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蛍丸

蛍丸(ほたるまる)は、来国俊作の日本刀(大太刀)である。1931年に国宝に指定されたが、太平洋戦争終戦時の混乱の中で行方不明となった。総長4尺5寸(約136.36cm)、刀身が3尺3寸4分5厘(約100.35cm)という大太刀で、江戸時代、松平定信により編纂された『集古十種』には、「肥後國阿蘇大宮司惟純螢丸太刀圖」として絵図が収録されている。これによれば「総長四尺五寸 幅一寸三歩」、切先が「幅七歩半 厚二分一厘」で、茎には目釘孔一つ、表に「来国俊」、裏に「永仁五年三月一日」の銘がある。三ツ頭から茎尻に渡って全体に樋(ひ)があり、表のはばき元には護摩箸の刀身彫刻が、裏にははばき元から切先方向に向けて「長六寸八歩」の素剣の刀身彫刻があることが記されている。南北朝時代の南朝側の武将、阿蘇惟澄が佩用したと伝えられる。惟澄は、1336年(建武3年)の多々良浜の戦いで菊池武敏を助けて足利軍と戦い敗れた。その夜、この激戦で刃こぼれした刀に蛍が群がり刀を直した夢を観て、目が覚めて刀を見てみると本当に刃こぼれが直っていた、との伝説があり、これが「蛍丸」の名の由来となっている。以後、阿蘇氏に家宝として伝えられ、阿蘇氏が戦国時代末期に島津氏に下って実質的に滅亡し、後に阿蘇神宮の大宮司として再興すると、阿蘇神宮の宝刀として秘蔵された。明治時代になり、阿蘇家が男爵の位を授けられて華族となると、阿蘇家の家宝とされる。1931年(昭和6年)12月14日、当時の国宝保存法に基づく旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。指定時の所有者は男爵阿蘇惟孝となっている。前述のように、太平洋戦争終戦後は所在不明である。所在不明となった経緯について、一説にはGHQが戦後日本の非軍事化政策の一環として全国から日本刀を没収して廃棄する「刀狩り」を行った際に、蛍丸も接収され処分されたのではないかとされている。ただし、「処分された」との正式な記録もなく、異論として「接収を避けて阿蘇神宮から密かに運びだされ、何処かに隠された」との説もあるが、いずれにしても現在に至っても所在不明のままである。なお、国の重要文化財としての指定は所在不明となった後も継続されている。2015年になり、岐阜県関市周辺の職人により復元し阿蘇神社に奉納することを目的としたクラウドファンディングによる復元計画が始まり、締め切りまで80日以上を残した開始6日間で希望額の約6倍の3000万円以上を集めた。ゲーム「刀剣乱舞」によって蛍丸の存在を知った出資者が多かったとみられている。蛍丸の復元は岐阜県関市の刀匠「房幸」と、大分県竹田市の刀匠「房興」が共同で行う。なお出資金の一部は、2016年4月に起きた平成28年熊本地震に際し、阿蘇神社への見舞金として寄付された。

出典:wikipedia

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