榊原 清政(さかきばら きよまさ)は、戦国時代の武将。徳川家の家臣。榊原長政の長男。榊原康政の兄。別に孫十郎、七郎右衛門、政長。子に照久。松平元康(後の徳川家康)に仕えて侍大将となるが、病弱の為に弟の康政が陣代となる事が多かったという。後に家康の長男・松平信康の傅役となるが、信康自刃後、後悔の念により職を辞して隠居した。後年、平岩親吉と共に松平信康の供養の為、駿河に江浄寺を建立しているが、その後も体調を崩すことが多かったとされる。天正18年(1590年)、後北条氏が滅亡し家康が関東に移封されると、康政は上野館林藩10万石の藩主となり、それに伴い館林へ移住する。康政の没した慶長11年 (1606年)、武蔵忍城に冬の鷹狩りに訪れた家康は、病に臥す清政に使者を送った。清政は一度は辞退するも、再度の要請に応え、家康の居城駿府城の詰めの城でもある久能城(のちの家康墓所・久能山東照宮)の城代として、慶長12年(1607年)2月に久能城へ入城する。駿河有度郡に3,000石を領した。その後も家康は清政の病状を心配し、自ら久能城に見舞って5,000俵を与えるなどした。家康は直後の上洛の途上にも再度見舞っているが、清政は同年5月2日、62歳で没した。以降この家系が、交代寄合表御礼衆の榊原家として、代々久能山の管理を任される。
出典:wikipedia
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