ヘンリー・ラモン・ブランコ(Henry Ramón Blanco, 1971年8月29日 - )はベネズエラ・カラカス出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。現在はMLB・シカゴ・カブスのコーチを務めている。オフには、母国ベネズエラのリーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルのブラボス・デ・マルガリータで監督を務めている。にロサンゼルス・ドジャースに入団した。7月25日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャーデビューを果たす。はメジャーでの出場機会がなく、10月15日にFAとなった。1998年12月18日にコロラド・ロッキーズと契約。12月13日、ロッキーズ、オークランド・アスレチックス、ミルウォーキー・ブルワーズ間の三角トレードでブルワーズへ移籍。3月20日にポール・バコおよびホセ・カブレラとのトレードで、アトランタ・ブレーブスへ移籍。10月31日にFAとなった。2003年12月18日にミネソタ・ツインズと契約。、正捕手だったA.J.ピアジンスキーが前年のシーズン終了後にサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍していたツインズは、新人のジョー・マウアーを開幕戦で先発出場させた。しかしそのマウアーが2戦目で故障し約50試合を欠場したため、ブランコが代役として先発出場するようになった。マウアーは6月2日にいったん復帰したが7月15日を最後に再び離脱し、そのときもブランコが代役を務めた。この年は最終的に自身最多の114試合に出場し、盗塁阻止率.492と高い数字を残してマウアーの穴を埋めた。オフの10月28日にFAとなった。2004年12月8日にシカゴ・カブスと契約。開幕前の3月に第1回WBCのベネズエラ代表に選出された。同大会では1試合に出場。同大会について「とても楽しい時間を過ごせた。(中略)国を代表することは何にも代えられない特別な気持ちになる。また代表になれたら最高だ」と言及している。オフの10月31日にFAとなったが、11月15日にカブスと再契約した。は、若手有望株ジオバニー・ソトの教育係としての役割も期待されていた。オフの10月31日に球団が300万ドルのオプションを破棄したため、FAとなった。11月30日に母国ベネズエラで兄カルロスが誘拐され、身代金を要求される事件が発生。翌12月1日には、射殺遺体が発見された。1月21日、サンディエゴ・パドレスと1年75万ドルで契約。開幕前の3月に第2回WBCのベネズエラ代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。オフの11月5日にFAとなった。2009年12月4日にニューヨーク・メッツと1年150万ドルで契約。11月1日にFAとなった。2010年12月17日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと1年100万ドルで契約。11月2日に球団が115万ドルのオプションを破棄し、FAとなったが、翌日の3日にダイヤモンドバックスと1年120万ドル(2013年のオプション付き)で再契約した。10月31日に球団が124万ドルのオプションを破棄したため、FAとなった。1月11日、トロント・ブルージェイズと1年75万ドルで契約。6月7日にDFAとなり、6月11日にFAとなった。2013年6月14日にシアトル・マリナーズと契約した。10月8日にDFAとなり、10日にマイナー契約を拒否したためFAとなった。2013年12月13日にダイヤモンドバックスとマイナー契約で合意したが、3月31日に現役引退を発表し、ダイヤモンドバックスのコーチに就任した。また、この年のオフから母国ベネズエラのリーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルのブラボス・デ・マルガリータで監督を務める事となった。シーズンからは、カブスでクオリティ・コントロールコーチを務める。ポジションは捕手で、他に一塁手・三塁手・左翼手としてのプレイ経験がある。典型的な守備型の捕手で、特に強肩で知られており、3割台で御の字と言われる盗塁阻止率もかなりの高水準にある。また、リードやキャッチングが巧く、捕逸も少ない。ブレーブス、カブス時代はグレッグ・マダックスの専属捕手を務めたこともあり、リードには定評がある。
出典:wikipedia
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