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天王寺・岡山の戦い

天王寺・岡山の戦い(てんのうじ・おかやまのたたかい)は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣における最後の戦いである。5月7日(6月3日)未明、最後の決戦のため豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布いた。幕府方の軍勢は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始した。天王寺口は茶臼山に真田信繁、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら兵3,500、茶臼山前方に信繁寄騎の渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら兵2,000、茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら兵2,500、茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋(兵数不明)、四天王寺南門前には毛利勝永勢と、木村重成勢や後藤基次勢の残兵など6,500が布陣した。岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4,600が布陣した。茶臼山北西の木津川堤防沿いに別働隊明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊(計15,000?)が布陣した。茶臼山方面に前日の戦闘で損害を負った大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000を配したが、松平忠直勢15,000が抜け駆けをして大和路勢前方に展開し真田勢と対峙した。天王寺口先鋒は本多忠朝を大将とした秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5,500。二番手に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら計5,400。三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら計5,300。その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。さらに徳川義直(15,000)、徳川頼宣(家康本陣と同一か?)が本陣後備として布陣した。岡山口先鋒は前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢計7,500と細川忠興(兵数不明)。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明(兵数不明)が参陣していたといわれるが詳細不明。豊臣方はこの決戦にあたり、以下の作戦を採ることとしたといわれる。また、豊臣秀頼に出馬を請い、全軍の士気を高めようとした。正午頃、豊臣方毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方本多忠朝勢を銃撃した。これをきっかけに合戦が始まると、これまでに例を見ない兵力と火力がぶつかり合う戦場は混乱に陥った。毛利勢は、忠朝を討ち取り幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。本多勢の救援をしようと小笠原秀政、忠脩勢が駆けつけたが、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱後に死亡した。二番手榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱、これらの敗兵が雪崩込んだ三番手も同様の事態に陥ったことで家康本陣は無防備となった。真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の松平忠直勢と交戦していたが、松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回に渡って突撃を繰り返した。これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。三里も逃げた旗本がいたという混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる家康自身も切腹を口走り、文殊院勢誉に制止されたという(一説には平野方面に逃げたともいわれる)。しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。大和路勢や一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。信繁は安居天神で休息をとっていたところを討ち取られ、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷を負った。豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勢も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり城内に撤退した。別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると松平忠直勢に突撃した後姿を消した。徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃命令を出した。立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするのを、本多正信が大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はないと諫め止めたという。黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。旗奉行三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。大野治房は、敗兵を収容しつつ城内に撤退した。この間、後詰大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康、秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。この合戦において徳川方が苦戦したのは勝敗の帰趨を制するといわれる先鋒戦で徳川方が毛利勢に敗戦した為で、これは徳川方が包囲等の兵力の優位を生かした作戦を行えず、前線ではほぼ同数の戦闘であった事、そして豊臣方が野戦築城を構築し、そこへ徳川方が攻め寄せるという長篠の戦いや関ヶ原の戦いと同様の形態が行われた結果、徳川方先鋒は崩れ、そこに豊臣方が突撃したという流れが考えられている。他にもこれまで前例のない大軍(動員兵力では小田原征伐・文禄・慶長の役も匹敵するが一箇所で野戦を行ったという意味では本合戦が最大)による統率・機動の混乱、冬の陣から間を置かぬ再度の動員で幕府や諸大名の財政が逼迫する事を懸念した家康が早期決戦を急いだ事が挙げられる。無論、豊臣方の完全に後が無い事による自暴自棄ともいえる奮戦振りも、ここまで徳川方が苦戦した理由の一つに数えられる。家康の合戦の中で、人的被害(討死)が一隊の将にまで及んだのもこの合戦のみである。なお本合戦はその激しい内容とは裏腹に、正午の開戦から大坂方が総崩れしたのが15時という短時間で終結をしている(大坂城が炎上したのは16時)。

出典:wikipedia

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