葬式仏教(そうしき ぶっきょう)とは、本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない現在の形骸化した日本の仏教の姿を揶揄し、表現した言葉である。本来の仏教は、葬送儀礼を重視する宗教ではなかった。釈迦は弟子に死後の遺骸の処置を問われた際に、僧侶は遺骸の供養等考えず真理の追求に専念すべきだ、供養は在家の信者がしてくれる、と答えたとされる。現在も僧侶が、遺体・遺骨・墓石等にタッチしないのはこの為で、第二次世界大戦後しばらくまでは、隠亡と呼ばれる人達がこうした雑務を行っていた。現在では三十五日、四十九日等の納骨が行われる時には、石材店の職人や葬祭業者の職員が寺迄出向いて、墓石の開閉や、遺族が遺骨を納める時の介助等をしてくれる事が多い。しかし、インドから中国へと伝播し民衆へと教化が行われるうちに、漢民族の道教や儒教に由来する先祖供養の民間信仰と習合し、仏教は葬送儀礼も司る様になった。例えば位牌は、儒教の葬礼に用いられる神主(しんしゅ)が変化されたものだと考えられている。仏教が日本に伝来したのは6世紀半ばの飛鳥時代の事である。仏教は豪族など上層階級の心を捉え、篤く信仰される様になった。日本仏教が葬式仏教へと向かう大きな転機は、江戸幕府が定めた檀家制度である。此の事に依り、各寺院は布教の必要を無くし、自らの檀家の葬儀や法事を営み定期的に収入を得るばかりの、変化のない生活に安住する様になっていった。また、明治維新時、政府の国家神道政策による廃仏毀釈の推進と「肉食妻帯勝手たるべし」という布告により、それまでも浄土真宗以外の宗派では、現実的に破戒が常態であったのが、公然と妻帯が行われる様になっていった。このため戒律を順守する僧侶(比丘)ではなく、妻帯して僧職で生計を立てる(実質的に)者の子女が寺を継ぐという、世襲制度が他宗派でも一般化している。この事も葬式仏教化へと拍車をかけている一因と云える。2000年代から、この様な葬儀や法事に依存した日本の仏教状況を批判する意味で、葬式仏教という言葉が使われる様になった。仏教界内部からも、この状況を反省し改めるべきだとする活動が様々に行われている。伝統的な宗派に属する寺院でも、不登校の問題や自殺防止などに取り組んだり、宗教家の立場で人々の相談に乗ったりする寺院等、人々の心の問題に取り組もうとする動きが、伝統的な仏教界にもみられている。また、葬式仏教的な現状に飽き足らない人々の中には、既成の宗派の枠やしきたりを超えた活動や、アジアなど世界に仏教を伝播しようと目を向ける人々もいる。また、近年では、過疎化等の進展で地域だけで葬儀が遂行できない事、逆に都市化やライフスタイルの変化、葬儀の在り方の多様化等により、「葬式仏教すら成り立たない」寺院も存在する。2010年(平成22年)5月10日、大手流通業イオンが、浄土真宗(西、東)・浄土宗・曹洞宗・臨済宗・天台宗・日蓮宗と、主だった宗派には全て対応する、8宗派約600ヶ寺と連携しお坊さん紹介サービスを開始した。2009年(平成21年)9月から既に、イオンカード会員を対象に葬儀紹介サービス「イオンのお葬式」を展開、すでに「死」が商品化されていたにもかかわらず、これまで不透明だった葬儀費用や布施・戒名料金の全国統一価格を示すことで、商品として料金を明確化する姿勢を示した。これに対して全日本仏教会は、第29期事務総長戸松義晴の名で『料金表示の削除』を求めた。こうした問題の背後にあるのは、直接的には社会構造の変化による人口の流動化で、江戸時代以降続いてきた檀家制度の完全な崩壊と、それに伴う多くの寺院の拝金主義的傾向だが、底流にあるのは、日本人の仏教に対する意識の希薄さであることが、改めて示された。全日本仏教会は、「本来布施とは、慈しみの心にもとづいて行われる極めて宗教的な行為で、人々の苦しみや悲しみに寄り添い(無畏施)、人々と共に考え法を説く(法施)」と位置づけ、布施の額に関しては、布施をする人が決めるべきものとという立場を示した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。