劉 嘉(りゅう か、? - 39年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将、政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。字は孝孫。父は劉憲。伯父は舂陵侯劉敞。子は劉廧、劉参。従兄弟は劉祉。妻の兄は来歙。新末後漢初における漢宗室出身の武将。劉嘉は幼くして父親を亡くし、一族である劉秀(後の光武帝)の父・劉欽に我が子のように養われた。後に、劉嘉は劉縯(劉秀の兄)と共に長安に遊学し、『尚書』『春秋』を学んだ。その性格は仁慈に厚かったという。地皇3年(22年)11月、劉縯が新王朝への蜂起を計画し、劉嘉は劉縯の指示で新市軍の王匡、平林軍の陳牧の下に使者として赴き、劉縯らの舂陵軍と連合させた。この時、劉嘉は、劉玄(後の更始帝)に従ったとあり、平林軍に従軍したようである。年末の小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで連合軍が新軍に敗北した際に、劉嘉は妻子を失った。翌更始1年(23年)2月、劉玄が更始帝として即位すると、劉嘉は偏将軍に任命された。同年6月、劉縯に従って宛(南陽郡)を攻略し、劉嘉は興徳侯に封じられ、大将軍に昇進した。さらに冠軍(南陽郡)で延岑を降している。更始2年(24年)2月、更始帝が長安に遷都すると、劉嘉は漢中王にして扶威大将軍となり、任地である漢中に就国した。この時、劉嘉は南鄭(漢中郡)を都として数十万の兵を擁する一大勢力となった。建武2年(26年)、延岑が劉嘉に反逆して南鄭を包囲し、劣勢になった劉嘉は南鄭から武都郡へ敗走した。延岑は武安王を自称し、劉嘉を追撃して武都に入ったが、旧更始政権の柱功侯李宝に迎撃されて敗北し、天水郡に逃走した。一方の劉嘉は、武都で敗軍を収拾し、李宝を相として味方に加えて態勢を立て直す。そして延岑に代わって南鄭を占領した蜀(成家)の公孫述の部将侯丹を攻撃したが、攻略できず、河池・下弁(いずれも武都郡の県)に撤退した。その後劉嘉は、延岑との激しい角逐戦を開始する。延岑が散関から三輔に入ると、劉嘉もこれを追撃して三輔に入り、陳倉(右扶風。長安の西方)で延岑軍を撃破した。延岑が杜陵(京兆尹。長安の東南)へ敗走すると、劉嘉は長安の西北部へ向けて進軍する。そこへ、赤眉軍に降伏していた旧更始政権の穣王廖湛が18万の大軍で劉嘉を攻撃してきた。劉嘉は廖湛を谷口(左馮翊)で撃破し、自らの手で廖湛を斬り殺している。この後、劉嘉はさらに北進して、雲陽(左馮翊)に駐屯した。この時期、『後漢書』の記述によれば、延岑と李宝は同盟し、杜陵にて赤眉軍の逄安を撃ち破っている。光武帝(劉秀)の大司徒鄧禹の西征を聞きつけた李宝らは、兵を擁して守りを固め、劉嘉に成り行きを見極めるべきと進言した。しかし、この状況を聞き知った光武帝は、劉嘉は勤勉善良で若くから親愛した間柄で、敵対するような行為は長安の軽薄児(=李宝)が誤らせたのだと鄧禹に伝え、鄧禹はそれをさらに劉嘉に伝えた。劉嘉は、妻の兄に当たる来歙の進言を受け、来歙を仲介にして鄧禹に降伏した。建武3年(27年)、劉嘉は来歙と共に洛陽に至り、漢軍の征伐に従って、千乗太守に任命された。建武6年(30年)、病のため骸骨を乞い、洛陽に召還されている。建武13年(37年)、順陽侯に封じられた。建武15年(39年)、劉嘉は死去し、「懐侯」と諡された。嫡子の劉参が後を継いだが、南郷侯に転封された。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。