鷲神社(おおとりじんじゃ)は、東京都台東区千束三丁目にある神社である。鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社。現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の例祭も現在は「酉の市(とりのいち)」として広く知られる。社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命(あめのひわしのかみ)と称される様に。天日鷲命(あめのひわしのかみ)は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされた。後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされ、その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」となる。この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となった。江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集める。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られるが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日。十一月酉の日の午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に始まり、終日お祭が執り行われる。十一月に酉の日が二回ある時は二の酉、三回は三の酉と云う。以前は、酉の祭(とりのまち)と呼ばれていたが、祭に市が立った為次第に市の文字があてられた。酉の市(酉の祭)は、鷲神社御祭神の御神慮を伺い、御神恩に感謝して、来る年の開運、授福、殖産、除災、商売繁昌をお祈りする祭。社号も昔は鷲大明神社と称していた。元来鷲大明神社の「大」は敬意、「明神」は神を奉る号。「東都歳時記」には、酉の日・酉の祭、下谷田甫鷲大明神社当社の賑へることは、今天保壬辰(1832)より凡そ六十余年以前よりの事、とあり、宝暦・明和年間(1750~60)にはすでに酉の祭は相当な賑わいで、それ以前から年中行事として行われていたことがわかる。其角の句に「浅草田甫・酉の市」として、春を待つ ことのはじめや 酉の市とあるが、この句も霜月(11月)に入ってはじめての市立てであり、それだけ正月が近づいてきた高揚した気持ちを詠んでいるのであろう。これらの事からも酉の祭が長い歴史を持つ神祭であり、同時に多くの浮世絵が残されたことでも、年中行事として親しまれていたことが解る。酉の市樋口一葉の「たけくらべ」に『此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき・・・・』とあるのをはじめ、文学作品に表された酉の市も多く、広津柳浪「今戸心中」、久保田万太郎「三の酉」、沢村貞子「私の浅草」、等々。冬の季語になる俳句も人並に押されてくるや酉の市 虚子一葉忌ある年酉にあたりけり 万太郎雑閙や熊手押あふ酉の市 子規など秀句が多くある。三の酉の年は火事が多いといわれるが、これは地方などに宵に鳴かぬ鶏が鳴くと「火事が出る」といわれたことから出た俗信。鶏は神の使いであるとされ「時」を知るために飼われた。三の酉の頃になると次第に寒さを増し、火を使う機会も増えることから火に対する戒め、慎みから言われたという説も。古くより続く鷲神社の例祭は大正十二年の関東大震災の年も、戦時中や終戦の年も挙行され、たくさんの御参詣を集めた。なお、めぐりんは酉の市の期間中は交通規制により台東病院停留所を迂回するため28番の千束二丁目が最寄りとなる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。