サモトラキ島( / ; )は、エーゲ海北東部に位置するギリシャ領の島。行政上は東マケドニア=トラキア地方エヴロス県に含まれ、ギリシャ領トラキアの南端にあたる。サモトラケ島とも呼ばれ、「サモトラケのニケ」像の発掘地として知られる。古典ギリシア語ではサモトラーイケー( / )と呼ばれた。サモトラーケー、サモトラケーなどとも転記される。トルコ語ではセマーディレキ()と呼ばれる。ギリシャ=トルコ国境のわずか数キロの西方の海に浮かぶ。島最長部で17キロ、面積178平方キロメートル。島の最高峰はサオス山(フェンガリ山)で、これはエーゲ海の島々にある山の中では最高峰である。サモトラキは古代ギリシャでどの政治的権威を持つ国家にも属していなかった。それは、島に天然の港がなく、島の大半が山がちで生産性に乏しかったことが原因である。フェンガリ山は1,624メートルの高さである。しかし、サモトラキ神殿群の場所は、重要なヘレニズム・前ヘレニズム時代の宗教儀式のおこなわれる場所だった。神殿を訪問した人々の間から島は、スパルタの将軍リュサンドロス、マケドニア王ピリッポス2世、ユリウス・カエサルの義父コルネリウス・ピソらが崇拝する地となったのである。サモトラキに初めペラスゴイ人とカリア人が移り住み、のちにトラキア人たちが加わった。8世紀の終わりには島はサモス島支配からギリシャ植民地となり、「トラキアのサモス」という名前から「サモトラケ」と名前が変わった。紀元前508年に島はアケメネス朝ペルシアに奪われ、のち紀元前5世紀にデロス同盟の一員としてアテネ支配となった。ピリッポス2世に服従してから紀元前168年までマケドニア王国が宗主権を握った。ピュドナの戦いでサモトラキは独立し、この状態は紀元70年にウェスパシアヌスのローマ帝国に支配されるまで続いた。ビザンツ帝国は1204年まで島を支配し、その後ヴェネツィア共和国がサモトラキを獲得。1355年に一時ジェノヴァのガッティルージ家にヴェネツィアが追い出されたことがある。1457年、オスマン帝国が島を征服。1821年からのギリシャ独立戦争で住民の多くが対トルコ反乱に加わり、多くの人々が虐殺され人口を減らした。1913年、バルカン戦争の結果サモトラキはギリシャへ復帰した。第二次世界大戦中、短期間ブルガリアに占領された。主な産業は漁業と観光。島の資源には、花崗岩と玄武岩がある。サモトラキ市()は、東マケドニア・トラキア地方エヴロス県に属する基礎自治体(ディモス)である。サモトラキ市はサモトラキ島1島からなる。北西岸のカマリオティッサ港は、北ギリシャのアレクサンドルーポリとカヴァラとをフェリーで結ぶ。島に商業空港はない。島で最も有名な場所は、サモトラキ神殿群(ギリシャ語で"Hieron ton Megalon Theon")である。ここにはギリシャ神話の女神ニケを模した、全長2.5メートルの大理石像『サモトラケのニケ』があった。この像はフランスの考古学者シャルル・シャンポワゾーによって1863年に一部が発見された。現在はルーヴル美術館に収蔵されている。古代の都市遺跡はパレオポリ(旧市街)と呼ばれ、北岸にある。古代の城壁が残り、サモトラキ神殿群同様どっしりとしたサイクロピアン様式で建てられている。エレウシスの秘儀と対照的に、神話の儀礼が奴隷・自由民両方の参加で行われていたという。島のみどころは他にジェノヴァ要塞の跡、絵のようなホラの旧市街、いくつもの滝がある。
出典:wikipedia
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