第一次サウード王国(アラビア語表記で)は、1744年にアラビア半島に建設された王国である。が唱えるワッハーブ派の運動の普及のため、ナジュドの豪族出身であるが軍事的・宗教的にキャンペーンを起こした。王国の性格からワッハーブ王国ということもある。主君はワッハーブ派イマームを兼ねる。王国の版図は、初めはナジュドに限定されていたが、東は現在のクウェートからオマーンの国境にまで及んだ。また、北にはイラクやシリアの国境近くまで広がり、1801年にシーア派の聖地であるカルバラーおよびナジャフを陥落させたことで頂点に達した。この時、アリー・イブン・アビー=ターリブの墓所などシーア派の多数の聖地が破壊され、シーア派住民も虐殺された。1802年、王国の軍隊はヒジャーズ地方に進出を開始し、イスラームの2大聖地であるメッカとマディーナを陥落させた。両聖地の陥落は1517年以来、聖地の守護者を自認していたオスマン帝国に衝撃を与えた。また、イスラム原理主義であり聖者崇拝などを認めないワッハーブ派により、聖地メッカにおいて多数の廟が破壊されたため、それ以外の宗派から反感をもたれることになる。オスマン帝国は、エジプト総督ムハンマド・アリーにサウード王国を滅ぼす攻撃命令を下した。ムハンマド・アリーは軍隊を率いてヒジャース地方に殺到し(、、、、)、1813年1月には聖地メッカの奪還に成功した。1817年、ムハンマド・アリーの子供であるイブラーヒーム・パシャは、軍隊をナジュドへと進めた ()。1818年4月、首都ディルイーヤを包囲した。首都でのは数ヶ月に及んだが、9月18日にエジプト軍の勝利に終わり、サウード家とワッハーブ運動を展開した主要メンバーは、エジプトやあるいはオスマン帝国の首都イスタンブールへ連行された。ディルイーヤは徹底的に破壊されたため、現在は王国が存在した当時の面影は存在しない。最後のイマーム、は、後にイスタンブールで処刑され、その首はボスポラス海峡に捨てられた。こうして第一次サウード王国は滅亡したが、ワッハーブ運動の火種はアラビア半島に残っており、サウード家の生き残りとともにリヤドに本拠地を移し、第二次サウード王国を建設する(1824年から1891年まで存続した)。第二次サウード王国の滅亡後は生き残った王子が再び王国を再建し、1931年に国王に即位し、現在のサウジアラビアとなっている。このため、サウジアラビアは第三次サウード王国と見ることもできる。
出典:wikipedia
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