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北上運河

北上運河(きたかみうんが)は、旧北上川と鳴瀬川の河口を結ぶ運河である。宮城県石巻市と東松島市を通っている。1878年(明治11年)から1882年(明治15年)にかけて野蒜築港の関連事業として開削が行なわれ、北上川から本運河を通り、野蒜港・東名運河・貞山運河を経て仙台方面へ向かう交通の動脈を形成することが期待された。全長は12.8km。東名運河と合わせて野蒜運河とも呼ばれ、広義の貞山運河の一部ともされる。定川(石巻港)を境に、東側を北北上運河、西側を南北上運河に区分される。現在は野蒜築港跡などとともに土木学会選奨土木遺産に選ばれている。宮城県石巻市水押で旧北上川から西に分かれ、石巻港(外港)のある定川と交差する。さらに海岸に沿って進み、東松島市の野蒜築港跡に至る。水路は敷幅252m、底の幅126m、干潮時の水深は1.65mとなっていた。北上川との分岐点に日本初の近代閘門である石井閘門が、新鳴瀬川との合流地点には木造の野蒜閘門が設けられた。さらに定川との交差地点に大曲・釜の両閘門が築かれて、定川からの逆流と土砂の流入を防いでいた。1882年(明治15年)の開通後、岩手県内と仙台・塩竈の往復を中心に、小型蒸気船による荷客の運搬が活発に行なわれた。旅客の運賃は野蒜・高屋敷間で30-40銭だったという。1885年(明治18年)の石井閘門の通船数は、平田高瀬舟9,678隻、小型蒸気船564隻と筏111隻だった。しかし、その後は野蒜築港が失敗した事や東北本線が開通した事などから次第に寂れていった。さらに閘門を設けたにも関わらず土砂が川底に堆積し、1891年(明治24年)頃には満潮時しか汽船が自由に航行できなくなり、1909年・1910年(明治42・43年)の水害以後は汽船の航行は完全に不可能となった。1935年(昭和10年)の石井閘門での通船数は平田船2,207隻、発動機船1,033隻、小舟504隻などとなっており、木材や砂利、石材などが運ばれていた。その後は、定川の閘門より西では小舟などの利用が一部に見られた。東日本大震災以前は、東松島市の矢本周辺には、運河と海の間にクロマツの防潮林が広がっており、1992年から2010年までは夏の夜に松林のライトアップが行なわれるなど、景勝地として知られていた。また、この地に造成された矢本海浜緑地公園は都市公園である。

出典:wikipedia

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