讃岐丸(さぬきまる)は、日本国有鉄道(国鉄)宇高航路の客載車両渡船で、国鉄自動化連絡船の第1号であった。晩年第一讃岐丸と改称された。増大する宇高航路の客貨輸送需要に対応し、あわせて、老朽化した300総トン級の小型車両渡船第一宇高丸、第二宇高丸を淘汰すべく、新三菱重工神戸造船所で建造された。本船建造が計画されていた1958 - 1960年(昭和33 - 35年)当時は、青函・宇高両航路の連絡船の主力はともに、戦中から戦後の混乱期に建造された船で、これらの代替となる次世代連絡船の大量建造が数年後に迫っていた。このため、本船では、主機械や係船機器、ヒーリング装置等の自動化・遠隔操縦化や、操船性能の画期的向上を目指してフォイト・シュナイダープロペラを採用する等、次世代の自動化連絡船建造のための実験船としての使命も帯びていた。航路長が短く、狭隘な海面での離着岸を頻繁に繰り返す宇高航路では、離着岸に要する時間の短縮が重要で、1953年(昭和28年)建造の第三宇高丸同様、可動橋への接合がより容易な船首着岸とし、車両の積卸しは船首からとした。また、船体幅を広げるため、岸壁係留位置において、船体中心線を可動橋中心線から21.85‰と、第三宇高丸の20‰よりも若干大きく船尾側を岸壁の反対側へ振っていた。このため、全体的には、第三宇高丸に客室を設置したような形であったが、丸みを持った遊歩甲板室前面から、わずかに後退して設置された操舵室や、中央部の太短い煙突は、 1957年(昭和32年)建造の青函連絡船 十和田丸(初代)に似ており、外舷色にも同じ浅い緑色(10GY6/4)が採用されたこともあり、 同船の宇高版という印象であった。紫雲丸事故などの衝突事故を想定し、車両甲板下の船体を10枚の水密隔壁で11区画に区切り、宇高連絡船では初めて、隣接する2区画に浸水しても沈没しない“2区画可浸”構造 とした。更に、船体中央部の主機室、ポンプ室、軸室の3区画では、船底だけでなく、側面にもヒーリングタンク等の舷側タンクを各区画ごとに設け、二重とした。車両甲板には第三宇高丸同様、3線の軌道が敷設された。3線とも船尾の終点では横並びであるが、船首部では接触限界を越えて近接並行させたため、中央の船2番線のこの区間では、ワム換算3両分の車両積載ができず有効長が短くなった。各線の有効長は、左舷の船1番線から右舷の船3番線まで、順次71.105m、48.165m、71.040mで、それぞれワム換算で9両、6両、9両の計24両の貨車が積載できた。船内軌道の終端部には、自動連結器の装備された車止めが設置されていたが、入換機関車に押されて来た車両による度重なる衝撃で、車止め自体が損傷することもあったため、連結器と車止め本体の間に、重量50tの列車が、時速6kmで衝突したエネルギーを、約9cmのストロークで吸収できる油圧緩衝器を、国鉄連絡船としては初めて本格的に装備した。また1955年(昭和30年)建造の青函連絡船 檜山丸型からは、航海中も積載車両の自動空気ブレーキの締め直しができるよう、三方弁を介して圧縮空気を積載車両のブレーキ管へ供給できるようになっていたが、本船からは、より正確に空気圧の調節ができる機関車用自動ブレーキ弁が設置された。なお、車両甲板両舷には、全長にわたり余裕部分があり、船員用浴室やトイレ、船員用厨房、上下層の甲板間の階段室として使われ、その部分の中2階に相当する中甲板の、左舷船首部にはポンプ操縦室と船首の電動油圧係船機器の動力機械室が、右舷船首部には補助発電機室があり、船尾には船尾係船機器動力機械室があった。これら以外の中甲板の側面は、車両格納所側へも外舷側へも開放されていた。車両甲板天井に相当する遊歩甲板は、船首と船尾の係船作業場以外は、両舷に遊歩廊を持つ甲板室で占められ、客室は全てこの甲板室内に配置された。その配置は瀬戸丸型とは逆で、前方と中央部が2等船室、後方が1等船室で、これは船尾から車両の積卸しをする瀬戸丸型とは逆向きに、同一岸壁に接岸するためであった。全て椅子席で、1等船室には151系こだま型特急電車の1等車の二人掛けシートのリクライニング機能及び方向転換機能を省いた椅子席を、窓側では前向きに、内側では小テーブルをはさんでの向かい合わせに配置し、2等船室には153系東海型電車の2等車のボックス座席を設置し、1、2等とも一部の座席の通路側には自動跳ね上げ式の補助椅子も設置した。このほか、帽子掛、網棚、客室両舷窓のシュリ―レン型バランサーにも鉄道部品を採用してコストダウンが図られた。また、救命設備では、航海甲板右舷に6人乗の救助艇の装備はあったが、主力は十和田丸(初代)で試験的に導入された膨張式救命いかだで、26人乗り24個が航海甲板両舷に配置されたほか、4組の網梯子も装備された。操舵室は、客室のある遊歩甲板室屋上に甲板室前端からわずかに後退して設置され、十和田丸(初代)に準じて、前面を丸くせり出した平面形状であった。操舵室の船体中心線上には、従来の古典的な舵輪を持つテレモーターに代わり、当時の大型自動車のハンドルを取り付けたフォイト・シュナイダープロペラ操縦スタンドが設置され、前後進レバーがハンドルのすぐ右側に、総括制御室への指令を出すエンジンテレグラフがハンドルの前側に装備され、ハンドル中央には汽笛ボタンまで組み込まれ、すべて一人で操作できる形になった。この操縦スタンドのハンドルを回すことで、プロペラの推力方向の左右成分を制御し、前後進レバーで前後の成分を制御して、その合成ベクトルが、実際の推力とその方向となった。 このベクトルの位置は、操舵室中央部前面窓上と総括制御室計器盤に設置された推力方向指示器の、同心円の描かれた盤上に光点で表示された。左右2基のプロペラに別々の指令を出すことはできなかったが、低速時の操縦性は極めて良好であった。エンジンテレグラフが操縦スタンドに組み込まれたため、独立したテレグラフは、操縦スタンド左側に設置された船尾係船作業場へ指令を出すドッキングテレグラフ1本となった。その後ろにはレーダー指示器が設置されていた。通常、レーダー映像では、自船位置は常にその中心にあるが、本船のレーダーには、推定速力を入力することで、北を上にした映像上を、自船が移動しながら表示されるトルー・トラッキング装置が取り付けられたため、映像上では海面が止まり、周辺の他船の動きを正確に把握できた。操舵室屋上は羅針儀甲板で、中央に磁気コンパス本体が設置され、その後ろには前部マストがそびえ、頂部にレーダースキャナー、その下にハーモニック形のエアホーンのラッパが左右に2本並び、その下にモーターサイレンのラッパが付いていた。讃岐丸がボイラーを装備しなかったための対応であったが、この汽笛の組み合わせが、以後建造の国鉄連絡船の標準となった。1972年(昭和47年)11月に、ようやく第2レーダーが装備されたが、前部マストが既に満杯のため、その直後に従来のマストより高いマストが新設され、その頂部にスロット形のスキャナーが設置された。なお、レーダー指示器はフォイト・シュナイダープロペラ操縦スタンドの右後ろ側に設置された。宇高連絡船には無線通信室はなく、操舵室後ろ側には、船長室はじめ、甲板部高級船員室と電気機器室が連なり、第三宇高丸のように操舵室中央から後方を見通すことはできなかった。連絡船は、着岸時、船から岸壁上のビットに繋いだ複数の係留索を、引き寄せたり伸ばしたりしながら、定位置へと係留して行った。従来この係船作業に多くの人手を要しており、数年後の連絡船大量取替えを控えた当時は、係船作業の省力化は喫緊の課題であった。このため、これらの係留索を、遠隔操作で思いのまま巻き込んだり伸ばしたりができ、更に岸壁係留中は波浪や潮の干満、喫水の変化等で、着岸時に張った係留索が張りすぎたり緩んだりしないよう、係留索を一定の張力で引き寄せ続ける、オートテンション機能を持つ電動油圧式ウインチが開発され、装備された。車両積卸し時の船体傾斜を抑制するヒーリング装置のポンプには、十和田丸に続き、交流誘導電動機(55kW)駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが採用された。更に、国鉄連絡船では初めて、左右両舷のヒーリングタンクだけでなく、船首にトリミングタンを設け、可動橋を架ける船首の喫水も容易に調整できるようにした。このヒーリング装置には、左舷中甲板船首にあるポンプ操縦室から、ボタン操作で、ポンプの送水方向からバルブの操作までの一連の手順を、順次自動的に行うシーケンス制御を、国鉄連絡船として初めて採用した。国鉄では、戦前より補助汽船や宮島航路の連絡船みやじま丸(初代)(242.08総トン)でフォイト・シュナイダープロペラの使用経験があり、その操縦性の良さを高く評価していた。このため、讃岐丸では当時日本最大となる、西ドイツ製の1,000馬力のフォイト・シュナイダープロペラ24E/150を船尾船底に2基装備した。このプロペラは、回転数および回転方向一定のまま、翼角制御だけで360度いずれの方向へも、任意の推力を発生できるため、操舵室からのハンドルとレバーによる翼角の遠隔制御で、速度調節から前後進、旋回、その場回頭まで可能となり、狭隘な港内での離着岸には威力を発揮した。しかし、舵を持たないため、潮流の速い海域での高速巡航時の針路安定性が不良で、針路保持のためプロペラを制御すると、速力が予想外に低下してしまうことが分かり、以後建造の車両渡船には採用されなかった。フォイト・シュナイダープロペラの採用により、主機械は常時一定回転数、逆転なしで使用できることになったため、 既に発電用ディーゼルエンジンとして実績があり、十和田丸(初代)の発電機駆動用エンジンとしても採用されていた三菱神戸JB-5型を、V型12気筒高過給化した、定格出力1,500馬力、毎分460回転の中速ディーゼルエンジン2台を主機械に採用し、更に2台の主発電機もこの主機械で駆動することとした。このため、各主機械の船首側には、クラッチ機能を持つ電磁継手を介して、三相交流60Hz 225V 出力350kVAの発電機が1台ずつ接続されていた。 船尾側には、ディーゼルエンジンの変動トルクを吸収するため、クラッチ機能を持たない流体継手を置き、ユニバーサル継手と傘歯車を介して1,000馬力のプロペラを毎分77.5回転で互いに外転させた。通常航海時は主発電機1台で必要電力は賄えたが、必要に応じ2台並列運転も可能であった。主機室の船首側中段に、日本の商船としては初めて、防音構造で冷暖房完備の総括制御室が設置された。操舵室と総括制御室の間の指令伝達のため、エンジンテレグラフが設置されていたが、左右それぞれ、主発電機が主機械と嵌脱可能な電磁継手を介して繋がっていたため、エンジンテレグラフフも左右1セットずつ設置され、指令項目はDRIVE ENGINE(機関起動) STAND BY ENGINE(機関用意) FINISH PROPELLING(プロペラ使用終了) STOP ENGINE(機関停止)の4項目であった。操舵室からのこれらの指令に対する、総括制御室からの応答スイッチが、主機械の遠隔操作スイッチ兼用となっており、このスイッチ操作だけで、エンジン発停時の燃料ポンプや潤滑油ポンプ操作等の一連の煩雑な手順が、順次自動的に行われてゆく シーケンス制御が採用されていた。なお、停泊中も主発電機の運転を継続する場合は、FINISH PROPELLINGの指令を総括制御室から操舵室へ発令できる等、一部双方向型であった。なお、宇高航路では、岸壁停泊中は陸上電源の受電を原則としていた。更に右舷中甲板船首には、十和田丸に続き、国際航海に従事する旅客船に義務づけられた非常用設備規程を準用し、自動起動・自動停止の70kVAのディーゼルエンジン駆動非常用発電機1台が設置されが、陸上電源の受電ができない沖錨泊時にも使用するため、補助発電機と称した。運転中の主機械は、プロペラの負荷変動、主発電機負荷の有無やその負荷変動により、その回転数は変動したが、これをガバナーで素早く検知し、燃料噴射量を調節して、毎分460回転を維持したため、通常運航中は、総括制御室や操舵室から、主機械の回転数を直接遠隔操作することはなかった。就航前年の1960年(昭和35年)10月には、接続する宇野線の電化が完成し、京都・大阪―宇野間の準急「鷲羽」が電車化され増発、翌1961年(昭和36年)10月1日ダイヤ改正では、東京―宇野間、大阪―宇野間にそれぞれ電車特急「富士」・「うずしお」が新設され、1960年(昭和35年)度の宇高航路の旅客輸送人員493万人は、1961年(昭和36年)度には557万人と急増した。このため、就航5ヵ月後の1961年(昭和36年)9月には、旅客定員350名増加の1,150名とし、その後も更に定員増加を行い、1967年(昭和42年)には1,300名になっていた。煙突のファンネルマークは、当初「工」だったが、1970年(昭和45年)「JNR」に変更された。新機軸満載で故障も多く、主機械故障、プロペラ駆動歯車の損傷と続き、出力制限をしながらの運航を強いられる始末で、機関部での苦労が多かった。しかし、讃岐丸で採用された、主機械の定速回転制御と可変ピッチプロペラ(フォイト・シュナイダープロペラも可変ピッチプロペラの一種)の組み合わせによる、機関部自動化や、電動油圧式係船機器導入が、次世代の自動化連絡船「津軽丸型」各船で、更なる発展を遂げたことを見るにつけ、讃岐丸での“実験”が、その後の国鉄連絡船自動化の基礎を築いた意義は大きかった。瀬戸丸型車載客船と共用するため、宇野―高松間、上り1時間5分、下り1時間10分運航であったが、1時間運航可能な客載車両渡船伊予丸型の第4船、2代目讃岐丸就航を控えた1974年(昭和49年)3月9日、第一讃岐丸と改称し、同年6月1日限りで旅客扱いを終了、以後、客室閉鎖で車両渡船として運航し、翌1975年(昭和50年)3月9日に終航となった。同年9月23日 谷山剛一に売却された。
出典:wikipedia
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