藤原 三守(ふじわら の ただもり/みもり、延暦4年(785年) - 承和7年7月7日(840年8月7日))は、平安時代初期の公卿。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の曾孫。阿波守・藤原真作の五男。官位は従二位・右大臣、贈従一位。後山科大臣と号す。平安時代初期には藤原南家は既に藤原仲麻呂の乱や伊予親王の変などの政争によりかつての勢いを失っており、代わりに桓武天皇に重用された藤原式家が政権の主流に立っていたことなどから、父・真作は従五位上・阿波守止まりであった。しかし、彼自身は嵯峨天皇に春宮時代から仕えてその側近として重用される。大同4年(809年)嵯峨天皇の即位後まもなく従六位下から従五位下に四階級昇叙され、右近衛少将に任官。その後も急速に昇進し、弘仁2年(811年)蔵人頭、弘仁5年(814年)従四位下、弘仁7年(816年)には32歳の若さで参議に任ぜられ公卿に列す。弘仁12年(821年)従三位・権中納言に叙任。嵯峨天皇が譲位して淳和天皇が即位した後も、弘仁14年(823年)中納言へ昇進する。同年11月嵯峨上皇に近侍するため中納言を辞すものの、天長5年(828年)には前中納言から直接大納言に昇進している。天長7年(830年)嵯峨朝から引き続き修訂が進められていた『弘仁格式』を撰上。天長10年(833年)仁明天皇即位後に従二位、承和5年(838年)には右大臣に昇進し、太政官では式家の左大臣・藤原緒嗣に次ぐ地位にまで昇った。最終官位は右大臣従二位皇太子傅。没後、従一位が追贈された。温和で慎み深い性格の一方、決断力もあった。詩人を招いて親しく酒杯を交わしたり、参朝の途中で学者に会った際は必ず下馬して通り過ぎるのを待ったといい、これらのことは当時の人々に評判となった。また、天台・真言両宗の熱心な後援者であり、僧綱の強硬な反対に遭って難航していた最澄の大乗戒壇設立構想が、弘仁13年(822年)6月11日、勅許を得るに至ったのは、彼および藤原冬嗣・良峯安世・大伴国道らの尽力によるといわれる。翌弘仁14年(823年)3月には、大伴国道とともに初代延暦寺俗別当に任ぜられた。天長5年(828年)12月15日には、空海が彼から譲り受けた私邸に綜芸種智院を設置している。嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子の義兄であり、藤原長良・藤原良房らの伯父でもある。三守の曾孫藤原元真は三十六歌仙の一人とされる歌人。また玄孫の藤原棟世と清少納言との間の娘である小馬命婦も、一条天皇の皇后・藤原彰子に仕え『後拾遺和歌集』に1首を数える勅撰歌人となった。
出典:wikipedia
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