武智 豊子(たけち とよこ、1908年8月25日 - 1985年7月18日)は、日本の喜劇人、映画女優である。晩年は「武知 杜代子」と改名している。本名は細江 ふじ、旧姓阿久津。一座を構えた浅草では小柄さとしゃがれ声から「女エノケン」と呼ばれ、映画では戦前の30代からのばあさん役で知られる。1908年(明治41年)8月25日、東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれる。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後、通っていた下谷の高等女学校を15歳で中退し、「曾我廼家五九郎一座」に参加、1925年(大正14年)に17歳で初舞台を踏む。その後、1929年に旗揚げした榎本健一(エノケン)の「カジノ・フォーリー」(浅草水族館2階)に参加、1931年旗揚げのエノケン・二村定一二人座長の「ピエル・ブリアント」に参加、角筈のムーランルージュ新宿座を経て、ふたたび「エノケン一座」に合流した。身長145センチの小柄さとしゃがれ声から「女エノケン」と呼ばれ、その当時はすさまじい人気で、東京六大学に「武智豊子親衛隊」ができたほどであった。1931年(昭和6年)にレコードディレクター細江徳二と結婚し、二女をもうける。1934年(昭和9年)、榎本健一主演の『エノケンの青春酔虎伝』で映画デビューする。また、1938年(昭和13年)6月、29歳のとき、前年オープンしたばかりの本所区錦糸町の江東劇場(江東楽天地、現在は墨田区江東橋4-27-14のリヴィン)で「武智豊子一座」を旗揚げした。翌1939年1月、エノケンとのデュエット盤『流行歌数へ唄』を発表。同年3月一座を解散。1945年(昭和20年)、36歳で終戦を迎える。戦後も映画、テレビで印象の強い名バイプレーヤーとして活躍した。若いときから老け役を得意とし、1950年代 - 1960年代には、日活撮影所と松竹大船撮影所を中心にフル稼働した。そのさなかの1962年(昭和37年)、夫・細江と死別する。1970年には、左卜全の『老人と子どものポルカ』のヒットを受け、上田吉二郎とのデュエット盤『上吉・豊子の…ハレンチ・アモーレ』をレコーディング、発表した。翌年上田は声帯を切除するので記録としても重要な音源である。1977年、翌78年に70歳を迎えるにあたり、姓名判断によって武知 杜代子(読み同じ)と改名。ちょうどTVアニメ『無敵超人ザンボット3』に、女優としてよく演じていた役柄とは異なる、乙女心も忘れない“可愛いおばあちゃん”の声でレギュラー出演していた時期で、同番組のキャストクレジットにおいては、第4話までが旧芸名、第5話からは新しい芸名となっていた。1985年(昭和60年)7月14日、仕事先の釧路空港で心臓発作に倒れ、7月18日、心不全のため釧路市内の入院先、谷藤病院で死去。76歳没。浅草寺境内の「喜劇人の碑」に「武智豊子」の名を残す。また、武智のレコード音源は2曲ともCD化されている。
出典:wikipedia
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