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日本武道館

日本武道館(にっぽんぶどうかん、Nippon Budōkan)は、東京都千代田区北の丸公園にある武道館。日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の大道場としての役割を担うことを設立趣旨とする。日本武道協議会加盟。武道以外の屋内競技場、多目的ホールとしても利用される。管理運営者は公益財団法人日本武道館。1964年開催の東京オリンピックの柔道競技会場として建設され、同年10月3日に開館した。設計は山田守、施工は竹中工務店(全国建設業協会会長から推薦されて決定)、総工費は18億円。法隆寺夢殿をモデルにした八角形の意匠である。大屋根の稜線は富士山をイメージしている。日本の武道(柔道・剣道・弓道・相撲・空手道・合気道・少林寺拳法・なぎなた・銃剣道・古武道)の稽古場、競技場として使用されている。また、ダンス、マーチングバンド・バトントワリングの競技会に使われるほか、民放各局が主催・放送していた、年末の賞取りレースと称される音楽祭(1988年まで)コンサートや格闘技(プロボクシング、プロレスリング、総合格闘技)の興行会場、大学や企業などの大規模な入学式・卒業式・株主総会の会場として等、幅広く使用される。設立された頃は「日本武道の聖地」的な意味合いが現在以上に強かったため、1966年にビートルズのコンサートが行われた際には、細川隆元を始め「日本の武道文化を冒涜する」などとして異を唱える者も多かった。文部科学省からの補助金等は、2010年(平成22年)度の場合、4240万7000円が交付されている。日本武道館のあたりは、元々太田道灌が江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧・田安明神)が遷座したところで、のち、徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれていた。その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、江戸時代中期以降は徳川氏の御三卿であった田安徳川家が屋敷を構えたが、明治維新後取り壊され近衛師団の兵営地となった。1961年(昭和36年)6月、「柔道」が1964年東京オリンピックの正式種目に決定すると柔道愛好者の国会議員は「国会議員柔道連盟」を結成した。日本テレビの野外スタジオで開かれた発足祝賀会の席上で同連盟会長に就任した衆議院議員正力松太郎は、「世界に誇る武道の大殿堂を東京の中央に建設して、斯道の発展普及を図りたい」と表明。同年6月30日、「武道会館建設議員連盟」(会長 : 正力松太郎、副会長 : 水田三喜男、松前重義、佐藤洋之助、赤城宗徳)を結成した。この構想は衆議院議長清瀬一郎、参議院議長松野鶴平、内閣総理大臣池田勇人、日本社会党委員長河上丈太郎、民社党委員長西尾末広、日本共産党議長野坂参三をはじめとする超党派の議員525名の署名が集まった。1962年(昭和37年)1月31日、文部大臣の認可を得て「財団法人日本武道館」(会長 : 正力松太郎、副会長 : 木村篤太郎、松前重義、理事長 : 赤城宗徳)が発足。建設地は二転三転した後北の丸に決定し、1964年(昭和39年)9月15日に日本武道館が落成した。同年10月3日、昭和天皇・香淳皇后を迎え開館式を行った。例年以下のような行事が開催されている。武道館でプロボクシングの試合が初めて行われたのは1965年11月30日の世界バンタム級選手権試合:ファイティング原田(笹崎)対アラン・ラドキン(イギリス)戦である。原田はチャンピオンとしての5回の防衛戦のうち、4回を武道館で開催している。また1966年3月1日には、高山勝義(木村)とオラシオ・アカバリョ(アルゼンチン)との間で行われたWBAフライ級王座決定戦も武道館であった。さらにモハメド・アリ(アメリカ)が(アメリカ)を相手に、ノンタイトル10回戦を行ったのも、1972年4月1日の武道館である。1973年9月1日、世界ヘビー級王者:ジョージ・フォアマン(アメリカ)が(プエルトリコ)を相手に、武道館で初防衛戦を行い、1ラウンドKOで勝利した。これが、日本に於ける初の世界ヘビー級選手権試合であった。また、世界ヘビー級選手権試合と同日にはWBCジュニアライト級選手権試合(王者:リカルド・アルレドンド(メキシコ)対柏葉守人(野口))も開催されており、日本で初めての複数世界選手権試合開催興行でもあった。その後も数々の世界選手権試合が武道館で開催されており、プロボクシングの聖地の一つともされている。武道館で初めて王座に就いた選手としてアレクサンデル・ムニョス、長谷川穂積、清水智信らがいる。ただし、昨今では、興行の開催が著しく減っており、現在のところ、2011年8月31日のWBA世界バンタム級・亀田興毅 vs ダビド・デラモラ、WBA世界スーパーフライ級・ウーゴ・カサレス vs 清水智信のダブル世界戦が最後の開催となっている。ちなみに、日本の歴史上初めてプロボクシング興行が開催された会場は、武道館に隣接した靖国神社相撲場であった。日本武道館へのプロレス興行の初進出はオープン2年後、1966年12月3日に行われた日本プロレスの大会で、メインイベントはジャイアント馬場VSフリッツ・フォン・エリックのインターナショナル・ヘビー級選手権試合であった。それ以降、力道山十三回忌追善特別大試合、アントニオ猪木VSウィレム・ルスカ、モハメド・アリの異種格闘技戦、プロレス夢のオールスター戦など数々のビッグイベントが開催された。1970年代後半は新日本プロレス、1980年代中期以降は全日本プロレスがビッグマッチ用の会場として使用した。中でも1990年代の四天王プロレス全盛期の全日本は、年間7試合ほど武道館大会を打っていたが、そのほとんどが満員札止めになる程の驚異的な集客力を誇った。女子プロレスも、度々武道館で興行を行なっていた。ビューティ・ペア全盛時代、ジャッキー佐藤とマキ上田の「最初のBP対決」、ジャッキー佐藤と池下ユミの善悪ライバル対決、敗者引退ルールで行われた「最後のBP対決」が行なわれ、いずれも超満員であった。その後クラッシュギャルズのブームの時はジャガー横田とライオネス飛鳥のWWWA選手権、デビル雅美と長与千種のオールパシフィック選手権が同所で行なわれ、これまた超満員であった。さらに団体対抗戦時代にも、アジャ・コングとダイナマイト関西のWWWA選手権をメインに据えたオールスター戦が行なわれ、やはり超満員となった。1999年のジャイアント馬場の葬儀にも武道館が使用されている。2000年代に入ると、全日本プロレスから独立したプロレスリング・ノアが定期的に興行を行い、2002年2月には怪我、2007年12月には病気により長期欠場していた小橋建太の復帰戦が行われた。2011年には東日本大震災チャリティー興行『ALL TOGETHER』が開催された。2012年にはDDTプロレスリングの日本武道館大会『武道館ピーターパン』が開催された。2013年には小橋建太引退興行が開催された。東京ドームのオープン以降はオールスター戦級のビッグイベントはそちらに移ったが、今なお日本のプロレス界にとっては特別視される主要な大会場である。また日本のみならず、アメリカのプロレス界にとっても、武道館は国技である相撲を行う両国国技館以上に、日本の神聖な会場として認識されており、世界最大のプロレス団体「WWE」の日本公演にも使用された実績がある。また、国技館が「Sumo Hall」「Sumo Arena」と呼ばれるのに対し、武道館はそのままの「Nippon Budokan」や「Budokan Arena」と呼ばれる。キックボクシングも、その全盛期には武道館で興行を開催した実績がある。1969年6月28日に行われた「東洋チャンピオン・カーニバル」の会場に使用され、メインイベントでは沢村忠が東洋ライト級王座初防衛を成功させた。K-1も、1994年に旗揚げ2度目となる興行を武道館で開催しており、2004年にもK-1 WORLD GP開幕戦で使用した。K-1 WORLD MAXにおいては、2002年に初代王者を決めるトーナメント決勝戦を開催しており、2007年から2009年までは主会場として使用している。このため日本武道館はK-1においても重要な会場のひとつに位置づけられている。総合格闘技では『VALE TUDO JAPAN '95』や『PRIDE.3』の会場となった他、パンクラスが1994年から2000年までほぼ年1回のペースで使用していた。2010年4月25日には、吉田秀彦引退興行『ASTRA』も開催された。ちなみに、吉田が柔道選手として出場した最後の公式試合も、2002年に武道館で開かれた全日本柔道選手権である。有料の興行・イベントに使用する場合に於いて、例えばプロレス興行の場合は次のような条件があり、これらを全て満たさなければ会場として当館を使用することができない。プロレスリング・ノアが旗揚げから1年間会場として使えなかったり、武藤体制の全日本プロレスが武道館で興行を打たなかったりしたのは、このような制約があったためである。他にも、一時期プロレス界で時代の寵児となりながらも武道館大会をついに開催できなかった団体はハッスルなど数多い。現在ではコンサートやライブなどの各種音楽イベントでの使用が武道館の使用目的と収益の大きな柱の1つになっており、大道場の使用スケジュールの少なからぬ割合を占めている。座席数は上記の通り合計最多14,471席であるが、コンサートホールとして使用する場合には舞台設営・観覧のしやすさなどのセット配置・レイアウト面の都合から、一般的には8,000席から10,000席程度のホールとして使用されており、こちらの分野でも東京における主要な大型会場の1つとなっている。特に日本を中心に活動するミュージシャンにとっては、武道館はコンサート会場として極めて重要な位置づけに置かれている。武道館の規模となると、会場としての大きさ故に興行を実現させその興行を収益・内容の両面で成功に至らせることは容易ではない。また、上述した格闘技と同様に音楽・芸能の有料興行に使用する場合の会場使用条件も大変に厳しく、大道場を借りるには費用面も含めて様々な条件をクリアしなければならない。そのため武道館公演の成功は、大規模会場での大型興行も充分に務め上げられるミュージシャンであるという「一流」の興行能力・集客力を持っていることを業界の内外に誇示する、一種のステイタスとしての意味を持っているのである。また、古くは1966年のザ・ビートルズ、1968年のザ・ウォーカー・ブラザース、ザ・モンキーズ、1972年のディープ・パープル、1975年のクイーンなど、海外の著名ミュージシャンの来日公演における使用例も数多い。このことから、ロック・演歌・アイドル歌謡などのジャンルを問わず、新人やデビュー前のミュージシャンはもとよりプロの一線級のミュージシャンでさえ「武道館公演の実現」を憧れとし、これを目標に活動する者は数多い。特にバンド・グループ・アイドル歌手などでは、武道館公演が活動の事実上の1つの節目となったり、解散や引退の記念として1度きりの武道館公演を実施した者も多々見られている。逆にこのような大規模会場を好まず、『NHK紅白歌合戦』への出場と同様に武道館級以上の規模の施設ではライブをしないことを公言しつつ活動するミュージシャンやバンドも、山下達郎をはじめ少数ながら存在し、そのまま「大物ミュージシャン」と呼ばれる域にまで至るとむしろそれがステイタスとなりある種の商業的価値を持つ場合もある。2009年に初のアリーナ公演を開催したスピッツも、「(武道館で公演を行うことによって)アリーナ公演に意味を持たせたくない」として武道館の使用を意識的に避けている様(スピッツは2014年7月に武道館初ワンマンライブを決行)に、現在でも「武道館でコンサートを行う」ことには一定の影響力があり、またその影響力を避けるアーティストも存在する。最近では、武道館の数倍の観客収容能力を持つ全国のドーム球場での単独公演、さらには、東京・名古屋・大阪・福岡・札幌の全国5大ドーム球場を巡回する“ドームツアー”が「ミュージシャンとして最大の到達点」「日本の音楽ステージの頂点」として見なされることも多く、絶対的な価値こそ薄れてきているものの、現在においても武道館規模での単独公演は大多数のミュージシャンにとって大きな挑戦かつ試練である。そのため、武道館公演に成功し高評価を受けることは、歌手としての集客力や興行力の証明として充分な価値を持っており、現在でも音楽業界・芸能界にとっては一種の聖地的な存在として格別の意味を持つ重要なコンサート会場であることに変わりは無い。また、時にドーム単独公演を目指すための重要な関門としても機能している一面があり、ドーム公演を目指すならば武道館公演では数日間・複数回にわたって開催される公演のチケットを概ね完売できる集客力が要求されることになる。一方で、セットや機材・スタッフ・警備なども遥かに大規模になり、施設利用料も高額になるドーム公演よりも各種コストが低く抑えられる武道館公演は、収益性を考えた場合には重要なイベントとなっている一面もある。他方で、「日本武道館」の名の通り元来は音楽を主目的に建設した施設ではないため、コンサートホールとしての音響性能では音楽演奏を主用途に設計されている専門のコンサートホールに遠く及ばず、良好な音質で観客に聴かせるのは困難を極める欠点があり、舞台音響設備を持ち込むなど別途対処する必要がある。実際、ザ・ビートルズの来日公演では、ステージ上のギターアンプの生音と会場据付けのPA装置を通したボーカルだけで行われたことから、結果として演奏が全く聞こえない席が存在した(写真やビデオ映像で確認できるアンプ前とドラムキットのマイクはテレビ収録用)。その様な問題の改善のため、現在に至るまで様々なノウハウが開発されてきた。この武道館で培われたノウハウは、同様に音響面で難を抱える全国各地の多目的ホールや体育館などでのコンサートにも応用されている。武道館でコンサートを開催したアーティストは、大きな色紙にサインをする。100以上の公演を行ったアーティストは、金色の色紙にサインをすることが許され、事務所に掲げられている。これまでに、矢沢永吉、松田聖子、藤井フミヤ(チェッカーズ時代を含む)の3組しかいない(2014年10月現在)。また、当記述の通りの音楽ホールとしての「武道館」の知名度にあやかり、過去にはソニーが簡易ボディソニックシステム及び携帯音楽プレーヤー・ウォークマン派生の重低音システムとして、「武道館 BOODO KHAN」という商品を販売したことがある。1970年代から1990年代にかけての時期には、日本テレビ音楽祭、日本レコード大賞、FNS歌謡祭、全日本歌謡音楽祭、日本歌謡大賞といった音楽賞授賞イベントや、世界歌謡祭、東京音楽祭、日本民謡大賞、日本寮歌祭といった音楽発表会が当館に於いて開催されていた。近年では、超大作洋画のジャパンプレミア(試写会)の会場として使用されたりしているほか、2010年12月には一般参加型の『TOKYO FM 夢の第九コンサート』第1回公演も当館にて開催している。また、日本郷土民謡協会が主催する「郷土民謡民舞全国大会」も、毎年10月の3日間、当館を使って開催されてきている。1969年と1978年には当地でライオンズクラブ国際大会が開催された。他に春と秋の年2回、実践倫理宏正会の講演会が開催されている。入学式や卒業式等で使用。内閣総理大臣経験者の本葬は、日本武道館で行われる場合が少なくない。『月刊武道』を毎月28日に発行している。

出典:wikipedia

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