小山 政彦(こやま まさひこ、1947年7月6日 - )は、東京都出身の経営コンサルタント。株式会社船井総合研究所元代表取締役会長。株式会社風土代表取締役会長。東京都墨田区押上出身。家具工場を営む家に生まれる。開成中学校・高等学校を経て、1971年に早稲田大学理工学部数学科を卒業。数学者を志して早稲田大学大学院へ進学するも、実家の商店が火事で焼失。父・小山政雄が再起して始めたディスカウントストアを手伝うべく大学院を中退する。以後、専務取締役としてディスカウントコヤマの経営に携わる。コヤマの売上を2.7億円から60億円にまで伸ばすなど、当時から経営コンサルタントとしての手腕を発揮するも父との経営方針の違いや家族関係のもつれから1984年3月にコヤマを退職する。1984年6月、日本マーケティングセンター(現船井総合研究所)に入社。市場シュアに従ったマーケティング戦術を展開する舩井幸雄の船井理論を継承し地域一番店戦略を軸とし、ディスカウントコヤマでの経験をベースとした一単品での地域一番化をテーマにしたディスカウント的販促手法を駆使し、規模や業種を問わず多くの企業の経営支援で成果を上げた。当時の同社のコンサルタントの売上が一人最大4000万円程度のところ、入社3年目には1億円の売上を上げ、7年目には3億円以上を稼ぐNo.1コンサルタントとなった。今でもこの記録は破られていなく、船井幸雄をして「10年に一人の天才コンサルタント」と言わしめた。コンサルティングの場を宝飾品業界を主としてからは”宝石の小山”の異名をとる。またこの頃、消費者のモノの購買頻度とライフサイクルを数値化した「数理マーケティング理論」を完成させ、この数理マーケティング理論を駆使することで当時売上650億円であった株式会社オートバックスセブンを2800億円にまで引き上げたり驚異的成功事例を多数残した。副社長を経て、2000年、同社代表取締役社長に就任。社長就任後は船井グループの業績をV字回復、大証2部から東証1部への上場を果たし、20%以上あった離職率を6%台にまで改善、賞与支給額日本一企業にするなど経営者としても手腕を振るい、同社の第二創業期を大きくリードし、「船井総研・中興の祖」と呼ばれるようになった。2010年に代表取締役会長に就任。近年はマーケティングをベースにした「リーダーシップ」、「人間力」、「人間性」についての大切さを説く。「トップによって会社の将来が決まる」という考えから、経営者の根底にある「人間性」の重要性に言及。会社を率いるトップの考え方や行動に対しても一人の経営者としての自らの原体験に基づく示唆を行い、経営者の支援を行っている。また独自の手法による「時流予測」を毎年年末に開催、その的中率は85%以上との評判が高く経営の場面で具体的に役立つということで聴講者は年々増え500人を超えている。 ニューヨーク証券取引所への上場を目指すもリーマンショックに始まる金融危機や世界同時不況により断念。自身の夢の実現のために船井総合研究所代表取締役会長からの退任を決意する。「コンサルタントは生涯現役がテーマ」との持論ゆえ顧問で残ることも辞退して2013年3月、船井総合研究所代表取締役会長を退任。同年4月に自身の構想10年である株式会社風土代表取締役会長に就任。文化・芸術の発展こそが経済の発展であると提唱し、創業117年の歴史をもつ博多織元の岡野博一を代表取締役に、開成高校の後輩であるビジネスプロデューサーの高橋紀成を常務取締役に迎え入れる。顧問として様々な企業経営に参画、次世代のリーダー育成を行うと共に日本から世界に通用するブランドビジネスを誕生させることを現在の目標として精力的に活動している。気候や旧暦などを基にした独自の理論を”時流予測”として、直近から数年先の天候、人の嗜好の移り変わりを予測する。小山のマーケティング手法の軸の一つである。歴史学者・村山節による”文明法則史学”の影響のもと、あらゆる文化には周期性があるという考えを持つに至った。それは人々の細かな服の好みから、政治や経済の動き、その時代の世界情勢をリードする文明の移り変わりにまで及ぶ。同名の書籍が上梓されるまでは、マーケティングは定量化不能と考えられていたが、小山はこれを数式によって説明することで、マーケティング戦術手法を体系化した。舩井幸雄によってこれを”数理マーケティング”と名付けられた。一般的な多変量解析を用いた科学的手法とは異なり、コンサルティングの現場から得た経験に基づく内容で、販促や集客をテーマとしている帰納的実践的内容となっている。ほか約20冊
出典:wikipedia
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