錦小路 頼徳(にしきこうじ よりのり、天保6年4月24日(1835年5月21日) - 元治元年4月27日(1864年6月1日))は、幕末の尊皇攘夷派公家。字は一貫。唐橋在久の子として生まれる。のち、錦小路頼易の養嗣子となる。1851年(嘉永4年)に叙爵を受け、2年後に大和権介に任じられる。1858年(安政5年)の廷臣八十八卿列参事件に参加し、以後は尊皇攘夷派として活躍する。1862年(文久2年)、従四位上右馬頭。同年、公武合体派の久我建通の弾劾に加担、翌年2月、壬生基修とともに庶政刷新と攘夷貫徹を求める建言を提出して国事寄人に任じられ、孝明天皇の攘夷祈願の為の石清水八幡宮行幸に随従した。同年の八月十八日の政変によって失脚し、三条実美、壬生基修、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、澤宣嘉とともに長州藩に落ち延びる(七卿落ち)。これによって官位剥奪の処分を受ける。後に桑原頼太郎の変名を用いて長州攘夷派と行動をともにするが、赤間関の砲台視察中に病に倒れ、同地で30歳の生涯を閉じた。没後、王政復古時に官位を復され、1870年(明治3年)に正四位を贈られた。
出典:wikipedia
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