寛仁親王(ともひとしんのう、1946年(昭和21年)1月5日 - 2012年(平成24年)6月6日)は、日本の皇族。三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第一男子。今上天皇の従弟、麻生太郎元内閣総理大臣の義弟にあたる。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は柏(かしわ)。勲等は大勲位。称号 (現学位)は政治学士(学習院大学)、鈴鹿国際大学名誉客員教授。そのほか名誉学位として名誉博士(アンカラ大学)の称号を有する。髭をたくわえた容貌から、「ヒゲの殿下」の愛称で知られていた。皇統譜上の記載は「寛」の旧字体である「寛に『、』が付く字」であるため、政府による公式表記及び本人の著述活動においては旧字体が使用されるが、報道等では新字体で表記されることも多い。生前の住居(寬仁親王邸)は、東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内。2013年7月31日より旧寬仁親王邸は三笠宮東邸と称されている。姉に近衛甯子、弟に桂宮宜仁親王と高円宮憲仁親王、妹に千容子がいる。1946年(昭和21年)1月5日、神奈川県葉山町の三笠宮御假寓所(三井家別荘)にて、三笠宮崇仁親王と百合子妃の第一男子として誕生した。聖心女子学院幼稚園、学習院初等科、学習院中・高等科を経て学習院大学へ入学した。父の三笠宮崇仁は放任主義で子供の頃は勉強をしろと言われたことがなかった。初等科では下駄箱は特別室に設けられ、「トモちゃん」と口にした友人は、教師から「何事だ!宮様と呼べ!」と怒鳴られた。スキー、ソフトボール等の運動に熱中した。小学校4年から始めたスキーは高校二年次にスキーバッジテスト1級を取得した。学業の成績は「メチャクチャに悪かった」。応援団に入り、三年次には団長を務めた。応援団での威厳をつけるため、ヒゲは二年次に鼻の下だけ、三年次に顎ヒゲも伸ばし始めた。当時の学習院高等科にはヒゲに関する校則はなかった。1977年(昭和52年)4月1日放送の『徹子の部屋』に於ける自身の発言によると、高校生になるとチンピラのように振る舞い、高校1年生あたりからタバコを喫煙し、飲酒に至ってはさらに若い頃から始めていた。1966年(昭和41年)1月、成年式に伴い大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。同年9月15日に愛車のプリンス・スカイラインGT-Bを運転して渋谷区神宮前の表参道を運転してした寬仁はUターンしようとしてオートバイをはねた。オートバイを運転していた住み込み店員が左大腿骨骨折で全治半年の重傷、後部座席に乗っていた少年も軽症を負った。人身事故を起こした場合は運転をやめると母親と約束しており免許を返納した。1968年(昭和43年)、学習院大学法学部政治学科を卒業した(政治学士)。同年4月から1970年(昭和45年)8月までの2年間半、イギリスのオックスフォード大学モードリン・コレッジに留学。遊学は父や秩父宮妃の勧めによった。モードリンは秩父宮雍仁親王が在籍した学寮でもある。留学当初は「ハウ・ドゥ・ユ・ドゥー」と「サンキュー・ベリー・マッチ」しか理解できなかったが語学学校Godmer House Schoolに三ヶ月通いコレッジに移って後は週に一度の論文を「十あるとしたら六が七くらいの力で」すませ「残りは人と付合うことに費やした」。保証人はケズウィック家のジョン・ケズウィックであり、麻生家も世話を焼いた。イギリス滞在中にはエリザベス2世に招かれバッキンガム宮殿でエディンバラ公フィリップ、チャールズ皇太子、アン王女の臨席で対面している。欧州滞在中のうち6ヶ月はスイスとオーストリアでスキーをしていた。1970年1月5日の24歳の誕生日にロンドンの大使公邸において仮装パーティーを開いた。明治天皇に似ているから大元帥服を着ろと友人に促され、父に騎兵将校の制服を送ってもらいこれを着た。日本の一部新聞がこれを批判的に報じた。また、駐車違反の罰金の督促を受けてもこれを払わなかったため逮捕状が出された。学位を取得せずに日本に帰国し、1970年(昭和45年)から1972年(昭和47年)には、札幌オリンピック組織委員会事務局職員として働き札幌に住んだ。初任給は4万1千7百円だった。1975年(昭和50年)には、沖縄国際海洋博覧会世界海洋青少年大会事務局に勤務した。伯父の高松宮宣仁親王の影響を受けて早くから障害者福祉やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。特に障害者がスポーツへの取り組みを通じて社会参加することを促すため、自らも指導にあたり、社会福祉法人「ありのまま舎」(仙台市にあるバプテスト系の筋ジストロフィー障害者福祉施設)の活動に見られるように施設の運営などにも関与し、講演や著述を通じて啓発活動に取り組んだ。また英国留学を機に国際親善にも強い関心を持ち、日英協会名誉総裁をはじめ、諸外国との交際にも意欲的に取り組んだ。1975年10月28日には午前1時から2時間、ニッポン放送において深夜の生放送でディスクジョッキーを務めた。スタジオで横に番組ディレクターが座り次々につくるウィスキーのオン・ザ・ロックを飲みながら、皇室、自身の身の上話、福祉の話などを音楽を交え二時間に渡り喋った。放送を聞いていた弟の憲仁からは、二時以降は呂律が回っていなかったと指摘された。放送の中で、自身の皇位継承順位が7位であるという数字を気に入っているから、皇后美智子はもうこれ以上男子を産まないでくれと口にした。黒柳徹子から、宮内庁職員は番組についてなんと言っていたのかと尋ねられて、「別にもう・・・諦めてるんでしょうな、おれのことについては」と答えている。皇族としては表に出る機会が多く、東アジア反日武装戦線は寛仁を暗殺者リストに入れて行きつけの理髪店、レストラン、画廊等を調べあげており警備が強化された。皇族としての制約の多さに苛立ち、1982年(昭和57年)に「皇籍離脱発言」をして世間を騒がせた。これについて天皇は会見において、「国民の皇室に対する期待がどのようなものなのかを十分に把握して、その期待に沿うように努力するように望む」とコメントした。2012年(平成24年)6月6日15時35分、多臓器不全のため薨去。。薨去時の皇位継承順位は第6位だった。1990年代から、癌、アルコール依存症をはじめとする疾病に悩まされていた。1991年(平成3年)1月に食道癌の手術を行った。1995年(平成7年)までに舌の付け根・首のリンパ節・喉など6回のガン手術を行い、その闘病経験を1999年(平成11年)に闘病記『癌を語る』として出版された。2006年(平成18年)9月16日には洗顔中に転倒し顎を骨折した。またアルコール依存症により入退院を繰り返していた(2010年(平成22年)1月8日、5度目の入院)。入院してからも入院先の病院から公務に出席しており、いわゆる「ふてくされて出てこないのか」発言など行動力と鋭い舌鋒の健在ぶりを見せていた。当初入院は1か月の予定であったが、3週間で退院した。同年10月20日には米誌とインタビューを行えるほどに回復した姿を見せた。しかし、咽頭癌が見つかったことから、2008年(平成20年)3月に再び手術を受けた。この時は声を残す方向で手術が行われたが、飲み込みが上手くいかず、4月には肺炎を発症し再入院した。この際、喉の一部を塞ぐ手術を行ったが、それが原因で声帯を震動させる空気の出口が塞がれ、声を失った。公務の際には、電気喉頭を首に当てて会話を行っていた。2010年(平成22年)8月19日には不整脈の治療で入院、更に9月の定期検診で新たな咽の癌が発見されたことから12月14日に内視鏡手術を受けることとなった。2011年(平成23年)2月には肺炎で入院。同年7月8日には中咽頭上皮に見つかった癌の切除手術のため入院している。1991年(平成3年)以降、癌に関連する手術や治療を受けるのはこれで14回目であった。2012年(平成24年)1月には咽喉に腫瘍が見つかり、財団法人佐々木研究所附属杏雲堂病院(当時)にて1月10日、腫瘍と周辺のリンパ節の摘出、及び欠損部への腹部からの移植処置を伴う手術を7時間半に亘り受けた。術後に細胞組織検査を行った結果、寛仁親王の病状が『咽喉癌の再発と見られる』と医師団から発表された。3月には、食事の障害になっていた喉の軟骨の除去手術を受けた。同年6月、喉から2回出血し輸血の必要性があった事が、4日明らかになった。翌5日、宮内庁は腎臓や肺、肝臓の機能が低下状態にあり、意識レベルが低下していると発表した。2012年(平成24年)6月6日15時35分、入院先の東京都千代田区の公益財団法人佐々木研究所附属杏雲堂病院にて、66歳で薨去。同日の宮内庁の会見で、死因は多臓器不全であると発表された。1991年(平成3年)1月のガン発見から21年間。ガンの手術や治療は計16回を数えた。存命時は、結婚を機に独立の生計を立てていたものの、父宮(三笠宮崇仁親王)の嗣子としていずれ三笠宮を継ぐものとされていたことから、宮号は賜わなかった。「○○宮 ××さま」という表現が報道においてしばしば使われたが、宮号は一般国民の「氏」のように同一戸籍内の家族すべてに適用されるものと異なり、当主のみに与えられるものであるため、当主以外に「○○宮」と冠することは本来正しくない。同様の誤用は悠仁親王をはじめ他の皇族に対する報道にも見られる。2001年(平成13年)12月におこなわれた長女彬子女王の成人に伴う記者会見において全国紙が彬子女王を「"三笠宮寛仁さまの長女彬子さま"」と記載したことに関し、寛仁親王は自身が総裁を務める日本職業スキー教師協会の広報誌の「総裁コラム」において、「私は、『三笠宮』(父の宮号)では無く、『寛仁親王』であり、彬子は身位が『女王』で、敬称は『殿下』でなければなりません。従って正しくは、『寛仁親王殿下の第一女子彬子女王殿下には……』となるべき」と記した。また、柏朋会の会報『ざ・とど』でも冗談を交えつつ、「『三笠宮寛仁親王』でなく『寛仁親王』が正しい」と書いている。1947年(昭和22年)10月14日に11宮家が離脱する前までは宮家の数が多く、現在の寛仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下ではこの呼称はほとんど用いられない。なお、政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では寛仁親王に限らず皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寛仁親王」(妃の場合は「寛仁親王妃信子」)とされ、「三笠宮」が冠されることはない。しかしマスメディアでは「わかりやすさ」を図るために「(昭和天皇の弟の崇仁親王の創設した)三笠宮家の寬仁さま」と報道されることがある。なお、三笠宮本家からは独立の生計を営んでおり寬仁親王が当主を務める「寬仁親王家」として他の宮家に准ずる扱いを受けていた。寬仁親王の薨去に伴い、当主不在の状態が続いていたが、2013年(平成25年)6月10日に宮内庁は薨去にさかのぼり親王家を廃止すると発表した。従来の慣例では、寬仁親王妃信子が当主を継承することになるが、長年別居が続いており寬仁の死後も娘たちと同居していなかった。寬仁親王邸の名称も、「三笠宮東邸」と改称された。憲法上の制約もあり、天皇および皇族が女系天皇の是非について自らの意見を公にする機会は限られている。寛仁親王は自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」(はくほうかい)の会報『ざ・とど』で、公なものではない私的な見解と前置きした上で、女系天皇についての見解を表明した。この機関紙は市販されていない。この中で、女系天皇に明確に反対し、旧皇族の皇籍復帰などを求めた。寛仁親王は、「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇を容認する意見を批判し、また「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張した。寛仁親王は男系継承を維持するための方法としてを挙げた。その上で、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません。国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結び、女系天皇容認の動きに反対する意見を述べた。また、2006年(平成18年)1月3日付の毎日新聞、雑誌『文藝春秋』2006年(平成18年)2月号のインタビューでも同様の見解を表明している。殊に後者では、小泉純一郎首相や有識者会議が女系天皇容認の方針なのは今上天皇の内意を受けてのことではないのかという噂について、「ご本人に直接確認してはいないが、あの慎み深い天皇様が女系天皇や長子優先継承に賛成なさるはずはない。噂は事実無根の臆測だろう」と天皇の真意を忖度した。また、非公式ながら「父殿下、母妃殿下をはじめとして皇族には改正に反対論を唱えている人が多い。少なくとも三笠宮家は全員反対だ」ということもコメントしている。信子妃との間には二女がいるが、男子がいない。上述の通り、当主寛仁親王の薨去を根拠に寛仁親王家は廃止され、信子妃並びに彬子女王、瑶子女王は三笠宮家の一員となっている。
出典:wikipedia
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