三笑亭 夢之助(さんしょうてい ゆめのすけ、1949年〈昭和24年〉6月5日 - )は、北海道札幌市出身(南富良野町生まれ)の落語家、タレント。北海高等学校卒業。本名、佐藤 信夫(さとう のぶお)。血液型はO型。出囃子は『奴の行列』。落語家として落語芸術協会に所属、同協会理事でもある。タレントとしてはアートプロモーションに所属している。「いやっ、どうもどうも!」「はいはいはい」といった底抜けに明るい口調と、機転が利くキャラクターでテレビ番組・ラジオ番組の司会者、リポーターとして一躍人気者となる。近年は、本業の落語に精進するためにテレビ・ラジオの仕事を控えると宣言。ただし、完全にマスメディアでの仕事をシャットアウトしているわけではなく、現在も旅番組やグルメ番組でリポーターとして活躍を見せているほか、『ペケ×ポン』(フジテレビ)などのバラエティ番組にも出演している。一方、本業の落語では新宿末廣亭をはじめとする都内の各寄席に出演。また、かつては年2回の独演会を国立演芸場で開催していた。主な演目には『蒟蒻問答』『魚根問』『粗忽の釘』『宗論』『寿限たら』『天狗裁き』『弥次郎』などがある。趣味は園芸、料理作り、世界の小物集め、麻雀。出生地は富良野市に近い南富良野町で、少年時代まで過ごした。零下40度の酷寒も体験したことあるという。近年は当時を回想した、古典の『手紙無筆』をもじったような新作落語も披露している。『笑点』の大喜利メンバーだったこともある。答えの巧さよりも一発ギャグなどの突発的な面白さを重視し、ウケを狙った毒舌や失言も多く、番組スポンサー(龍角散)絡みで致命的な失敗を犯し、そのまま降板となった。ただし、大喜利メンバーだった2年間で座布団10枚は3回獲得、しかも1978年には1年で2度獲得(記録が残る限りでは他に、1983年と2003年の桂歌丸、1999年の初代林家木久蔵(現:林家木久扇)、2008年の春風亭昇太がいるだけ)したほか、番組初の海外収録に参加するなど、出演期間は短かったものの強い印象を残している。なお、夢之助は三遊亭楽太郎と同時に大喜利メンバーに加入したが、この2人を最後に、20代で大喜利メンバーに加わった者はいない。また、二つ目のまま番組を降板したのも夢之助が最後である(真打昇進は降板後の1983年。夢之助以降の加入メンバーは全員、加入前かレギュラー出演中に真打に昇進している)。1979年頃、当時よくあった芸能人のスポーツ大会の一環で、(野球大会はよくあったが)珍しくバレーボールの大会があった。夢之助のサーブは、右手を一回転廻しながら打つ独特の打ち方で、実況のアナウンサーから「夢之助サーブ」なる名前が付けられた。2007年9月17日、夢之助は島根県安来市で行われた同市主催の独演会で、1時間の大ネタ『天災』に臨んでいたところ、事前に聞かされていなかった手話通訳者が舞台上で通訳を行っており、「気が散って噺を間違えるとお客さんに失礼なので、後ろに下がってほしい」という主旨で「気が散るし、落語は話し言葉でするもので手話に変えられるものではない。お客さんがいいと思うなら構わないが」という発言を繰り返した。この発言を受けて、主催者側の係が手話通訳者を舞台から降ろし、客席で通訳させた。会場には聴覚障害者が3名いて、同市の主要な行事では手話通訳が慣例となっていた。後日、この話を聞いた島根県ろうあ連盟は、落語芸術協会と同市に抗議文を送付した。同市は担当者が聴覚障害者に直接謝罪した他、夢之助は直筆の謝罪文を寄せた。新聞報道などで騒ぎが大きくなったことを受け、同市市長が落語芸術協会に訪問して謝罪することになった。また、同市ウェブサイトに「事前に手話通訳をつけることを伝えていなかったことにより、不適切な発言が起きた」とするお詫び文を掲載した。
出典:wikipedia
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