王 閎(おう こう、生没年不詳)は、中国の前漢時代から後漢時代初期の武将、政治家。冀州魏郡元城県(河北省大名県)の人。新の皇帝王莽の従兄弟。父は王莽の叔父、平阿侯王譚。王莽一門にありながら、反王莽の姿勢をとり続け、一門内の異端的存在となった人物である。哀帝の時代に中常侍を務めている。この当時、哀帝の寵臣で大司馬の董賢が専横の振舞いを見せていたが、王閎はしばしばこれを諌めていた。哀帝が酔って董賢に「尭が舜に譲ったのに倣おうかと思う」と言った際には、王閎は哀帝に対して「天下は高皇帝(=劉邦)の天下であり、陛下の物ではありません。陛下は宗廟を受け継ぎ、子孫に伝えなければなりません。冗談でもおっしゃられてはなりませぬ」と諫めた。これにより哀帝はしらけ、以後、王閎は疎まれた。元寿2年(紀元前1年)に哀帝が崩御すると、哀帝は璽綬を臣下の董賢に授けている。これを知った王閎は、太皇太后王政君の後ろ盾を得て董賢から璽綬を奪還し、その後、董賢ら哀帝の側近を排斥する上で貢献した。 しかし、王莽は王閎を良く思わず、王莽が新を建国すると、王閎は東郡太守として左遷されてしまう。また、王閎は王莽から誅殺されることを恐れ、常に毒薬を携帯していた。更始1年(23年)王莽が滅亡したが、改朝換代の混乱期にありながらも、王閎は自身の手腕で東郡の30数万戸を良く保全している。そして王閎は、東郡一郡を献上して更始帝に降伏した。王閎は更始帝の下でも琅邪太守に任命されたが、派遣先に割拠していた当時の群雄の1人である張歩がこれを拒否した。王閎も檄を発して贛楡など6県を掌握し、しばらくの間、張歩と激しく争った。しかし、梁王劉永が張歩を配下に取り込むと、劣勢を悟った王閎は張歩と交渉を行う。対面の際に張歩は「私に何の咎があって、攻撃してきたのか」と責めたが、王閎は「太守は朝命を奉るものであり、私は賊(張歩を指す)を攻撃しただけです」と答えた。張歩は王閎の正論を認め、謝罪して歓待し、郡事を司らせ、実質幕僚として遇した。建武3年(27年)、劉永が戦死すると、張歩は劉永の子劉紆を天子として擁立し、自身は定漢公と号して、百官を置く計画を立てた。しかし王閎は、劉永が更始帝を奉ずる故に山東が帰順したが、その子を尊んで天子とすれば衆民は疑念を持つかも知れず、また斉の民は謀り多い(故にますます疑うでしょう)、と諌めたため、張歩はこれを取りやめている。建武5年(29年)、平壽(北海郡)に追い詰められた張歩が漢に降ると、王閎も劇(北海郡、張歩の本拠地)を訪れて漢軍に降った。その後の王閎の動向は不明である。なお、後に光武帝は詔して「(王)閎は善を修め謹直で、兵乱の時も、民・役人も閎の首だけは争い取らなかった。閎の子を役人に補す」と、その子を600石以上の役人にしたが、その子は在職中に亡くなった。
出典:wikipedia
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