鶴岡 慎也(つるおか しんや、1981年4月11日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(捕手)。前所属球団の北海道日本ハムファイターズでは2012年から選手会長を務めた。実弟は東邦ガス硬式野球部に所属の鶴岡和紘(捕手)。肝付町立高山小学校時代は高山ソフトボールスポーツ少年団に所属していて投手だった。高山中学ではボーイズリーグ・鹿屋ベイスターズで硬式野球を始め、投手を希望していたが監督により捕手へと転向させられた。(断って投手を続けていたらプロにはなれなかったと振り返っている)。捕手として全国大会で準優勝を経験。樟南高校では捕手として甲子園に2度出場。は2年春の第70回選抜高等学校野球大会に出場したが1回戦でPL学園に敗れた。2年夏は鹿児島大会準決勝で鹿児島実業高等学校の杉内俊哉に1失点完投され敗退。は主将を務め、3年春は九州大会の準々決勝で日南学園に完封負けを喫し、敗退。3年夏の鹿児島大会では枕崎高校との準決勝では逆転打を含む2本の三塁打で活躍し、鹿児島実業との決勝戦ではエース上野弘文を1失点完投勝利に導き決勝進出。第81回全国高等学校野球選手権大会では秋田高校との1回戦で甲子園初本塁打を記録、都城高校との3回戦では先制点となるスクイズを決め、守備では1失点に抑えた。準々決勝では上野をリードして青森山田を完封した。しかし準決勝の桐生第一(群馬県代表)戦で、後に日本ハムファイターズでチームメイトとなる正田樹と対戦し正田から1安打を放ったがチームは完封負けを喫した。なお、当時の樟南高校には上野弘文の他、一学年下に青野毅も在籍していた。その後は全日本選抜チームとして高校日米親善大会にも出場し、正田とバッテリーを組み活躍。社会人野球の三菱重工横浜硬式野球クラブへ進み3番打者を任され、後に日本ハムでチームメイトとなる石井裕也とバッテリーを組んでいた。に日本ハムの入団テストを受けたが不合格となった。に再び日本ハムの入団テストを受けて合格し、11月20日2002年度プロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから8巡目指名を受けて入団。同クラブでは1993年石井貴(元・埼玉西武ライオンズ)以来のプロ野球選手となった。1年目はイースタン・リーグで45試合に出場し、シーズン終盤は先発で常時出場した。打率.231、2本塁打だった。10月11日のファーム日本選手権では8番捕手として先発出場したが無安打に終わり敗戦。5月23日のイースタン・リーグ対湘南シーレックス戦の2回第1打席で若田部健一から右腕に死球を受け、3回守備の際に途中退場、後に右上腕尺骨骨折が発覚し、約2ヶ月間欠場した。7月27日のイースタンリーグ対読売ジャイアンツ戦で途中出場して実戦復帰を果たした。怪我の影響もあり二軍でも25試合の出場にとどまった。二軍41試合で打率.282という好調から7月24日にサンマリンスタジアム宮崎で行われたフレッシュオールスターゲームに8番捕手として先発出場して長峰昌司から先制本塁打を放ち、同試合の最優秀選手賞を受賞した。9月3日に一軍へ昇格、9月7日の対西武戦で代打起用によりプロ初出場を果たし、松坂大輔にライトフライに打ち取られたが、守備では岩本勉をリードし6者連続の凡退に抑えた。9月19日の対西武戦では本拠地・札幌ドームでの初出場を果たした。9月25日の対オリックス・バファローズ戦では9番捕手として初のスタメン出場・フル出場を果たし、守備では9回2失点に抑えて勝利に貢献、4回第2打席でジョッシュ・スチュワートからタイムリー打を放ってプロ初安打・初打点を記録、さらに二盗を成功してプロ初盗塁も記録した。プロ入り後初めて開幕を一軍で迎えたが、正捕手だった高橋信二が故障により5月の月間打率.063という打撃不振となったことから併用起用となりスターティングメンバーに定着した。5月13日に札幌ドームで行われた対横浜ベイスターズ戦で秦裕二の初球ストレートを左中間スタンドに運び初本塁打を記録し、これが決勝打となった。5月18日の対阪神タイガース戦では逆転タイムリー打を含む3安打でプロ初の猛打賞を記録した。5月19日の対広島東洋カープ戦では八木智哉をリードし8回を無失点に抑えて自身初の完封勝利(降雨コールド)を果たした。6月20日から7月7日まで球団タイ記録となる45年ぶりの11連勝の際に10試合で先発出場した。最終的にレギュラーシーズンは67試合に先発出場し、フル出場した16試合では10勝6敗、5完封勝利だった。スタメン時はプロ2年目のダルビッシュ有と15試合、同年の新人王・プロ1年目・八木と14試合とのバッテリーで大幅に勝ち越した。プレーオフでは全2試合にフル出場を果たし、完封勝利を含む2試合18イニング1失点のリードで25年ぶりのチームのリーグ優勝に貢献。日本シリーズは4試合に出場したが無安打に終わった。第1戦・第2戦で先発出場するも中日ドラゴンズにリードを許し、第3戦・第4戦は控えとなったが、王手を掛けた10月26日第5戦では5回1点ビハインドの場面では後の同点スクイズに繋がる送りバントを決め、守っては中日打線を8イニング1失点に抑えて勝利し、前身の東映以来となる44年ぶり2度目の日本一に貢献した。アジアシリーズでは11月9日予選リーグ第1戦の対サムスン・ライオンズ戦でフル出場し、9回1失点に抑えて勝利した。11月12日のLa Newベアーズとの決勝戦では先発出場して、ダルビッシュ降板までの7回0/3を無失点に抑え、7回一死三塁の場面ではトニー・フィオーレから決勝打となる先制タイムリーヒットを放ち、アジア制覇に貢献した。開幕を一軍で迎えたが、正捕手は高橋となり大半が控えでの出場となった。チームが借金3となった4月13日から先発出場が増え、14試合で自身の打率.300と好調だったが悪い流れは止められず併用起用となった。スタメンマスクのほぼ半分がダルビッシュ(同年・沢村栄治賞)とのコンビで19試合で13勝2敗3完封と相性も良く、専用捕手となっていた。他には1年目・吉川光夫と2年目・木下達生を初完封勝利へと導いた。しかし、八木の不振の影響もあり先発出場は減少した。チームは9月29日にリーグ連覇を達成したが、同日の出場はなかった。最終的にレギュラーシーズンは43試合に先発出場し、フル出場23試合では12勝11敗5完封勝利だった。打撃では打率.203と前年から大幅に成績を落とした。クライマックスシリーズ第2ステージではダルビッシュが先発した2試合で先発出場した。10月13日第1戦は2安打1得点、守っては7回2失点のリードで勝利に貢献した。10月18日第5戦ではダメ押しのタイムリー打で成瀬善久をノックアウトし、守っては8回1失点のリードで日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズは4試合出場したが無安打に終わった。10月27日第1戦は中日打線を9回1失点に抑えるリードで、ダルビッシュを1999年ダイエー・工藤公康以来のシリーズタイ記録13奪三振完投へ導き先勝に貢献した。チームは第2・第3試合を高橋信二先発マスクで落とし、10月31日第4戦で吉川とのコンビで先発機会を得たが、初回の味方のミスをカバーできず敗戦、11月1日第5戦はダルビッシュを8回1失点とリードしたが、その犠牲フライの1点が決勝打となり中日に完全試合を喫し、日本シリーズ敗退となった。オフの12月に視力矯正手術を行った。12月25日に一般女性と入籍3月20日の対千葉ロッテ戦でプロ入り後初めて開幕マスクを被り、守ってはダルビッシュを完封勝利へ導き打っては2安打で決勝点の走者として生還した。高橋信二、前年まで一軍未出場であった小山桂司に時折スタメンマスクを譲りながらも春から正捕手として出場を続けた。しかし鶴岡の打率が1割台となった7月中旬頃から高橋の起用が大幅に増えてシーズン終盤まで2人の併用となった。オールスターゲームのファン投票では捕手部門3位だったが選出はされなかった。9月29日の本拠地最終戦ではCSマジック3が点灯した千葉ロッテを迎えたが、ダルビッシュを9回1失点の完投勝利に導きCSへの望みを繋いだ。最終的にはレギュラーシーズンで自己最多の97試合に出場し、86試合に先発出場し、スタメンマスクの5人の中で飛びぬけた勝率.607を残した。フル出場した40試合では33勝6敗1分け、2完封勝利だった。ダルビッシュが先発した全24試合でマスクを被り16勝4敗。ブライアン・スウィーニーとは25試合中20試合組んで10勝を挙げ、多田野数人とも14試合試合で6勝を挙げた。吉川・八木の不調で結果を出せず、ヤクルトから移籍してきた藤井秀悟とは10試合で1勝5敗と相性が悪かった。またシーズン後半は抑え投手・MICHEALの登板時に中嶋聡と交代することが増えた。打撃ではスクイズを何度も成功させる場面があった。クライマックスシリーズ第1ステージは10月11日第1戦で8番捕手としてフル出場を果たし、ダルビッシュを9回1失点の完投勝利に導き、6回には4点目となるダメ押し犠飛も放った。第2ステージは3試合に先発出場し10打数4安打2打点と2勝に貢献した。10月18日第2戦に8番捕手でフル出場し、ダルビッシュを3安打完封勝利に導き、打っては3回にヒットで出塁して先制の走者として生還、ダメ押しの犠飛と活躍。10月19日第3戦では西武先発・帆足和幸との相性から人生初の2番打者として起用され、3回の4得点に繋がる安打、8回の追加点に繋がる犠打など勝利に貢献した。これはプロ野球のポストシーズンで初となる捕手の2番起用となった。8月25日以来となる武田勝とのコンビで連日の先発起用だったが、制球に苦しんだ武田を強気なリードで5回2失点(自責点1)とリードした。第4戦は2安打1打点と活躍したが、先発・スウィーニーと組んで3回で7失点と序盤で試合を壊した。2年連続開幕マスクとなったが3月4月は高橋や新人の大野奨太との併用となった。同年は八木が復調して再びコンビを組み、5月12日の対楽天戦ではフル出場して9回1失点完投勝利しチームも単独首位へと導いた。5月19日の対巨人戦では自身2度目の4打点を挙げた。翌日5月20日の同カードでは打っては勝ち越し二塁打、守っては2度のピンチを肩で救い、チームの貯金を11に伸ばした。8月19日にチーム単位の集団インフルエンザ感染による発熱で大野とともに離脱し、5月から右膝痛で一塁手および指名打者となっていた高橋やバッテリーコーチ兼任の40歳の中嶋がスタメンマスクを被る事態を招いた。その影響で福岡 Yahoo! JAPANドームで7戦全勝していたダルビッシュも敗戦しチームは5連敗した。8月22日に治療を終えてチームに合流した。10月4日の対ソフトバンク戦では1点ビハインド4回二死満塁の場面で大隣憲司から押し出し四球をもぎ取り同点とし、チームの猛攻を呼んで優勝マジック1を点灯させた。10月6日の対西武戦では2回に先制のタイムリー二塁打を打ち、リーグ優勝に貢献した。最終的にレギュラーシーズンでは自己最多となる122試合に出場、83試合に先発出場し、フル出場した52試合では43勝9敗、3完封勝利だった。ダルビッシュ(同年のMVP)、八木先発時のほぼ全ての試合で先発マスクを被り高い勝率を残した。また大野マスクで3敗していたプロ3年目・糸数敬作と6月30日からコンビを組み、プロ初勝利・プロ初完投を含む4勝を挙げ、リーグ優勝決定日も試合を作った。また抑え投手・武田久が登板する時に自身も抑え捕手として出場し、前年より出場機会を増やした。クライマックスシリーズ第2ステージは全4試合に出場して3試合で先発出場した。第1戦で7回6失点し代打で交代となったが、10月22日第2戦ではフル出場して楽天打線をソロ本塁打のみの1点に抑えた。10月24日第4戦では1点リードの7回守備から途中出場し、タイムリー内野安打を放ってリードを3点に広げ日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズでは全6試合に出場し5試合で先発マスクを被った。11月1日第2戦では指を骨折したまま一軍に復帰したダルビッシュをリードし、ツーランホームランの2失点のみに抑えて勝利した。第3戦では糸数をリードしたが3本のソロ本塁打を打たれて敗戦。11月5日第5戦では8回代打から守備についたが、1点リードから追いつかれ、再び勝ち越した9回にも同年負けなしの武田久をリードしたが本塁打を2本浴びて逆転サヨナラ負けの原因となった。11月7日第6戦では途中交代する7回まで2失点に抑えたが完封負けした。シーズン守備率は嶋基宏(.99699)と6糸差の2位(.99693)で、捕逸も2と少なかったことから三井ゴールデン・グラブ賞を初受賞した。球団としては1993年の田村藤夫以来の捕手での受賞となった。ダルビッシュがクイックモーションが苦手だった事で盗塁阻止率は.238とリーグ5位だった。開幕から26打席無安打と打撃不振に陥り、5月まで打率は1割台だったが、6月7日の対横浜戦ではプロ初の1試合4安打、同じく初の2試合連続本塁打を記録するなど調子を上げ、6月は月間62打数18安打の打率.290、3本塁打、11打点を残した。8月17日の対千葉ロッテ戦の2点リード二死一二塁守備の場面では井口資仁の右翼への打球方向を見て立っていた所、一塁から本塁を狙った今江敏晃の体当たりのようなスライディングにより転倒させられて激高し、あわや乱闘の騒ぎとなった。翌日の同カードでは5回に二度のブロックでピンチを救った。8月19日の同カードでは新人・中村勝を5回まで無失点とリードしたが6回にサブローに満塁本塁打を浴びてチームの自力優勝を消滅させた。9月21日の対オリックス戦では9回2点リード二死二三塁の場面で北川博敏にタイムリー打を打たれたが本塁を狙ったアーロム・バルディリスの体当たりを受けながらもボールを死守して勝利し、眼下にいたオリックスの自力CS進出を消滅させた。最終的に83試合で先発マスクを被り、フル出場した48試合では37勝10敗1分け、7完封勝利だった。ダルビッシュ有、新外国人のボビー・ケッペルとのコンビで各12勝を上げたが、他の先発投手ではあまり結果が出ず、同年最多勝の武田勝と組んだ大野の台頭を許した。盗塁阻止率はリーグ2位タイの.333だった。オフの11月20日に来季の背番号が22へ変更されることが発表された。2月23日の春季キャンプの守備練習中にぎっくり腰を発症し、リハビリ調整となった。オープン戦には守備で出場したものの、教育リーグでの二軍調整となり、3月31日のイースタン・リーグ対千葉ロッテ戦で眉間左に自打球を当てて担架で運ばれ、埼玉県内の病院で検査の結果、顔面の陥没骨折と診断され、4月6日に東京都内の病院で修復手術を受けた。5月23日に一軍へ合流し、5月24日に出場選手登録されて代打で復帰して安打を放ち、5月26日には守備で途中出場した。6月3日の対東京ヤクルトスワローズで先発マスクを被ったが、3回に吉川が畠山和洋にタイムリー打を浴び、チームの連続無失点イニング記録が52のタイ記録で止まり、プロ野球新記録とはならなかった。最終的にレギュラーシーズンは66試合でスタメンマスクを被り、フル出場した34試合では22勝10敗2分け、9完封勝利だった。骨折の影響で正捕手を大野に奪われたが、途中からダルビッシュ有と再びコンビを組み6勝、ケッペルとのコンビで10勝を挙げた。新人・斎藤佑樹とは7月からコンビを組んで84日ぶりの勝利に導いたものの、9月に4連敗して12試合で4勝4敗だった。クライマックスシリーズファーストステージは10月29日第1戦の延長11回同点の場面から守備で出場したが3失点を喫して敗戦した。オフの12月4日に2012年度の選手会長に就任することを発表した。また、長らく鶴岡とコンビを組んでいたダルビッシュがMLBへ移籍。開幕マスクで勝利したものの大野と併用起用され、7月上旬の大野の抹消をきっかけに正捕手となった。鶴岡の誕生日である4月11日に北九州市民球場で行われた対ソフトバンク戦では先制打を放ち、八木を3年ぶりの完封勝利に導いた。4月20日の対オリックス戦で2年目の斎藤佑樹を初の完封勝利に導いた。6月25日に捕手部門のファン投票1位でオールスター選出が発表された。オールスターは全3試合に出場した。7月20日第1戦で9番捕手で先発出場し無安打、7回4失点だった。第2戦・第3戦は守備のみの出場だった。8月21に旭川スタルヒン球場で行われた対オリックス戦では5回に2本のタイムリー打で3打点を挙げ、1966年東映時代に並ぶ1イニング11得点の球団記録に貢献した。9月28日に2位西武を本拠地で迎えた首位攻防戦で先発マスクを被り、吉川を完封勝利に導いて優勝マジック4を点灯させた。最終的にレギュラーシーズンは94試合でスタメンマスクを被り、フル出場した59試合では44勝9敗6分、10完封勝利(1完封引き分け)だった。同年のMVPを受賞した吉川とのコンビでは14勝を挙げて、10月23日に最優秀バッテリー賞を初受賞した。日本ハムでは1993年金石昭人-田村藤夫以来の受賞だった。また4月以降勝ち星に見放されていた武田勝と7月10日にコンビを組んで勝ち越し打を放ち武田の誕生日を白星で飾ると、その後4連勝して最終的に7勝2敗の成績を残した。打撃では打率.266と自己最高の成績を残した。CSの調整で出場した10月11日のみやざきフェニックスリーグ対中日戦の2回に本塁突入した際に、前田章宏と交錯して右足首を傷めて負傷交代した。クライマックスシリーズファイナルステージは全3試合に出場して無安打。10月17日第1戦でフル出場して9回2失点のリードで勝利、10月18日第2戦もフル出場でソフトバンク打線を完封。10月19日第3戦は7回3点リードから守備で出場して2 2/3を1失点にまとめて日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズ第1戦はスタメンマスクで7回8失点と敗れ、第3戦は9回から守備で出場して1回無失点だった。10月31日第4戦はスタメン出場して代打を送られるまで巨人打線を9回無失点に抑えた。11月1日第5戦で再びスタメンマスクを被ったが4回の守備で主審・柳田浩一の誤審により、多田野が危険球退場させられ、試合を立て直せず7イニングで8失点し敗戦した。第6戦では9回1点ビハインドの代打で当シリーズ初安打を放ったものの後続が倒れて日本一を逃した。オフの11月19日に捕手部門でベストナインを初受賞した。11月25日に2013年度も選手会長を留任することが決まった。開幕マスクで勝利したが、同年も大野と併用起用となった。4月は好ブロックで完封試合を作るなど順調だったが、5月5日からの先発マスクで6連敗した(チームは9連敗)。6月1日の対中日戦で出た2年ぶりの本塁打が新人・大谷翔平の初勝利を援護する逆転弾となった。6月16日の対ソフトバンク戦では8回同点二死一二塁の場面で代打起用されるとプロ初のヘッドスライディングでブライアン・ファルケンボーグから内野安打をもぎ取り、稲葉篤紀の勝ち越し打を呼んだ。6月26日の同カードでは10回無死二塁の場面でバントした所、一塁手の中村晃が悪送球し、チームは同年初のサヨナラ勝利で最下位を脱出した。7月1日に監督推薦でオールスターへ選出された。オールスターでは7月19日第1戦で4回守備から途中出場して澤村拓一から安打したが2盗塁・同点打を許した。第2戦は6回の守備のみ出場して1盗塁・1失点を許した。8月10日の対千葉ロッテ戦11回同点一死三塁の場面で代打起用され、藤岡貴裕からプロ11年目にして初のサヨナラタイムリー打を放った。8月23日の対オリックス戦では初めて指名打者で先発出場して2打点を挙げた。9月14日から先発マスクで6連敗し、チームは前年優勝からの最下位に終わった。最終的に76試合に先発出場して(指名打者1試合)、フル出場した41試合で24勝17敗、3完封勝利だった。移籍してきた木佐貫洋とのコンビで初勝利・完封勝利を含む9勝を挙げたものの、他の主力投手では負け越してチームの借金の大半を背負った。盗塁阻止率もリーグワーストの.188だった。打撃では規定未到達ながら自己最高の打率.295で終えた。11月14日にFA宣言を行い、11月30日に福岡ソフトバンクホークスへ移籍することを表明した。12月7日に同じくFAで中日ドラゴンズから移籍してきた中田賢一と共に入団会見を行い、背番号は8に決まった。年俸は同年と同額の7,600万円からの変動制で4年最大総額5億円プラス出来高払いの複数年契約を結んだ(金額は推定)。1月に第3子が誕生したこともあり家族を札幌に置いての単身赴任となった。前年の正捕手・細川亨が左肩痛で出遅れ、鶴岡はオープン戦で打率.417と打撃好調だったため、3月28日の対千葉ロッテ戦では開幕マスクを被り、フル出場して勝利した。3月29日の同カードの6回2点リード無死満塁の場面で松永昂大から四球を選んで移籍後初打点を挙げた。4月1日に行われた古巣の日本ハムとの試合でルイス・メンドーサから移籍後初安打を打った。開幕3戦目以降は先発に勝ち星が付かない事が続き、4月は細川と併用となり、5月以降は完全に第2捕手扱いとなり、期待されていた打撃も6月上旬まで打率1割台と極度の不振でオールスター以降は完全に細川に正捕手を奪われた。6月6日の対広島戦では九里亜蓮からプロ初となる1イニング2長打を放った。6月9日の対阪神戦では同年に移籍したジェイソン・スタンリッジを初完封勝利に導いた。7月4日の対楽天戦では細川の負傷交代で4回守備からマスクを被り、9回同点一死一二塁の場面では福山博之から二塁打を放って移籍後初のサヨナラタイムリーで初のお立ち台に立った。7月8日のオリックスとの首位攻防戦では走者が三塁にいる状態で2併殺を含む3凡退とチャンスを潰し、チームは対オリックス戦4連敗を喫して2位に転落した。8月2日の対日本ハム戦で2本の犠飛で古巣から初打点を挙げた。最終的にレギュラーシーズンは49試合で先発マスクを被り、フル出場した19試合では15勝4敗、2完封勝利だった。中田とのコンビでは開幕5連勝を含む9勝を挙げて中田の二桁勝利に貢献したが、他の投手とは目立つ成績を残せなかった。打撃では6月4日の対巨人戦、8月10日の対日本ハム戦、9月3日の対オリックス戦でスクイズを成功させたなど移籍後もスクイズを決める場面があったが、打率は前年から大幅に下げた。自主トレでスローイングを重点に行った結果、盗塁阻止率はリーグ2位の.390だった。古巣・日本ハムとの試合では4月23日の試合(東京ドーム)でまさかの5被弾を喫し、4月までの5試合で被本塁打10本中9本を打たれるなど相性が悪く、先発マスクを被った全6試合で1度も先発投手に白星を付けることができず、打撃も17打数1安打の打率.059に抑えられた。日本ハムとのクライマックスシリーズファイナルステージは10月15日第1戦で1点ビハインドの8回守備から出場して2回無失点に抑えてサヨナラ勝利を呼んだが、第2戦・第3戦でビハインドの場面から途中出場して連日失点した事により以降の試合は出場できなかった。クライマックスシリーズ後に扁桃炎を発症して10月22日から全体練習を2日間欠場した。日本シリーズは全試合にベンチ入りしたが出場はなかった。正捕手・細川の骨折、高谷裕亮のインフルエンザ出遅れにより移籍後2年連続の開幕マスクとなった。4月11日の対日本ハム戦では自身の誕生日に故郷・鹿児島県立鴨池野球場でプロ初出場・初安打を記録した(前年は雨天中止)。同年は、自身のケガや高谷の活躍などがあった為、一軍定着後最少となる56試合の出場に留まった。同年より背番号を33へ変更。「投手に気持ち良く投げさせることがキャッチャーの一番の仕事」だと鶴岡は言い、生きた球を投手に投げて貰う為に投手の投げたい球を中心に配球し、ベテラン打者に対しては感性による読み合いを大事にしている。投手の持ち味を生かした柔軟なリードとインサイドワークに定評がある。肩はスピードガンで135km/h前後と決して強くないが、送球動作が速く安定したスローイングに定評がある。2010年、2014年は盗塁阻止率リーグ2位となったが2013年はリーグワーストを記録した。持ち前の当たり強さを活かしたブロックにも非常に定評があり、捕球とブロックのどちらか一方を優先させるのではなく、バランス良く確実な捕球とブロックの調和が取れる捕手である。足が遅く、日本ハム時代に梨田昌孝監督から何度も話題にされた。打撃は2014年度終了時点で三振率.163と三振は少ないが、四球も少なく通算出塁率.270と低い。日本ハム時代は愛嬌のあるキャラクターで地元ファンの人気も高く、チーム屈指のムードメーカーだった。前歯が出ており、顔がガチャピンに似ていると言われることがある。2011年2月のキャンプで初対面し、同年同月と2012年6月にガチャピンと鶴岡とのコラボレーション商品が発売された。三菱重工横浜時代に目標としていた選手は古田敦也で、2002年には日本ハム以外に福岡ダイエーホークスの入団テストも受けていた。2010年オフに建山義紀がテキサス・レンジャーズへ移籍した際、配球のイロハを教わった事から「ほかの人がつけるなら自分」と背番号変更を決めた。日本人では数少ないウイルソンブランドのプロテクターとキャッチャーマスクを使用している。キャッチャーマスクの衝撃吸収スポンジにカーキ色の素材を使用したものを使っていた(日本ハムの場合通常黒色)。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。