八上城(やかみじょう)は、兵庫県篠山市にあった中世、室町時代から戦国時代にかけて丹波国の国人である波多野氏が本拠とした日本の城(山城)。国の史跡に指定されている。別名は八上高城。篠山盆地のほぼ中央南部寄りの高城山(460m)および西隣の法光寺山(340m)に位置し、山陰街道が東西に通過する八上を見下ろす。本城と支城が城下を挟み配置される中世山城の典型的特長を伝えており、貴重である。石見の人ともされる波多野稙通が応仁の乱にて戦功をあげて永正年間に多紀郡郡代に就任した際、多紀郡多冶山に築城して居城としたことから八上城の歴史が始まる。15世紀後半に高城山南西尾根先端部に奥谷城を築き、城下町を奥谷に置く。16世紀前半には高城山頂に八上城を本城として築く。弘治3年(1557年)に一度松永久秀によって城を奪われたものの、永禄9年(1566年)に秀治が奪還。支城の法光寺城は、抗争に先立ち八上城および城下の防衛力増強の目的で築城されたものである。その後、城下は中心部を奥谷から街道沿いにあった八上に移した。天正3年(1575年)に織田信長の命を受けた明智光秀による攻略が開始され、毛利氏や赤井氏の支援があったものの兵糧攻めにより天正7年(1579年)に落城。波多野氏は滅亡した。この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔になった城としても知られる(後世の創作という説もある)。また、井上靖の『戦国無頼』の後半はこの落城時を舞台としている。慶長7年(1602年)、前田茂勝(五奉行の前田玄以の子)が八上五万石を領して入城する。 慶長13年(1608年)に茂勝が改易され、入封した松平康重が篠山城を築城したため八上城は廃城となった。廃城になるまで数多くの籠城戦が繰り返された。八上城は慶長14年(1609年)に廃城になるが、古風な中世式の遺構が残る典型的な山城である。大阪歴史学会による保存運動がおこなわれ、2005年3月2日、兵庫県下では41件目の国の史跡に指定されたが、その指定理由として、中世の山城であるにも関わらず、数多くの遺構が往時のままに残っている点が評価された。戦国時代の典型的山城である八上城と、近世城郭で典型的な平城である篠山城(ともに国の史跡)とが、ともに篠山市内の近い場所にあるという点も特筆される。山全体が要塞化しており、東西に長く、北西はもっとも険しく、南は細い尾根が続いており、攻めにくく守りやすい。連続型曲輪(縄張り)がある。兵庫県篠山市八上上(高城山は高く美しい姿をしており、富士山に形が似ているところから地元では「丹波富士」とも呼ばれている)
出典:wikipedia
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