西上作戦(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。武田信玄は戦国期に天文10年代から信濃侵攻を行い、駿河の今川氏・相模の北条氏と三国同盟を結び越後国の上杉謙信と対決し北信一帯まで領国を拡大した。一方で尾張国の織田信長は永禄年間までには尾張を統一し、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いにおいて駿河の今川義元を打ち取り、美濃への侵攻を行っていた。武田氏では川中島の戦いを契機に上杉氏との抗争が収束し、駿河では当主交代による領国の動揺で三河の松平元康(徳川家康)が独立し、独自勢力として台頭した。こうした情勢のなかで武田・織田両氏は領国が接しはじめた永禄年間から外交関係が見られ、当初は武田氏では今川氏の当敵である織田氏に対して敵対を示しているが美濃情勢への積極的介入は行わず中立的立場をとっている。今川氏の当主交代後も武田と今川は同盟関係を継続しているが徐々に関係は悪化し、永禄8年(1565年)には今川当主氏真妹を室とする武田氏の嫡男義信が謀反により廃嫡される事件が発生している(義信事件)。義信の廃嫡により武田氏の世子は信玄庶子の諏訪勝頼(武田勝頼)となるが、この前後には信長の養女(信長の妹婿・遠山友勝の娘)が勝頼正室に迎えられており、武田・織田間では関係改善が図られている。永禄10年(1567年)に松姫(信松尼・信玄の6女)と織田信忠(信長の嫡男)を婚約させることで同盟を維持していた。一方、武田・織田両氏と京都権門の関係では、武田氏では越後上杉氏との抗争において将軍義輝からの紛争調停を受けており、永禄年間には本願寺との関係も強めている。一方、織田氏では永禄11年(1568年)9月26日に信長が将軍足利義昭を奉じて上洛を果たし両者は連携しているが、永禄13年(1570年)1月に信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟を義昭に突きつけて強制的に承認させた。これにより信長に不満を抱いた義昭は、信玄をはじめ本願寺顕如・朝倉義景・三好三人衆らに信長討伐を命じる御内書を発しているが、信玄は織田氏との関係上これには応じていない。永禄11年(1568年)に武田と今川氏は手切となり、武田氏は三河の徳川家康と共同し駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。駿河侵攻は武田と相模後北条氏との甲相同盟も破綻させ、後北条氏では越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国に圧力を加え、さらに武田は徳川氏とも今川領国割譲をめぐり対立関係となった。武田氏の駿河侵攻に際して、信長は同盟関係にある家康に武田との協定再考をもちかけているが家康は独自勢力として動いており、信玄は信長を通じて将軍足利義昭を介した越後上杉氏との和睦(甲越和与)を行っている。元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉義景の討伐のため越前遠征を行うも妹婿・浅井長政の裏切りにより大敗する(金ヶ崎の戦い)。これを皮切りに、各地の反信長勢力が決起し第一次信長包囲網が形成される。この後、姉川の戦いや野田城・福島城の戦いが行われるも、まだ信玄に動きは見られなかった。しかし、同年12月、信玄の義理の弟にあたり、信長包囲網の一角も担っていた顕如より援助を要請する書状が送られている(また翌年5月には大和の松永久秀からも同様の書状が送られている)。元亀2年(1571年)10月の北条氏康の死によって甲相同盟が再締結されたため、武田氏は駿河を確保し、三河徳川領国への侵攻も可能となった。元亀3年(1572年)8月には、上杉謙信を牽制するため、武田信玄は顕如に要請して越中で一向一揆を起こさせた(越中一向一揆)。このときの越中一向一揆は大規模なもので、勝興寺顕栄・瑞泉寺顕秀ら本願寺坊官のほかに椎名康胤ら越中の大名も参加して謙信に敵対した。このため、謙信は一揆の鎮圧にかかりきりとなり、武田領に侵攻するような余裕は無くなった(さらに西上作戦を行った時期は雪が国境を塞いでしまう)。信玄は同年10月には浅井・朝倉両氏に信長への牽制を要請し、三河徳川領国への侵攻を開始している。元亀3年(1572年)9月29日、武田信玄は重臣の山県昌景と秋山虎繁(信友)に3000の兵力を預けて信長の同盟者である徳川家康の領国である三河に侵攻させた。そして10月3日、信玄も2万2000の兵力を率いて甲府から出陣し、10月10日には青崩峠(または兵越峠)から家康の所領・遠江に侵攻を開始した。三河に侵攻した山県昌景は新たに指揮下に組み込んだ北三河の国人領主で、“山家三方衆”とも呼ばれる田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼正貞に道案内(実際には貞勝の代将が奥平貞能、正貞の代将は菅沼満直)をさせて浜松方面へ進軍し、長篠城の南東に位置する鈴木重時の柿本城を攻撃した。柿本城から逃れる重時を逃亡途中で討ち果たした山県勢は、さらに越国。遠江の伊平城を落として11月初旬、二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流した。一方東美濃では同年5月に遠山七頭と呼ばれて勢威を振るった岩村城城主遠山景任が病いで亡くなったため、その跡継ぎとして信長は実子の坊丸(織田勝長、当時3歳)を養子として軍勢とともに送り込み、実質的には景任の未亡人であった信長の叔母・おつやの方が女城主となり統治を行っていた。しかし信玄出陣を知ると10月中に織田の軍勢を追い出して武田家に寝返ってしまい、11月14日に信玄は配下の下条信氏を派遣して岩村城を接収した。このことは『三河物語』にも「信玄は上方へ手引きをする者がいたので三河から東美濃へ出ることにした」と記述されている。そして同年12月には上村合戦がおつやの方と他の遠山諸氏との間に行われている。この時、延友佐渡守は岩村城が武田方になったにも関わらず忠節を尽くしたことを信長に賞され、に美濃国日吉郷・釜戸本郷を与えられた。そして遠江に信玄本隊が侵攻すると、北遠江で勢威を振るっていた家康の与党・天野景貫は信玄の勢威を恐れて即座に降伏し、信玄の道案内を務めた。10月13日、信玄は本隊を2隊に分け、5000ほどの1隊を重臣の馬場信春に預けて只深城を攻略させて二俣城に進撃させ、残る1万7000の信玄本隊は天方城・一宮城・飯田城・挌和城・向笠城など北遠江の徳川諸城をわずか1日で全て落とした。徳川家康としては、三河からは山県昌景が侵攻しているためにここの兵力は動かせず、遠江の兵力である8000だけで対抗するしかなかった。武田軍の半数以下である。しかし信玄の侵攻に対してこのまま動きを見せなければ味方国人の動揺は必至と見て、10月14日に家康は信玄と戦うべく出陣した。しかし太田川の支流である三箇野川や一言坂で武田軍と衝突した徳川軍は、兵力の多寡により敗退する。しかし家康の重臣・本多忠勝や大久保忠佐らの活躍もあって家康は無事に浜松城に撤退した。このときの本多忠勝の活躍は、信玄をして感嘆させるものであったと伝えられている。10月15日、信玄は匂坂城を攻略した。10月16日にはすでに只深城を攻略して二俣城を包囲していた馬場信春の部隊と合流した。二俣城は遠江の中央部に位置する要衝であった。しかもその名前の如く、天龍川と二俣川が合流する二俣の丘陵上に築かれた堅城であった。城主の中根正照は兵力で圧倒的に不利な立場でありながら徹底抗戦を行ない、武田軍を苦しめた。しかし信玄の策略によって行なわれた水攻めにより水の手が断たれ、さらに三河に侵攻していた山県昌景の部隊が信玄本隊に合流するなどした。11月下旬、織田に「武田軍が二俣城を囲んだ」という報が届いた(信長公記)。信長はすぐに佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを派遣した。12月19日に正照は城兵の助命を条件にして開城し、浜松城に落ちていった。これにより、遠江の大半が武田領となり、また遠江の国人・地侍の多くも武田軍の味方となった。織田の援軍が到着した時、二俣城はすでに落ちており、武田軍は堀江城を攻めていた(信長公記)。信玄は信長と戦うまでは兵力の損耗や長期戦を嫌った。家康の居城・浜松城は東西420メートル、南北250メートルに及ぶ巨郭であり、多くの曲輪に仕切られた堅城であった。さらに徳川方には佐久間信盛・平手汎秀ら織田の援軍3000(織田軍記)~2万(甲陽軍鑑)が合流し、総勢1万1000~2万9000に増加していた。このため、信玄は浜松城の北5キロの地である追分に進出して家康を挑発して城から誘き出した。そして12月22日に行なわれた三方ヶ原の戦いは、連合軍不利な状況で開戦され、わずか2時間で武田軍の一方的な圧勝で終わった。武田軍の死者はわずか200人。連合軍は平手汎秀をはじめ、中根正照・青木貞治・石川正俊・小笠原安次・小笠原安広(安次の子)・本多忠真・米津政信・大久保忠寄・鳥居忠広ら2000が死傷するという状況であった。このとき、家康は山県昌景の猛攻を受け、家臣の夏目吉信が身代わりとなっている間に命からがら浜松城に逃げ込んだといわれ、しかも恐怖のあまり脱糞したと伝えられている。しかし家康の使った空城の計に疑念をもった山県昌景らは、浜松城までは攻撃しなかった。三方ヶ原で大勝した武田信玄であるが、すぐには三河に侵攻せず、浜名湖北岸の刑部で越年した。刑部は三河・遠江国境から20キロ手前に位置する地点である。信玄がなぜすぐに三河に侵攻しなかったかは不明である。家康の浜松城の牽制のためともいわれるが、三方ヶ原の戦いで大敗した家康に信玄と戦えるような余裕は無いはずである。恐らくは信玄の持病が悪化していたためか、あるいは味方であった朝倉義景が越前に撤兵したためではないかとも推測される。年が明けて元亀4年(1573年)1月3日、信玄は進軍を再開、遂に三河へ侵攻した。そして東三河の要衝である野田城を包囲する。野田城は小規模な城であり、わずか400ほどの城兵しかいなかった。城主の菅沼定盈は信玄の降伏勧告を拒絶して徹底抗戦を行なったが、武田の大軍2万7000に対抗できるはずがない。しかし、信玄は野田城攻めは力攻めで行わず、金堀衆に城の地下に通じる井戸を破壊させるという水攻めを行なった。なぜ、信玄がこのように時間のかかる城攻めを行なったかは不明であり、野田城が水の手を断たれて降伏するのは2月10日のことである。野田城攻城戦に時間がかかった理由は、信玄の持病(肺結核、胃癌、甲州における風土病である日本住血吸虫症などの説あり)が急速に悪化したためとされるほか、松平記では信玄が野田城を包囲している際に美しい笛の音に誘われて本陣を出たときに鳥居半四郎なる者に狙撃されて負傷したという説などがある(黒澤明の映画影武者ではこの説にならっている)。このような信玄の遅々とした動きに疑念をもった織田信長は、2月から反攻に転じる。重臣の柴田勝家や丹羽長秀・蜂屋頼隆・明智光秀に命じて2月26日に近江石山城の山岡景友を降伏させ、2月29日には今堅田城の六角義賢らを討った。甲陽軍鑑によると、このような信長の動きを知った信玄は、3月に重臣の馬場信春に命じて東美濃に侵攻させて、信長が率いる織田勢を破って岐阜城に追い払ったとされている。ただし上記の通りこの頃の信長はまだ武田を攻撃する動きは見せていないため、甲陽軍鑑の記述は辻褄が合わない。しかし信玄の持病は良くならず、4月には病気療養を目的にして甲府への撤退を決意する。しかし4月12日、信玄は信濃駒場で急死し、西上作戦は頓挫することとなったのである。森田善明は、武田軍の北上は撤退ではなく、当初計画通りの神坂峠からの美濃侵攻が狙いであったとの説を唱えている。西上作戦をめぐっては上洛を前提とした意図であるのかが論点となっている。文書上においては足利義昭の信長討伐の御内書や『伊能文書』では織田信長を討つ好機であると述べているなど畿内勢力に対して上洛を喧伝していたことが指摘されており、『甲陽軍鑑』においては「遠州・三河・美濃・尾張に発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政(まつりごと)をただしく執行(とりおこな)はんとの、信玄の望む是なり」と、信玄の目的が信長包囲網の形成に基づいた上洛であったとものとしている。一方で、西上作戦時点での信玄の狙いは上洛ではなく、遠江・三河平定であるという説もある。これは長年徳川家と続けていた局所戦闘の延長であり、畿内勢力への上洛の喧伝は政治工作であるとするものである。もっとも、西上作戦の本質が徳川家との局地戦闘であったとしても、織田信長が徳川家との同盟関係を破棄しない場合には、中央の動向と深く関わる形で信長との対決も迫られていく側面もあった。元亀年間の武田氏による遠江・三河侵攻の意図を巡る評価については研究史があり、主に上洛説・遠江領国化を目的とした局地戦説に別れて所論が展開されているほか、2007年には鴨川達夫により元亀2年の三河・遠江侵攻の根拠とされた文書群の年代比定に関する誤りが指摘され、通説による武田氏の三河・遠江侵攻は西上作戦に際したものではなく、勝頼期の天正3年(1575年)の長篠の戦いの直前にあたる出来事であったことが指摘されており(鴨川『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007)、一定の承認を得ている。鴨川の指摘を受けて近年では元亀3年以降の遠江・三河侵攻に関しても再検討が行われ、従来の信長包囲網に基づく上洛・局地戦説の視点だけでなく、武田氏と朝廷・幕府・権門との外交論や戦国期室町将軍論や地域権力論の視点を取り入れた研究も展開されている。近年では鴨川達夫はさらに西上作戦の位置づけに関しても修正を行い、議論が行われている。
出典:wikipedia
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