LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

狭山事件

狭山事件(さやまじけん)は、1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女を被害者とする強盗強姦殺人事件。「誘拐殺人事件」と呼ばれる場合もあるが、誘拐罪では起訴されていない。1963年5月23日、当時24歳の石川一雄が逮捕された。石川は被差別部落の貧農の出身であり、養豚場勤務を経て、逮捕当時は鳶職の手伝いをしていた。石川は、のちに強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂・窃盗・森林窃盗・傷害・暴行・横領で起訴され、一審では全面的に罪を認めたが、一審の死刑判決後に一転して冤罪を主張。その後、無期懲役刑が確定して石川は服役した(1994年に仮釈放されている)。本事件については、捜査過程での問題点を指摘する声もあり、石川とその弁護団や支援団体が冤罪を主張して再審請求をおこなっているものの、袴田事件などとは異なり日本弁護士連合会が支援する再審事件(冤罪事件である可能性があるかどうか、などを基準に日弁連が再審請求を支援する事件)には含まれていない。再審えん罪事件全国連絡会の加盟事件にも含まれていない。石川が被差別部落の出身であることから、本事件は部落差別との関係を問われ、市民権運動の時代に大きな争点となった。部落解放同盟や部落解放同盟全国連合会などの部落解放運動団体や、中核派・革労協・社青同解放派などの政治党派の立場からは、この事件に関する裁判を狭山差別裁判と呼ぶ。「差別裁判」と呼ぶのは、狭山弁護団の松本健男によると、事件や裁判の背景に「部落差別に起因する無学無知」があったためであるという。しかし、満足な学校教育を受けなかった点については石川当人が「被差別部落出身だからというわけではなく、そんな時代でした」と発言している。「差別裁判」という呼び方には被差別部落の内部にも反対する意見があった。また、一審当時から「石川一雄君を守る会」(のち「石川一雄さんを守る会」)を通じて石川を支援していた日本国民救援会は冤罪説に立ちつつもと批判している。さらに、1977年には最高裁が上告棄却決定の冒頭でと述べ、やはり「狭山裁判差別説」を否定している。石川一雄冤罪説に立たない革マルの立場からは、この事件に関する裁判を狭山無差別裁判と呼んでいる。狭山事件に関しては、弁護側の見解に沿って記事を書かなかった新聞社が部落解放同盟等から吊し上げを受けた事例もあり(#狭山事件に関連する糾弾事件を参照)、マスコミの多くは、石川一雄を「元受刑者」ではなく「さん」「氏」付けで呼ぶようになっている。ただし、日本共産党においてはこの限りではない(歴史的経緯は#支援活動参照)。北九州土地転がし事件をスクープした『小倉タイムス』の瀬川負太郎もまた石川を敬称抜きで呼び、「冤罪かどうかさえ怪し」いと述べている。石川の冤罪は何ら立証されていないが、支援者は石川を「冤罪被害者」と呼び、石川みずからもそのように自称している。「石川一雄さんが無罪確定したと勘違いされている人が多い」との指摘もある。石川冤罪説を朝日新聞や読売新聞に先んじて報じたのは『赤旗』編集局の吉岡吉典(のち参議院議員)であったが、吉岡は「石川一雄が犯人だという証拠も結構あるんだよ」とも発言していた。なお、石川犯人説は当初から被差別部落や部落解放同盟の内部にも存在していたが、『解放新聞』主筆の土方鐵は、「石川君が、かりに『真犯人』であったとしても、この事件はすぐれて、部落解放にかかわる問題である」と主張し、部落民にとって不利なことは全て差別であるとの「朝田理論」にその根拠を求めた。土方はまた、在日韓国人少年による強姦殺人事件「小松川事件」を引き、「石川君が、無実でなかったとしても、李少年と同様の本質をもつ事件なのだ」と煽動した。逮捕当初から石川を支援していた部落解放同盟埼玉県連合会の声明も、「石川君のクロ・シロは別として」公正な捜査や裁判を求める、というものであった。部落解放同盟埼玉県連合会の野本武一も「(石川がクロでも)根本が部落差別だから(冤罪プロパガンダを)やらなければならない」と主張した。1981年に宮崎県延岡市の被差別部落で開かれた子ども会の「解放学習会」では、部落の児童たちから「石川さんが、ほんまに無実なのか、確信をもてない」との意見が出された。藤田敬一はこれを「正直いって私は、うれしかった。(略)この子どもたちは、自分の頭で考えようとしている。これは大切なことではないだろうか。先生や支部幹部の話をうのみにするのではなく、ほんとに石川さんが無実なのかどうか考えてみる。そのなかで確信をもちたいという。これは、たしかな自立の一歩であると、私は思う」と肯定的に評価したが、のちに藤田は部落解放同盟から差別者と呼ばれて指弾された。1963年5月1日5月2日5月3日5月4日1963年3月に発生した「吉展ちゃん誘拐事件」で警察は犯人を取り逃がしており(2年後の1965年に犯人検挙)、次いで起きた狭山での誘拐犯人取り逃がしについて強い批判を受けた。死体が発見された4日には柏村信雄警察庁長官が辞表を提出し、引責辞任した(10日)。埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させるも捜査は難航。死体発見の同日、特捜本部はI養豚場の経営者に聞き込みをおこなったところ、同養豚場からスコップが紛失していることを聞かされたため、この経営者に盗難の被害届を書かせた。スコップの存在を知っていたのはI養豚場関係者に限られることや、I養豚場の番犬に慣れている者でなければスコップを盗み得ない状況にあったことから、警察はI養豚場関係者に的を絞り、特命捜査班を組織してI養豚場関係者に対する捜査を開始した。このとき捜査線上に浮かび上がったのは、以下の面々であった。このほか、石川一雄と同姓で元同僚のIT(当時21歳、1998年病死)も血液型B型だったと伊吹隼人は述べているが、公判ではそのように認定されていない。時の国家公安委員長・篠田弘作は「こんな悪質な犯人は、なんとしても必ず生きたまま捕らえる」と発表した。11日午後5時ごろ、I養豚場から盗まれたスコップが狭山市大字入間川字東里の小麦畑で発見された。このスコップは一見して農作業や土木工事に使われていたスコップではないことが明瞭であり、木部に食用の油が付着していたため、捜査当局はI養豚場の養豚用スコップと判断した。そこでスコップに付いていた土を調べたところ、遺体を埋めた地点の土と同じものという鑑定結果が出たことから、遺体を埋めたときに使ったスコップと認定された。同月23日、遺体遺棄現場近くの被差別部落に住む石川一雄(当時24歳、血液型B型)が傷害や暴行や窃盗などの容疑で別件逮捕された。石川は養豚場時代から被害者と顔見知りだった。同日におこなわれたポリグラフ検査で石川は、手拭、タオル、首の絞め方など9項目について、犯人しか知らない点を質問された折に異常な反応を示している。また、被害者の遺体には他人の頭髪が付着していたが、これについて石川の頭髪と比較し、精密検査したところ、特徴がよく似ていることが判明した。石川の学歴について弁護側は「小学校5年修了」としているが、当時の新聞報道には、1951年に入間川の中学校に入学するもほとんど通学せず1954年に「義務年限終了」で除籍、とある。除籍と同時に保谷の鉄工所に勤めたが旋盤で指を切断する事故を起こし退職したという。石川はその他、農家の子守奉公や靴屋の店員見習いなどの職を転々としている。1958年3月には東鳩の製菓工場の臨時工員としてビスケットの不良品を選り分けて箱に詰める仕事をしていたが、むら気が強く「いやになると選り分けしないままめちゃくちゃに詰め込んでいた」と同僚は言う。東鳩時代、最初の1年は野球選手として活躍していたが、やがて狭山から通勤する友人に誘われて不良の仲間に入り、2年目からは素行不良で欠勤が続き、競輪や競馬やマージャンといったギャンブルに入れ込み、とりわけ競輪に熱中していた。無断早退して競輪場に行ったこともある。1960年から1961年にかけて女子工員とトラブルになり、最終的には会社の製品を無断で持ち出したことが発覚して1961年9月5日に懲戒解雇となった。石川は土工を経て、1962年10月末頃から1963年2月28日まで約4ヶ月間I養豚場に住み込みで働いていた。そして同養豚場の経営者家族や従業員たち27人中21名の血液型を検査したところ、B型は石川ただ1人であった。さらに、その27人中14人の筆跡を鑑定したところ、石川の筆跡が脅迫状と一致するという結果が出た。石川の当時の性格は短気にして粗暴と評され、物を投げる癖があり、同僚の目の前で、パンを焼く大きな窯(かま)に生きた猫を放り込んだこともある(動物虐待)。普段は暗い感じで「つかれる」が口癖であったが、酒を飲むと人格が一変。不良同士の喧嘩から短刀で刺されたこともあり、左下腹に大きな傷跡があった。当時はとても一人歩きできない寂しい場所だった薬研坂を、石川は夜遅くなっても平気で歩いていたと同僚はいう。石川には前科はなかったが、13歳の時、列車の転覆事件の容疑者と目され、連行されて取り調べを受けたことがある。また、14歳の頃、友人と共に狭山市柏原の民家から鳩を5~6羽盗み、狭山警察署で取り調べを受け、父親と一緒に浦和の裁判所に呼び出されたが起訴猶予になったことがある。さらに、その翌年頃、狭山市入曽の農家の物置から俵を3俵盗み、やはり狭山警察署で調べられ、浦和の裁判所に呼び出されて起訴猶予になったこともある。I養豚場を辞めた後しばらくは金銭問題による家庭内の不和から実家に帰ることができず、自動車の中で寝たり、山の中で寝たり、友人宅に泊めてもらったりしていたが、3月10日頃に所持金を使い果たしてどうしようもなくなり、詫びを入れて実家に戻してもらったという。ただし実家に戻ってからも兄とは折り合いが悪く、兄から「家を出て行け」と言われたほか、姉の婚家に「どうしたら一雄を家から追い出せるか」と相談されたこともある。石川の人となりについて、石川の元婚約者は自分の父親に対し「あまりしゃべらん陰気なひと」と語っていた。また、石川は満足な義務教育を受けていなかったが知的には正常で、知能指数は100だったことが確認されている。本事件の犯人の血液型がBであると新聞などに報じられた頃、石川はI養豚場の経営者から血液型を尋ねられ、本当はBと知りつつAと偽ったことがある。また、5月1日のアリバイについては、兄の鳶職の手伝いをしていたから自分は大丈夫だ、とも偽っていた。(事件当日の行動については#石川一雄のアリバイ参照)石川はまた、事件の数年前の国体予選では入間川地区代表のリレー選手を務めていた。5月2日夜の行動について、石川の家族は「家で寝ていた」と証言していたが、石川の自宅は風呂場伝いに家族に隠れて外出できる構造だった。共同通信社は、逮捕前から有力容疑者が石川であるという情報を入手しており、逮捕前日の22日、工事現場で働いていた石川を撮影している。また警察は、報道陣に対して逮捕当日から「筆跡などで石川が犯人であることに確信がある」と発表した。一方「彼が犯人だという確信はあるか」との記者の質問には、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は「これが白くなったら、もうあとにロクな手持ちはない」と答えたという。逮捕直後の石川は「警察が犯人を逃がしておきながら、こんなところに入れやがって、お前なんか出たら殺してやる」と中勲(刑事部長)に食ってかかった。脅迫状の筆跡と石川の筆跡の一致については「同じ日本語だから似ているのが当たり前だ」と、一致の事実を認めた上で開き直った。「何度同じことを訊くんだ」と取調官に突然手を上げたほか、鉛筆を投げたり、そっぽを向いて鼻歌をうたったりした。調べ室に置いてあった被害者の写真をこなごなに引き裂いたこともある。また石川の母の証言によると、5月3日朝に石川は起床できず昼頃まで寝ていたというが、5月3日早朝は犯人が佐野屋付近で身代金を奪い損ねて逃走した日だったため、逃げ疲れて寝込んでいたものと警察では解釈した。石川は競輪が好きで少なくとも3万数千円の借金があったため、金に困っての犯行と思われた。競輪好きの石川は西武園競輪場にもたびたび足を運んでいたため、脅迫状の中の文言(もし車で行った友達が時間どおり無事に帰って来なかったら子供は西武園の池の中に死んでいるからそこへ行ってみろ)と結びつくと解釈された。石川の逮捕前、『毎日新聞』1963年5月9日付第13版は「警察の字を刑札などと間違えているのに、西武園はちゃんと書いてるんで、競輪マニアじゃないかという説もある」と報じていた。石川は当時、雅樹ちゃん誘拐殺人事件に異常な関心を示していた。石川逮捕の当時の心境を、被害者の長兄はと述懐した。石川逮捕の2~3日前(5月20日頃)から石川が犯人に間違いないという信念を強くしていたという。石川は、養豚場勤務の頃に被害者宅の近くで盗みの下見などを行っていたこともある。警察は20日以上にわたって取り調べを行ったが石川は自白をしなかった。この間、6月9日には、佐野屋付近の茶畑に残された地下足袋の足跡と、石川宅から押収された地下足袋の大きさや特徴が、完全に一致することが確認された。石川は「この地下足袋は兄のもので、自分には小さすぎて履けない」と言っていたが、捜査本部で石川に履かせたところ、無理をせずに履けることが判明した。石川が事件の前後この地下足袋を履いて仕事をしていた事実も突き止められた。6月13日に窃盗・暴行・恐喝未遂などの容疑で起訴された後、弁護士の保釈の申請が認められて6月17日に釈放されることになったが、釈放直後に警察は、強盗・強姦・殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した。再逮捕された石川は、養豚場の元同僚たち2人が被害者を強姦・殺害した、ただし自分は脅迫状を書いて届けて死体埋葬用のスコップを盗んだだけである、という自白(3人共犯説)を6月20日に行った。共犯の存在を匂わせるのは犯罪者が自らの責任を軽くする意図でしばしば行うこととされており、雅樹ちゃん誘拐殺人事件の犯人も最初は共犯がいるような主張をしたという。さらに、6月21日には石川が描いた少女のカバンを捨てた場所の地図に基づいてカバンが発見された。6月23日には単独犯行を自白した。6月26日には自供に基づいて自宅から万年筆が発見された。さらに、7月2日、石川の自供に基づいて腕時計を捨てたとされる場所の付近から、時計が発見された。石川の自宅から発見されたノートのページの切り口が、脅迫状の紙面の切り口と一致するとも報じられた。石川はI養豚場で働いていた頃から被害者とは顔見知りだった。そのため、気安く冗談をとばして被害者をからかったが無視されたため逆上して犯行に及んだ、というのが当時の自供であった。石川の再逮捕を受け、被害者の長兄はと語った。松本清張は「石川の自供からカバンが出てきた以上、犯人と断定してさしつかえないだろう」とコメントし、村岡花子は「捜査陣の長い間のネバリと自信の勝利」と称えた。逮捕される前の石川は、警察による事情聴取に対し、事件当日の行動を以下のように語っていた。石川の逮捕後、1963年5月25日の段階でも石川の親類や友人は「一雄は事件当日、屋根の修理に行っていた」と嘘をついていた。しかし、後にこの申し立ては家族や親類や友人と口裏を合わせた上での嘘であることが露見した。犯行自供後、石川は事件当日の行動を以下のように語った。死刑判決後、自供を撤回してふたたび無罪主張に転じてからは、事件当日の行動はこうだったと主張し始めた。しかし無罪主張に転じてからのアリバイは家族の証言以外の裏付けがなく、遊園地でもパチンコ屋でも小学校でも荷小屋でも石川の姿は目撃されておらず、もともと家族と口裏を合わせてアリバイを偽っていた経緯もあり、裁判では事実と認定されていない。東京高裁判決における「石川うそつき論」を非難している狭山弁護団の松本健男も、アリバイをめぐる石川の虚言については争っていない。カバン、万年筆、腕時計が石川の自供により発見されたことは、犯人しか知り得ない物証として各判決の決め手となった。そのため三大物証と呼ばれている。しかし、下記の点を根拠に冤罪説を主張する者もいる。この点につき最高裁は、と、側番号が違うのは捜査官の不注意ミスと述べた。さらに、と述べ、発見された腕時計が被害者やその姉の使用品であることは間違いないとしている。なお、1976年秋の証拠開示の結果、この品触れに載っていた側番号は確かに見本の時計のものであることが確認され、これにより「発見された時計は被害者のものではない」という弁護側上告趣意書の主張は誤りであることが判明した。このことは「弁護側や、石川一雄の無実を信じて支援活動を続けている人びとにもショックを与え」た、とされる。この点につき最高裁は、と述べ、被害者または石川がペン習字の授業の後、インクを詰め替えた可能性を認定した。この点につき最高裁は、と、警官が見落とした可能性を認定した。この点につき最高裁は、脅迫状の筆跡や用字上の特徴と石川の特徴を比べた上で、両者の特徴は同一であると結論づけた。識字能力について石川自身はと自称していたが、裁判所は、石川が14歳の時に3ヶ月間ひらがなや漢字を習っていたこと、顧客の氏名を漢字で書きこなしていたこと、報知新聞の競輪予想欄や読売新聞を読む力があったこと、友人から交通法規の本と自動車構造の本を借りて読んでいたことなどを挙げて「他の補助手段を借りて下書きや練習をすれば、作成することが困難な文章ではない」と認定した。これに対し、狭山弁護団の松本健男は「常識的な判断過程では、石川は当時漢字が書けなかった、したがって漢字を多用した脅迫状を書くことはできないとすべきところを、判決は、確かに石川は逮捕後書いた説明文には漢字をまったく用いていないが、手本の『リボン』(ママ)をみて書いた脅迫状には漢字が多用されている、これは石川が本を見て漢字を練習して書いたからだというのである」と非難しているが、そもそも裁判所は「被告人は教育程度が低く、逮捕された後に作成した図面に記載した説明文を見ても誤りが多いうえ漢字も余り知らない」と述べているだけで、「石川は逮捕後書いた説明文には漢字をまったく用いていない」などと認定した事実は存在しない。なお、国語学者の大野晋は、検察側証拠として提出された脅迫状について、東京高裁控訴審と第2次再審請求の2度にわたり筆跡鑑定を行い、脅迫状の筆跡及び文章が逮捕時の石川の稚拙な日本語能力では不可能なものであると分析し、「脅迫状は被告人が書いた物ではないと判断される」と結論づけた。しかし、裁判所は大野晋、磨野久一(京都市教育委員会指導主事)、綾村勝次(書道家)による3鑑定書についてと退けた。また、大野鑑定は石川の埼玉県警狭山署長あて上申書(1963年5月21日)と脅迫状だけを比較したものだったため、半沢英一から「上申書だけでなく、関源三さんあての手紙なども問題となるので、これらの筆跡資料も対象として立論がなされるべきだった」と批判された。事件当時から石川の支援団体で活動していたというメンバーの一人は「自分も養豚場従業員の筆跡はひと通り見たけど、やっぱり石川さんの字が比較的脅迫状の字には似ていた。あとのはもう、全然似てなかったし」と発言しており、冤罪論者の側にも石川と脅迫状筆者との筆跡の類似を認める声がある。一方、有罪説の根拠として次のような事実が認定された。なお冤罪論界隈において、直接証拠と物証の違いを理解せず、脅迫状を狭山事件の「唯一の直接証拠」と呼ぶ向きもあるが、法律上は自白もまた直接証拠である。1963年7月9日、当時の浦和地方裁判所(現:さいたま地方裁判所)に強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄で追起訴されて浦和拘置所に移送された石川は、1963年9月4日から始まった一審で犯行を終始認め、判決の言い渡しまで否認をしなかった。捜査官の自白強制による冤罪の場合、公判では被告人が一審から無罪を主張するのが通例であり、石川のように一審で罪を全面的に認めていたのは特異なケースとされる。石川によると、当初罪を認めていたのは、警視の長谷部梅吉からと甘言で釣られたためであるというが、当の長谷部はこのような発言の存在を否定しており、石川の申立の信憑性は証明されていない。冤罪論の立場からは、石川の自供は警察に騙されて引き出されたものと説明されているが、自供した動機の説明として「それだけでは不十分」であることは『狭山差別裁判』の著者の師岡佑行も認めている。なお、逮捕当初の石川は被害者の父に1963年6月27日付でとの書き出しで、と訴えた謝罪の手紙を出している他、川越警察署分室の留置場の壁板にもと詫び文句を爪書している。しかし、弁護人の中田直人らは自白や物証の疑わしさを衝き、また警察による違法捜査の可能性を指摘し、無罪を主張した。ただし一審の段階では石川が犯行を認めていたため、弁護人橋本紀徳の最終弁論もまた、本事件が石川の犯行であったことを前提に、石川に前科がなかったこと、出来心による犯行であったこと、意図的に殺したのではなく誤って殺したことなどを強調し情状酌量を狙う内容となっていた。なお、石川家には私選弁護人の報酬を支払う能力がなかったため、中田らは自腹で石川を弁護した。一審判決の直前、1964年3月7日、石川は知人である巡査長の関源三にと書き送っている。1964年3月11日に浦和地裁は石川に対し、死刑の判決を言い渡した。翌3月12日、石川は控訴し、同年4月30日、東京拘置所に送られた。控訴後、1964年3月26日、知人である巡査長の関源三にと石川は書き送っている。また、1964年4月20日付で浦和地裁の裁判長にで始まる上申書を出しており、この段階では殺人の罪を争っていなかった。このころ拘置所で石川と同房だった者の証言によると、当時の石川はと語り、三波春夫の歌のメロディでという替え歌をうたっていたという。また、この同房者によると、当時の石川はとも発言していたという。ところが、1964年9月10日に東京高裁で開かれた控訴審(裁判長・久永正勝)の第1回公判では、石川は「お手数をかけて申し訳ないが、私は●●さん(被害者の名前)を殺してはいない。このことは弁護士にも話していない」と言い放ち、執拗な取り調べや虚偽の司法取引などにより自白を強要されたことを主張し、一審で認めた犯行を全面否認した。石川が突如として無罪主張に転じた背後には、石川の父親の友人で、石川の補佐人として雇われていた川越出身の部落解放運動家・荻原佑介(自称「部落民連盟、日本監察保安隊」「同胞差別偏見撲滅部落民完全解放自由民主党」代表)の示唆が関与していた。石川の主張によると、自分が一審で犯行を認めたのは、認めれば10年で刑務所から出してやるという警察との「男の約束」を信じたためであるという。しかし、1964年9月に無罪主張に転じ、みずから「男の約束」を反故にした後も石川は知り合いの巡査部長の関にあててと、みずから進んで自白した旨の友好的な手紙を書き送っている(1965年6月22日付)。また、1965年7月18日にもと詫びるハガキを関に送っている。しかし警察に対する石川の感情は後に悪化し、1966年11月22日付の荻原宛の手紙ではと呪詛の念を吐露するに至った。1974年10月31日東京高等裁判所は、弁護団の主張を斥けて「無期懲役」の判決を下した。死刑判決を選ばなかった理由について、東京高裁判決は「本件の犯行には右に述べた偶然的な要素の重なりもあって、被告人にとって事が予期しない事態にまで発展してしまった節があると認められること、それまで前科前歴もないこと、その他一件記録に現れた被告人に有利な諸般の情状を考量すると、原判決が臨むに死刑をもってしたのは、刑の量定重きに過ぎて妥当でない」と述べている。二審判決後、弁護団は新証拠をあげて上告したが、1977年8月9日に最高裁は上告を棄却した。その結果、石川の無期懲役が確定し、1977年9月8日、千葉刑務所に下獄した。千葉刑務所での様子は、見沢知廉『囚人狂時代』、金原龍一『31年ぶりにムショを出た』、元死刑囚K・O(カービン銃ギャング事件主犯)『続・さらばわが友』に描写されている。K・Oによると、刑務所当局は石川の支援団体に気を遣い、石川には入所早々から日当たりの良い南側の独居房をあてがう特別待遇をおこない、所内での禁止行為を石川にだけは特別に黙認していたという。石川の愛読書は殺人関係の小説であった。石川はまた、獄中で短歌を作り、「牽牛と織女の再会ドッキング」(七夕)から「淫戯を想して」涎を垂らす旨の歌を詠んでいる。金原によると、千葉刑務所の周辺には週に約1回の頻度で部落解放同盟や中核派や社青同解放派などの支援団体の街宣車が訪れ、「冤罪事件に巻き込まれた石川さん! 今日も頑張ってください!!」などと大音量の拡声器で激励していたのが塀の中まで明瞭に聞こえていたという。石川はなどと自慢していたために反感を買い、「冤罪を訴えているが実はやってるんじゃないか」と噂されることもあったと金原は伝えている。また見沢によると、千葉刑務所時代の石川は月額数百万円のカンパを貰い、カンパ金で車やビルを買ったといわれる。しかし石川は「いやあ、今月のカンパは少ねえなあ」と笑い、出所の翌日には700万円のオーディオ機器を買ったという。このような石川の行動に対して『解放新聞』編集長の土方鉄は詩人の酒井真右にと嘆いており、部落解放同盟の内部にも石川を批判する声があった。冤罪論の教宣活動に携わった師岡佑行もまた、と牽制している。弁護団はその後も異議申立て、再審請求を提出するが棄却・却下されている。1994年12月21日石川が31年7ヶ月ぶりに仮出獄した。関東地方更生保護委員会はこの事実を公表したが、出所したことを公表するのは極めて異例である。他に公表したケースは、神戸連続児童殺傷事件の加害者、元少年A(犯行当時14歳)の関東医療少年院を仮退院した事例のみである。通常、仮出獄は受刑者に改悛の状があるときにしか認められないが()、石川の場合は運動団体の圧力により、無罪主張を維持しつつ仮出獄を認めさせる異例の形となった。仮出獄後の石川は故郷の狭山市の実家に戻ったが、1995年12月18日に実家が全焼。その後、実家跡には部落解放同盟の「狭山再審闘争勝利現地事務所」が建てられ、事件当時の石川宅が復元保存されている。もともと石川一雄は製菓工場時代に被差別部落出身ではない女性と知り合って婚約関係となっていたが、事件の4ヶ月前、1963年1月に急性肺炎で婚約者を失った過去がある。しかし、仮出獄2周年の1996年12月21日には支援者である徳島県の被差別部落出身の女性(狭山事件の被害者女性と同年、1947年の生まれ)と結婚し、実家付近に8階建てのマンションを建て、不動産収入で老後を送っている。2005年3月16日、最高裁第一小法廷は第二次再審請求の特別抗告を棄却した。この直前の2月13日、「ザ・スクープ スペシャル」(テレビ朝日)で、「見えない手錠をはずして! 狭山事件42年ぶりの真実」と題した特集が組まれ、冤罪説の立場から石川のロングインタビューなどが放送された。2006年5月23日、支援者と石川が東京高等裁判所に第三次の再審を請求した。2006年12月、石川は第18回多田謡子反権力人権賞を受賞した。石川は、現在も多くの支援者のもと、無罪を主張しつづけている。2010年5月13日、東京高裁、東京高検および石川の弁護側と三者協議が行われ、検察側は裁判所の証拠開示勧告を受けて、確定判決で殺害現場とされた付近の畑で農作業をしていた男性の捜査報告書や、石川が犯行を自白した際の取り調べ録音テープ9本などあわせて36点の新たな証拠を開示した。2015年1月23日、東京高検は、事件当時の捜査によって得られ、検察庁に保管中の279点の証拠品名の目録を1月22日付で開示した。石川直筆の葉書などが含まれていると見られる。東京高検による事件現場の航空写真112枚の開示を受け、弁護団が調査を始めたことが、2015年3月24日に報じられた。文字を覚えた時期について、当人は以下のように発言している。このように当人の発言はさまざまに推移しており、石川がいつ文字を覚えたのかは定かでない。逮捕前、歌好きの石川の手帳に漢字入りの流行歌の歌詞が書きつけられていたとの情報もある。なお自らの氏名については、少なくとも1963年9月6日付の関源三宛の手紙で既に正しく漢字で書きこなしていることが確認できる。1973年11月、新潟日報社内の過激派系の社員が「狭山事件の当初報道が、警察情報により、石川青年を真犯人としていたのは許せない」と編集局長たちを数回にわたり糾弾した。1964年、狭山裁判の一審当時に新潟日報が共同通信の配信記事を使ったのが突如約10年もさかのぼり問題にされたものである。過激派社員は「狭山事件の当初の報道が部落差別的でないというのなら、それを検討する場をつくれ。解放同盟の声を聞く機会をつくれ」と要求し、社内紛争に発展。1974年3月には19人の社員が譴責などの処分を受け、1974年6月には暴力事件で社側が告訴する事態に発展した。1974年5月16日、新潟日報上越支社で、狭山裁判の支援署名を取りに来た社員に対し、支社長が署名を保留しつつ「あの人たちの中に日本人以外の人が含まれているのか」と質問すると、「あの人たちは日本人か」という意味に取られ、部落解放同盟上越支部から糾弾を受けた。これを受け、6月28日、新潟日報社は編集局長名で「弁解書」を部落解放同盟上越支部に送付し、次のことを約束した。もともと新潟日報では、1970年6月、県教育界の堕落を批判した記事における「常識通じゃない特殊部落」との表現が部落解放同盟新潟県連から問題視され、糾弾に発展し、反省文の発表と社内研修会を経て、「部落」の語を「地区」と言い換えることが検討された経緯があった。1974年10月、部落解放同盟主催の部落解放研究全国集会にて、「新潟日報社における、マスコミ労働者が、かつての狭山報道を中心に、内部から、マスコミのあり方をただしている闘争は注目に値する」と過激派社員が高く評価された。1974年2月8日、読売新聞が西部本社版の紙面で東京高裁における狭山裁判の審理再開をとりあげた際、検察側の意見陳述を報道したところ、部落解放同盟の中間・遠賀地区協から抗議を受けた。この記事は、検察側の意見陳述としてと、事実を客観的に報じたものだったが、部落解放同盟の中間・遠賀地区協はと糾弾した。要は、狭山事件の報道にあたっては常に部落解放同盟の主張に沿った解説を付けよとの要求であった。中間・遠賀地区協は2月9日に電話で抗議するとともに、社側を事情聴取し、さらに遠賀町当局に「読売西部本社糾弾要綱」なる文書を4000部印刷させて闘争を開始した。この糾弾要綱はとの内容であった。6月8日には北九州市職員の同席のもとに糾弾会が開かれ、5時間にわたり吊るし上げがおこなわれ、自己批判、研修、協議制度など5項目の要求がつきつけられた。しかし思想改造や事前検閲制を要求する部落解放同盟に対し、読売新聞社西部本社は同意を拒否し、編集の自主性を主張した。この事件につき、小倉タイムスの瀬川負太郎は「これではまったく戦前、新聞社を襲撃した右翼の論理と変らないではないか。またこの通りにことが運べば憲法が保障した思想・信条の自由、言論・出版の自由、結社の自由は有名無実になってしまう」と部落解放同盟を批判している。1963年から1977年にかけ、6人の狭山事件関係者が変死している。さらにを加算し、変死者を12人と数える場合もある。ただし、青年TAについては身元を隠して千葉県に移住したことが確認されている。このことから、あたかも真犯人や真相を知る者が自責の念から自殺したかのように、あるいは口封じのために関係者を殺したかのように想像し、物証と取り調べ方法に関する不審点や差別問題を背景に冤罪説と結びつける向きもあるが、一連の変死と狭山事件との関係は何ら証明されておらず、憶測の域を出ない。特に1963年5月11日の目撃通報者の自殺については、亀井トムにより「自殺を偽装した謀略殺人」との説が唱えられたこともあるが、後には石川冤罪論者の半沢英一からも「この亀井トムさんの説は、根拠とする事実の認定からして間違っていました。例えば、T・Nさんの自殺当日に取られたT・Nさんの奥さんの供述調書が残っており、それによれば、T・Nさんは奥さんの眼前で、たしかに包丁で心臓をついて自殺しており、他殺でなかったことは確実です」と批判されるに至っている。亀井トムは被害者の日記における「夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。ふとんの中でもくやしいくやしい」(1963年4月27日)との記述を根拠として、財産分与をめぐる身内の犯行との説を唱え、部落解放同盟や殿岡駿星もこの説を踏襲した。亀井によると、被害者の父は「農家の子は男も女も中卒で充分。もし高校に行きたければ自分で働いて行け」との持論の持ち主で、長兄も次兄も夜間高校出身だったが、被害者は兄弟姉妹の中でただ1人昼間の高校に行った、高校に行けば知的になる、そうすれば財産の6分の1はもらいますよと主張するようになる、これは長兄にしてみると非常に困ることだった、という。一方、伊吹隼人は財産分与をめぐる身内の犯行との説を「なぜ高校に入学したばかりの少女を真っ先に殺害しなければならないのかの説明がつかない」と批判している。その後、上告審の段階から部落解放同盟は真犯人探しの推理を避けるようになった。狭山事件最新弁護団の依頼で石川冤罪論の立場から筆跡鑑定をおこなった半沢英一は、家族真犯人説を示唆する小説を書きつつ、「『狭山事件の真犯人』について私は、当時の警察の捜査が、思いこみによって非常に偏っていたことから、本質的な情報が収集されなかった可能性が高く、今となっては推定不可能だと考えています」と述べている。事件発生当時、石川の兄から相談を受けた遠藤欣一(狭山市議、日本共産党)の紹介で日本共産党系列の自由法曹団の弁護士(東京合同法律事務所の中田直人と橋本紀徳(としのり)。のち同事務所の石田享(すすむ)が参加)が石川の弁護人となり、日本国民救援会など、日本共産党の影響下にある団体が、極貧の石川家のために自費で支援活動をしていた。1963年に第1回部落問題研究者集会で中西義雄が狭山事件に触れたこともあるが、一審当時の石川は罪を自供していたため、部落解放同盟中央本部からは支援を受けられなかった(ただし中央本部とは別個に埼玉県連や群馬県連などが石川の家族を励ますとともに、埼玉県警捜査本部に抗議を申し立てたことはある)。1964年9月に二審が始まり、石川が無罪主張に転じた時、石川の弁護士の中田直人らは部落解放同盟中央本部を訪れ、支援を要請したが顧みられなかった。その後、1965年の同和対策審議会答申に積極的な評価を与える部落解放同盟と、否定的な評価を与える日本共産党の間で軋轢が生じる。1965年5月29日、東京高裁第2回現場検証に野本武一や清水喜久一ら埼玉や東京の部落解放同盟代表が参加。1965年10月5日、部落解放同盟第20回全国大会で、石川の無実を前提とする公正裁判要求の決議が出る。1968年10月6日、部落解放同盟は「狭山事件第1回現地調査」を行なったことを公表。1969年3月3日と3月4日、部落解放同盟は第24回全国大会で狭山事件支援の特別決議を採択し、「差別裁判」を盛んに主張するようになった。1969年7月10日、部落解放同盟が中央本部に石川青年救援対策本部を設置し、パンフレット「狭山事件の真相」を発行。これを受け、1969年11月、被差別部落出身の学生運動家の沢山保太郎らが「狭山差別裁判糾弾」を掲げ「浦和地裁占拠闘争」を開始。1970年3月13日、部落解放同盟第25回全国大会で「狭山差別裁判糾弾」の方針を決定。1970年5月18日、部落解放同盟が部落解放国民大行動に取り組み、狭山差別裁判反対を訴えて、6月17日まで日本全国を行進。1972年1月26日、部落解放同盟と協力関係にある日本社会党が第35回大会で狭山闘争支援を決議。このように、石川支援の軸足が日本共産党から日本社会党へ移るにつれ、一審における石川の弁護人の中田直人らは部落解放同盟から「差別弁護士」「日共系弁護士」という攻撃を受けるようになり、1973年には石川自身からも「日共系弁護士」と公然と非難され、1974年4月には、中核派機関誌『武装』誌上で石川から「三月公判に於ける弁護士の不誠意・斗魂のなさといいましょうか、勉強不足には耳をふさぎ目をそむけたくなる」と非難を受け、1974年10月の二審終了後、1975年2月には石川から解任され、と辞任声明を発表するに至る。なお、中田らの辞任に先立つ1970年には既に朝田善之助(部落解放同盟委員長=当時)の依頼で山上益朗が狭山弁護団に加わっていた。石川が中田直人らに不信感を抱くに至った事情について、石川の兄はと語っている。石川は、逮捕当時は文盲あるいはそれに近い状態だったと支援者から言われている(ただし裁判では文盲と認定されておらず、逮捕直後には既に克明な日記を書きこなし、その日記は後に『石川一雄獄中日記』として刊行された)。その後、石川は東京拘置所の看守の助けで必死で文字を学んだと称し、精力的に支援者への手紙や、短歌をしたためるようになった。1975年、第1回部落解放文学賞「短歌」部門で特別賞を受賞している。なお、石川を積極的に支援してきた部落解放同盟では、石川の実兄を埼玉県連合会の狭山支部長に迎えている。新左翼セクトの多くは、狭山闘争を沖縄闘争や三里塚闘争と並ぶ重要な闘争と位置づけた。とりわけ解放同盟は狭山闘争を重視し、行進や署名運動などを盛んにおこなった。そして、いわゆる「解放教育」でも、狭山事件を差別裁判であるとする内容が盛り込むようになっていった。解放子ども会や一部の学校などでは「差別裁判うち砕こう」の歌の授業や、「狭山同盟休校」(授業ボイコット)などが盛んに行なわれた。こういった形態での「狭山闘争」を、日本共産党などは「狭山妄動」として激しく非難した。全解連の機関紙「解放の道」によると、1970年7月、朝田善之助は水上温泉における部落解放全国青年集会(全青)で「証拠調べなぞいらん、差別性を明らかにしてやればよい」 と放言したこともあったという。その後、日本共産党は『赤旗』1975年1月11日付に論文「「一般刑事事件」民主的運動」を掲載し、と発言。後に『赤旗』1977年12月2日号と3日号で、日本共産党中央部落対策委員会の田井中一郎名義で見解を発表し、「解放同盟が支援活動を混乱させてしまった」と強く非難した。さらに、田井中はと主張し、狭山裁判の背景に差別があったことを疑った。また、「解同」が中核派、社青同解放派などのトロツキストと野合していると批判した。さらに、石川自身も解放同盟に与し、共産党を非難したとして、共産党系団体は支援活動から離れ、一審以来の弁護士も弁護団から離脱した。解放同盟らによる、狭山事件が「差別裁判」であるとする主張を受け、新左翼が支援に乗り出し、中核派などが解放同盟との結託を盛んに強めてゆく。このため、狭山闘争の集会では、「日共差別者糾弾」「反革命カクマル殲滅」といったアジテーションも盛んに行なわれてゆくようになった。このような流れの中で、社青同解放派による東京高裁長官室乱入事件や東京高裁判事襲撃事件が起きている。「寺尾と刺し違える覚悟」で法廷闘争に臨んだにもかかわらず有罪判決を宣告された石川は「そんなことは聞きたくない!」と激怒。1976年9月17日、反帝学評が「革命的鉄槌」と称して寺尾判事を襲撃すると、石川は「だれが私の無念を払って下さったんだろうかと思いつつ、感謝感激でありました」との感謝状を反帝学評に送り、テロ行為を賛美した。部落解放同盟はこの襲撃事件に対して全く無関係である旨を表明したが、「直接の関係がなくても、かれらと『連合』してきたのは否定できない」と指摘された。石川はこのほかにも獄中から中核派などの狭山集会にメッセージを寄せており、「『解同』朝田派とトロツキスト暴力集団を核にして、反社会的な方向へ転回していっている」と批判された。1974年9月13日、部落解放同盟は東京都知事(当時)の美濃部亮吉たちと会い、その席上で上杉佐一郎は「新左翼の学生については、好んでむかえているわけではないが、すべてに力を結集することが大切だから(狭山闘争に)参加させている」と発言した。しかしその一方で部落解放同盟は、狭山闘争における中核派や社青同解放派との結託を、1974年7月の中央委員会で「数千の戦闘的労働者、学生、市民との共同闘争の飛躍的前進」と讃えていた。このような新左翼と部落解放同盟との結託は、部落解放同盟と日本共産党との対立を激化させる原因のひとつとなった。また、新左翼陣営の内部でも中核派・ブント系・社青同解放派・民学同の間で主導権争いがおこなわれていた。ただし革マルは石川を「真犯人に酷似している石川」と呼び、石川冤罪説に対して距離をおく立場をとった。一方、日本共産党と連帯関係にある全国部落解放運動連合会(全解連)は、狭山裁判は差別裁判ではないとの立場をとった。同時に、いわゆる「解放教育」について、部落解放同盟などが推し進めている同盟休校は教育権の蹂躙であり、また保育園児にまで「石川兄ちゃんかえせ」「日共粉砕」などと叫ばせているとして、解放同盟を激しく非難した。部落解放同盟による「狭山同盟休校」は1976年から始まり、同年5月22日には日本全国19都府県連で1500校10万人の児童生徒が休校に参加した。この「狭山同盟休校」は1984年まで続いた後、「狭山集団登校」「狭山ゼッケン登校」として存続した。また、中核派系の部落解放同盟全国連合会(全国連)でも小中学生の「狭山集団登校」をおこなっている。大阪市内の「同和教育推進」小学校では、狭山事件の教材化が行われ、小学1年生の書き取り練習に解放歌「狭山差別裁判うちくだこう」の歌詞を書き写させる授業がなされた。また、学習の到達目標として、小学校1年生には「石川氏の無実の理由を2つ以上いえる」、2年生には「石川氏の無実の理由を3つ以上いえる」などの基準が掲げられた。このような取り組みはと批判を受けた。全解連の中西義雄は1976年発表の論文「部落解放の到達点と展望」で以下の見解を述べている。中西義雄によると、全解連が狭山裁判から手を引いた理由は以下の3つであるという。全解連の後身である全国人権連は、との見解を示し、石川が当初は起訴事実を認めていたこと、および石川が「反共の「解同」に与した」ことを非難している。また、人権連の事務局長で茨城県人権連書記長の新井直樹は日本国民救援会の見解に立ち、ブログの中で狭山事件を「えん罪事件」と呼んでいるが、人権連としては狭山事件について見解をまとめたことはない。1978年には、奈良県生駒郡の平群町立平群中学校で、「狭山裁判再審闘争」に生徒たちを動員しようとする部落解放同盟の要求をPTA会長と学校側が拒否。これを部落解放同盟が「差別事件」として生徒を「同盟休校」させ、同校の同和教育推進教員を解任させる事態に発展した(平群中学校事件)。狭山闘争の進め方をめぐり、新左翼と手を結ぶことを認めるか、拒否するかという点で対立があった。前者を代表するのが朝田善之助(部落解放同盟委員長=当時)、後者を代表するのが西岡智(狭山中央闘争本部事務局長=当時)であった。この対立の結果、西岡は事務局長を解任された。当時、朝田は「ああいう浦和地裁を占拠して火炎瓶を投げたり、とくに高校生を連れて行ってやるのは、まちがっている。しかし、若者にああいう過激な行動をやらしているのはわれわれだ。われわれがもっと先頭に立ってやらんから、若い連中がはねあがるんだ」と発言していたという。また、狭山同盟休校についても部落解放同盟側に立つ運動家の中で異論があった。1970年に師岡佑行らと「狭山差別裁判糾弾闘争に連帯する会」を組織した岐阜大学の藤田敬一は、「どうして子どもを闘わすのですか。もっと大人がやるべきことがあるじゃないですか。しかもこの闘争は行政闘争とは違って具体的な物的成果がない。成果としてあげられるのは、精神的思想的なものでしかない」と主張したが、「部落民でない君に何がわかるか!」と決めつけられ、狭山闘争から撤退した。その後、藤田は『同和はこわい考』(阿吽社、1987年)を書いて部落解放同盟の部落排外主義を批判したが、部落解放同盟中央本部からは1987年6月の第44回全国大会で名指しの非難を受け、「差別思想の持ち主」と指弾された。1975年5月27日には兵庫県養父郡八鹿町(現・養父市)で、1976年1月12日には兵庫県朝来郡朝来町(現・朝来市)で、1976年3月13日には兵庫県養父郡養父町(現・養父市)で、それぞれ住民有志が当時の町長を相手に神戸地裁で民事訴訟を提起している。請求の内容は、各町が部落解放同盟に交付した狭山闘争・朝来闘争・八鹿闘争等の糾弾闘争費等は公金の不正支出にあたるから返還を求めるというもので、1987年5月28日に3人の前町長たちが敗訴し、不正支出六百数十万円から千数百万円の返還を命じられた。裁判所は狭山闘争に関係する公金の支出について「普通地方公共団体の事務の範囲を越えた司法に対する越権であり、憲法秩序に反し公益を害するものとして違法」と指摘した。これに対し原告は、と評価した。狭山闘争費の内訳はバス借り上げ料、集会設備費、弁当代、公判の支部動員日当などであり、その金額は八鹿町関係で295万3487円、養父町関係で657万1000円に上った。その他、宮崎駿によるアニメーション映画『となりのトトロ』について「狭山事件をモデルにしており、トトロは死神の象徴。サツキやメイは実は死んでいる」との都市伝説もあるが、スタジオジブリは公式にこの説を否定している。いずれも死刑執行には至っていない。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。