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ラフオンテース

ラフオンテースは日本の競走馬。中央競馬で阪神3歳ステークスなど重賞5勝を挙げた。1979年度優駿賞最優秀3歳牝馬、1981年度同最優秀5歳以上牝馬。小柄な身体で走り続ける姿から「根性娘」の異名を取った。主戦騎手は岩元市三。※馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で記述する。1977年、北海道浦河町の中脇牧場で生まれる。幼駒時代から非常に小柄で見栄えがしなかったが、勝ち気な性格で牧場ではリーダー格だった。2歳時に栗東トレーニングセンターの布施正の元に入厩。3歳になり競走名「ラフオンテース」と名付けられた。この馬名は本来、フランスの詩人に由来するラフォンテーヌ (La Fontaine) 」という名前になるはずだった。しかし、馬名審査登録の担当者が、申請書類に書かれていた「ラフオンテーヌ」を「ラフオンテース」と誤認し、そのまま登録された。馬主からの馬名変更申請は却下され、馬名は意味のない文字列のままとなった。デビュー後しばらくは、その馬体重は400kgにも満たなかった。しかし10馬身差で圧勝した小倉競馬場開催の新馬戦から、いずれも2着を離しての4連勝を遂げ、迎えた関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスでは、ノースガスト(翌年の菊花賞優勝馬)、オペックホース(同日本ダービー優勝馬)を寄せ付けず優勝した。この年、最優秀3歳牝馬に選出される。翌4歳はきさらぎ賞から始動。ここも1番人気に支持されたが、最終コーナーで先頭に並びかけた時、最内を逃げていたノトダイバーが外側に斜行し、ラフオンテースは大きく外に弾かれた。さらに外を走っていたシンボルシチーとも接触し、体勢を崩して先頭から数馬身の位置まで後退。直線で立て直して追い込んだが、前を行く2頭を僅かにかわしきれず、3着に敗れた。大きな不利を受けながらの僅差3着に「負けてなお強し」と、その評価はかえって高まったが、しかしラフオンテース自身はこの競走を境に他馬を怖がるようになり、ここから長いスランプに陥った。次走阪神4歳牝馬特別では、最後方から最後の直線だけで追い込んだが2着、8戦連続の1番人気に推された桜花賞でも、ハギノトップレディの4着に敗れた。この頃より脚部不安も生じ、4歳時は1勝も挙げられず、翌年7月まで15連敗を喫した。勝利から遠ざかって1年半以上が経過した5歳夏、小倉日経賞でラフオンテースは突如として復活を遂げる。3歳時と同じように最終コーナーから位置を上げていくと、そのままゴールまで押し切り、2着に7馬身差を付けて圧勝。優勝タイム1分40秒7は、芝1700メートルの日本レコードタイムであった。続く北九州記念も7馬身差で勝利し、次走の小倉記念では、58.5kgの斤量を背負ってアタマ差抜け出し3連勝。秋緒戦の朝日チャレンジカップでも後方大外からオペックホースを一気に差し切り、重賞3勝を含む4連勝を果たした。しかし次走の天皇賞から、この年創設された第1回ジャパンカップと一線級の牡馬相手の勝負となり、天皇賞6着、ジャパンカップ12着と敗れ、年末の阪神大賞典も4着となった。しかし夏場の4連勝が評価され、この年の最優秀5歳以上牝馬に選ばれ、3歳以来2年ぶりの年度表彰を受賞した。翌年も現役を続行したが、3戦消化してすべて11着に終わり、宝塚記念を最後に引退した。引退したラフオンテースは故郷の中脇牧場に戻り、1983年より繁殖生活を開始した。初年度には丈夫な産駒が多い事で知られるニゾンが種付けされ、無事受胎する。ところが5月28日、放牧中に突然走り出して牧柵に激突。金具で補強された柵が破損するほどの衝突で腰骨に致命的な骨折を負い、手当ての術なく安楽死の措置が執られた。遺体は牧場内に埋葬され、墓碑が建てられている。きっかけなく自ら牧柵に向かっていったと言われ、なぜそうした行動を取ったのかは明らかにならなかっていない。このため擬人的に「自殺したのではないか」と語る関係者もいた。また中脇も「そう言われてもおかしくはない状況だった」と述べている。ラフオンテースの直仔は残っていないが、姉妹の仔からテイエムジャンボ、シンホリスキーなどの活躍馬が出ている。

出典:wikipedia

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