安順市(あんじゅんし)は中華人民共和国貴州省に位置する地級市。貴州省の中部に位置し、畢節市、貴陽市、黔南プイ族ミャオ族自治州、黔西南プイ族ミャオ族自治州、六盤水市に接する。戦国時代は夜郎国の勢力圏に置かれていた。秦朝による中国統一が達成されると象郡の管轄となり、漢代には夜郎君長に印綬を与え間接統治を実施したが、成帝の時代になると漢朝に反抗したため、夜郎国は滅亡した。三国時代になると廬鹿部豪族の済火によりこの地の騒乱平定に功績があったとされ羅甸王に封じられ、普里部の統治権を与えられている。中唐になると普里部の君長は普寧郡王に封じられている。宋代になると紹慶府の下の22羈縻州の一つである普寧州と改称された。1257年(憲宗7年)、普里部は元朝に帰順、曲靖宣慰司の管轄とされた。1372年(洪武5年)、明朝は適爾を普定土知府に任命、その世襲を認めている。1381年(洪武14年)、この地の元朝勢力を駆逐した明朝は阿達卜に築城、安順州を設置、1383年(洪武16年)には普定府を、1385年(洪武18年)には普定県を廃止し、安順州に統合、1602年(万暦30年)には安順府に改編され、黔中地区の政治、経済の中心地として発展していった。清代になると、1660年(順治17年)に雲貴総督が設置、1663年(康熙元年)になると雲貴総督は廃止され雲南省、貴州省が設置され、帰西王であった呉三桂の管轄となり、貴州総督は安順に設置された。1666年(康熙5年)、貴州総督は雲貴総督に改編、貴陽に移ったが、翌年貴州提督が安順に設置され清末まで沿襲された。中華民国が成立すると1914年(民国3年)、安順府は安順県と改称されている。中華人民共和国成立後の1958年、安順県の城区に県級市の安順市が設置されたが、同年末に安順市は廃止となり安順県に統合されている。1966年、県級市の安順県が再び設置、1990年に安順県が安順市に統合され、更に2000年6月23日、安順地区が地級市の安順市に改編される際に、旧安順市は西秀区とされている。2市轄区・1県・3自治県を管轄下に置く。
出典:wikipedia
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