金子城(かねこじょう)は、伊予国新居郡(現在の愛媛県新居浜市)に存在した戦国時代の日本の城である。なお、ここで新居浜市内にある他の城跡も記述する。桓武平氏村山党の流れをくみ、武蔵国入間郡金子郷を治めていた金子氏の一族・金子広家が、建長年間(1249年 - 1255年)に所領であった伊予国新居郡に移住し、その地を金子と名付け、領地を広く見渡せる丘陵地の頂に城を金子城を築いた。その後戦国時代にかけて勢力を拡大し、新居郡はもとより東隣の宇摩郡の実質的支配者として、伊予侵攻を謀る土佐国の長宗我部元親と和議を結び領地を安堵された。天正13年(1585年)に羽柴秀吉が四国制覇に乗り出すと(四国征伐)、その命を受けた毛利氏一族の小早川隆景の大軍により攻め滅ぼされ落城(天正の陣)、300年以上にわたる歴史を閉じた。その後は再建されることなく、現在は展望台・東屋・遊具等が整備され滝の宮公園として市民の憩いの場となっいる。昭和後期に市のシンボルとして復元する構想が立てられたが、実際の金子城と異なり江戸時代の様式の天守を擁するものであったために歴史研究家を中心に批判が相次ぎ難航し、自然消滅的に復元構想はなくなった。金子城跡は昭和53年4月6日、新居浜市史跡に指定された。新居浜市郷の城下橋の近く、国領川の畔にある標高84.1mの郷山と呼ばれる山上にあった。麓には岡崎城主藤田山城守の祈願所であった薬師堂があり中腹には鉾前神社がある。神社の向って右から上がると石鎚大神の石碑のある壇があり、そこから階段状に二の丸・三の丸となっていたと思われる壇が数壇あり、山頂に本丸だったと思われる壇は平らで十分な広さがあり、木々の間から新居浜市街が望める。山頂の南側と東側は切れ落ち、麓には大河が流れ要害堅固になっている。新居浜市の史跡に昭和53年4月6日指定されている。新居浜市新田町で麓の山根公園から15分上りエントツ山から大山積神社奥宮へ、さらに20分ほど東へ登ると尾根に出て生子山(しょうじやま)城跡の立札がある。左に20m進むと標高280.1mの新居浜平野と燧灘を一望できる見晴らし所に至る。右に行くと鉄塔があり、その背後の山に急坂をよじ登り標高300.3m板ノ本の三角点がある地点に上がると平らになっていて中央に千手観音・地蔵菩薩・城主大明神の石仏を祀っている。見晴らし所地点が天正の陣(1585年7月)に小早川隆景に攻められ落城した松木三河守安村の松木氏歴代の本丸か三角点地点が本丸かは定かでない。見晴らし所地点の直前の道は険しいうえに、北東南の三方向は切れ落ちた地形で要害堅固である。
出典:wikipedia
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