および6)変形である。スタインはキュービストの絵画を収集したが(主にピカソ)、スタインの作品に最も大きく視覚的すなわち画家風の影響を与えたのはセザンヌであり、平等の観念、グラーンの言うありふれたことであり、普遍的なことや平等なこととは区別され、「キャンバスの面全体が重要」となる。人物や人間関係よりもむしろ「スタインはその作品で文章全体を面として言葉を使い、全ての要素が他のものと同じくらい重要になるようにした。」一つ以上の見解を含むのが主観的関係である。例えば、「重要なことはあなたの中の最も深いもの、平等の感覚に掘り下げて行かねばならないことです」と言っている。グラーンはスタインの作品の繰り返しの多くがスタインの性格の「底の本質」の表現を模索していると見なしている。『アメリカ人の形成』では、語り手の本質ですら「私が言ったように」とか「今や彼女の歴史になるだろう」というような語りの繰り返しで表現されている。グラーンは、「全面に所属するあらゆる物と平等に重要となり、各々の存在がそれ自体の本質を持つという考えを使って、彼女は線の繋がりよりもパターンを書くことが避けられない」としている。グラーンは絵画の全体の明るさあるいは暗さという意味で「価値観」という言葉を使った。スタインは多くのアングロ・サクソンの言葉を使い、ラテン語から来た言葉をほとんど使わなかった。"sanguine"の代わりに"blood"を使ったように。スタインは「連想を多く生む」言葉を避けてもいた。「彼女の作品の基底として「価値観」と「本質」を発展させる一つの繋がり、社会的な主題よりも劇的な想像あるいは線で繋がったプロットは、彼女が注目する対象の声を発展させたものである。時には異常なまでに彼女の著者としての声の中に社会的判断が欠如しており、読者は作品について考え感じる方法を勝手に決めるままにして置かれる。」グラーンは続けて「心配、怖れおよび怒りが働いておらず、これだけでも彼女を現代の作家とは別者にしている。彼女の作品は調和的であり、集成的であり、孤立してはいない。同時に有益で、物欲しそうではなく、空想的でもない。」としている。スタインは圧倒的に動詞として現在形の"ing"を用い、作品に続く現在を生み出したが、グラーンは上記の原則、特に「ありふれたこと」と中心性の結果だとしている。グラーンは「遊び」を読者や聴衆に対して自立性や代理を認めるものとして、「線形の文体の性格である感情操作よりも、スタインは「遊び」を使っているとしている。スタインの作品が面白くて多層的であることに加えて、様々な解釈と参加を可能にしている。最後にグラーンは、「インスタースタンド」すなわち、作品に参加しそれを実際の行動と混ぜ合わせ、「理解する」よりもむしろ「関わる」必要があるとしている。スタインは手書きで、1日に30分くらい書くのが普通だった。アリス・トクラスは頁を集めてタイプ仕上げして、出版に関わる部分を取扱い、レオ・スタインが妹の作品をおおっぴらに批判したときは援護する側に回った。実際にアリスは印刷屋の「プレイン・エディションズ」を創設し、スタインの作品を配布した。今日、ほとんどの原稿はイェール大学のバイネッケ図書館に収められている。1932年、通常の読者大衆の便宜を図るために近付きやすい文体を使って、『アリス・B・トクラスの自叙伝』を書いた。この本はスタインの最初のベストセラーになった。その表題にも拘わらず、中身はスタイン自身の自伝である。スタインは自分自身を極度に自信ありげに描いており、傲慢とすら言うものがいたが、常に彼女は天才であると確信していた。スタインは日常の仕事には尊大であり、アリス・トクラスが毎日の雑用は果たしていた。自叙伝の文体は、実際にアリスが書いた『アリス・B・トクラスの料理本』に極めてよく似ていた。『料理本』にはハシシ・キャンディ(アリス・B・トクラス・ブラウニーとも呼んでいた)のようなちょっと変わった料理の作り方が幾つかが入っており、ブライアン・ガイシンが提案したものだった。スタインの作品の幾つかは作曲家達によって台本になった。ヴァージル・トムソンのオペラ『3幕の4人の聖人』と『我々全ての母』がある。ジェイムズ・テニーは「薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である」をフィリップ・コーナーに捧げるカノンとして、最初の単語"a"はアップビートで始め、言葉の繰り返しが重なって聞こえるようにした。"a/rose is a rose/is a rose is/a rose is a/rose."という具合である。シャーウッド・アンダーソンはスタインの1922年に出版された『地理と戯曲』を大衆に紹介する時に、次のように書いた。アンダーソンは兄弟のカールに宛てた私的な手紙では次の様に書いた。F・W・デュピーは「スタイニーズ」を「格言の、繰り返しの、非論理の、たまに中断され...スキャンダルで喜び、それ自体をわずかなパロディと激しい非難に等しく身を任せるもの」と定義している。スタインは、アーネスト・ヘミングウェイやリチャード・ライトのような作家に影響を与えたが、上記でも示唆したように彼女の作品はしばしば誤解された。作曲家のコンスタント・ランベールは無邪気にストラヴィンスキーの『兵士の歴史』における「単調であまり重要でないフレーズ」の選択を、スタインの『ミス・ファーとジョージャイン・スキーン』と比較して、具体的に「『毎日彼らはそこで陽気、彼らや何時もそこで毎日陽気』というフレーズが「英語に知識の無い人に等しく喜ばれるその効果は」、スタインがしばしば採用する洒落を明らかに完全に失っている、と主張している。ジェイムズ・サーバーはスタインを次のように言って冷やかしている。リンクは全て英語版。
出典:wikipedia
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